第百三十七話 事実は消えない
コトコトコトコト、ギィィィ、ガコン!
「あ~、もう~いーの?」
背もたれも肘起きもない唯の丸椅子に座って船長の訪れを待っていたらしいケイトはそっけなく普段の調子でそう言いながら顔を上げた。
そこは、ケイトの船室。そして、医療室でもあった場所。残ったのがこの二人となっては、当分の間はその用途の半分を満たさないであろう場所。
幾つか並ぶ木のベットと、真っ白さを保たれた清潔な布地が並ぶ。背もたれのないその黒くて背の高い丸椅子一つが、ケイトの、モンスターフィッシャーとしてのものではない唯一の私物。窓は無く、天井は手を伸ばせば届く程度に低く、明かりはケイトの足元の、鳥籠の中の蛍梟の光だけ。
船長は椅子の最も近くにあるベットに向かってゆったりゆっくり歩を進め、
コト、コト、コト、コト――
「あぁ。合理性を取り戻したら、こんなもんだ。……。悲しいもんだ。こんなにもあっさり、割り切れちまう人間だったってことを思い出しちまって、嫌気が差すぜ、自分によぉ」
ギッ、ガス!
「はぁぁぁぁ……。何でわざわざ、拾った安寧を捨てるかねぇ、俺って奴はよぉ……」
そう、身を放り出して嘆いた。何とも感情の籠もってない嘆きを。その表情には涙の痕すら、もう無かったのだから。とりとめない後悔が無意味と、もう、思い出してしまったから。
きっともう、船長は、並みの人らしく、感傷の涙は流すことは無いのだろう。
「『愛した、ではなくて、愛している女を捨て去って、それでも前に進むのかぁ?』とでも、続くんでしょ~? 泣けない代わりに言葉にするなんて、それこそ、意味無いでしょ?」
ケイトは分かったような口を利いた。
「あぁ。そーだよ。分かってんだけどなぁ、それすらもうすぐできなくなりそうでよぉ。だから、今のうちにやっておくんだ」
ザッ。
「結局のところ、てめぇのせいだよ。なぁ、ケイト」
船長がベットから起き上がり、ケイトを睨んでいる。殺意と苦悩の混じった目。濁った迷いの目。今にも刃を向けてしまいそうなのを辛うじて抑えこんでいるかのよう。その証拠に、この部屋唯一の光が消えた。殺気に当てられ、蛍梟が意識を失ったのだ。
暫く続いた沈黙。それは、ほんの数秒だったかも知れないし、数十分程度続いたかも知れない。兎に角、長く感じられるような、嫌な沈黙が続き、先に動いたのは、ケイト。
「何が?」
いつの間にか、船長の顎をくいっと左手で掬い上げ、右手で首元に肉刀を当てて、冷たくケイトは言い放った。だが、船長は暗闇の中でも目が利く。ケイト程ではないとしても、闇に目が慣れるのは早い。だから、気付いていたのだ。だから、抵抗しなかったのだ。ケイトが、ずっと、そう自分に向けて言いたかったのだと、船長は読み取っていたから。
だから後は答えるかどうか。そして、わざわざ、こんな風に脅すような形をなぞったのは、
「……。もういい」
何も言わない、という選択も有りだということ。寧ろ、それをケイトは望んでいるということ。きっとそれは、ケイトがモンスターフィッシャーであることとは関係ない。それ以外の、ケイトの大きな部分から出た言葉だ。しかし、船長に分かるのはそこまで。心は読めても、その意までは分からない。もう、それをひっそりと補完してくれる存在は傍にいないのだから。
ケイトは船長から離れ下がり、
ガシャシャ、ブンブン!
蛍梟を揺すり起こして、再び椅子に座った。
「『もういい』ねぇ~。あれでも変われないって~、そりゃ、無責任だよ~。船長の場合、知らなかったんだから仕方無いけどさぁ~。私があの子だったら~、何だか、やるせないかな~。やるせないで済まないけどね~、ホントは。そういうの私、職業柄結構見てきてるからねぇ~。まぁ、一生打ち明けないってのも、ありっちゃアリだと思うよ~」
ガコン。
船長はまた体をベットに沈めた。
「結局言うのかよ。なら分かってると思うが、俺は言わねぇ。証拠も無ぇ。それに、こんな事実無くても上手く回ってる。なら、このまま忘れ去られるべきだ。俺もお前も忘れれば、知る者はいねぇ。そういうことだろう? 忘れるかどうかを俺に選ばせる為にこんな臭い話をしやがった訳だ」
ガッ、コト、コト、コト、コト。
「はいこれ」
ケイトが差し出したのは、黄ばんだ紙片に包まれた、
「これを飲めば忘れられる、ってか? じゃ、頂くぜ」
古い薬。船長はそれを迷わず、全部飲んだ。声は笑っていたが、目は死んでいた。盗み聞かされた事実は、どうしようもなく、重い。それが、彼自身だけに関わらないからこそ、今の彼にもそれは、響く。彼にとってそれがどうしようもなく価値あるものだからこそ、響く。
ザァァァァ。
水も無しに、その黒い粉末一包分を船長は大きく開けた口、その先、喉へと、注ぎ切った。
ゴキュッ。
「……。どうしてお前は飲まねぇ……?」
そう船長が聞くと、
「船長。事実は消えない」
ケイトはそう、冷たく言い放った。叫ぶでもなく、声を潜めるでもなく、間延びはしていないが、普段通りの声で、そうはっきりと、事実を叩きつけた。
「……」
「半端ね。だから、何もかもその手から結局取り零す。今は半分取り零している。少し前、半分拾った。それを掌から取り零す日は、その感じだと近いのかもね」
「……」
「そうなったら、貴方は本当に、終わり。所詮、一人じゃ、立てないんだもの。何か縋るものが無いと、背負うものがないと、どうしようもなく脆いんだもの。結局貴方は、私に出会ったとき、私に言った通り、『偽物の勇者』なんだ」
「……」
スッ、コトコトコトコト、ギィィ、ガコン。
ケイトがそう言い残して部屋を出ていった。
「……」
取り残された船長は、心の中で自嘲する。
(俺は……人でなしだ……)
そして、眠りへ。きっと、どうしようもなく重く辛い悪夢を見るだろうと分かっていて、進んでその罰を受け入れる。きっとケイトも今頃そうしているだろうと考えたのが、その夜の船長の最後の思索だった。




