第百三十三話 意識の彼岸
メキメキメキメキ――
ケイトはそれを剥がさない。だって、こんなの、剥がせないでしょ、とその態度が物語っている。
リールは鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにして、鼻先と目頭を赤くして、それはもう、身分と儀礼の鎧の下の、年相応の子供な素顔だった。彼女のケイト程に強くはない心は、強がってばかりの、義務に苛まれた心は、今にも崩れそうな位にボロボロだった。
大人への蛹な彼女は、今、最も、脆い。
『私に言えることは二つ~。一ぉ~つ。貴方の愛しの、多分運命の相手のポンちゃんに貴方なりの別れを告告げること~。ポンちゃんに理解して貰う必要はないよ~。寧ろ、分からない、分かって貰えない感じに言えばいいよ~。流れも文脈も無視して~。二ぁ~つ。直接、会って、言うこと。ごめんなさい、って。それには何も添えなくていいよ~』
ビキビキボキィィッ!
とうとうケイトの左手首は、音を立てて砕けた。ケイトはそれでも痛がらない。憐れむような目で、リールを見ている。待っている。リールが顔を上げるのを。
『それって、それって、……グゥゥゥゥ、クシュゥ、結局一つじゃない!』
鼻水をケイトの胸元で思いっきりかんで、埋ずくめた顔を、鼻から糸を張り、垂らしつつ、口元へ付着させつつ、泣き事な叫びを吐き出した。
『それどころか、一言じゃない。唯、ごめんなさい、って言って、逃げるように立ち去れってことじゃない!』
ケイトの砕いた左手首のことを謝ることすら、それに罪悪感を感じることすらせず、リールはらしくなく取り乱して、自分勝手にほざいた。彼女自身が選んだことだ。それが自分勝手以外の何者でもないことは明らかだ。
ケイトは既に一度、家から逃げている。半端にだが、逃げて、遠く遠くまで、一度、行った。なら、今度は、半端にでなく、家を捨てるように去ればいいのだ。少年を伴って。
だから、馬鹿なのだ。それが、今一番したいことで、そうするのが、最終的には何もかも上手くいく形であると、リールは分かっているというのに。そうして、一番大切なものを、取り零すのだ。私のように。
船長は目の前の映像から得られる情報はないとして、情報の整理に意識の大半を割いて取り掛かっていた。
(焦っても仕方無ぇ……。どちらにせよ、現実で問い質さなくてはならない内容を向こうから見せてくれてるって考えりゃいい。少なくとも、未だ、リールは生きているんだからよぉ。ボウズは分からねぇが、リールよりあいつの方がずっとしぶといだろうから、リールが生きてる以上はボウズは生きてるだろうよ。シュトーレンの奴は正味どうでもいいが、あいつはあいつで、二人の生存にそれなりに役だってくれるだろうし、後々のこともある)
だから、未だ映像は続いているが、残りは蛇足でしかない。だが、それでも止めないということは、未だケイトにとって、意味はある、船長に伝えたい部分は未だ、だということなのだろう。僅かに船長が映像の方に意識を残しているのはそういう訳である。
『リールちゃん。たったと終わらせましょっか。この話。こんな半端な形で終わらせちゃ、ダメでしょ~? 要するに、私へのお願いは、貴方は何か切羽詰まってて~、私にこれを預かって欲しいってことでいいんだよね~?』
ケイトがそう言いながら、その針を翳し、それを掴んだ手を動かし、観察する。つまり、ケイトは話を畳に掛かったということ。巻きに入ったのか、単調な部分を省いたのか。
『……』
リールは唯、小さく頷いた。
(生命力の状態によって色が変化するが、俺は指し示す対象死亡時の場合の色は、灰色がマーブル模様に混ざったかのような白。石のように冷たく、光を放たなくなる……。さっきの色、真っ赤な赤色になったのが、今なのか、もっと前なのか)
『嘗て、カツオノエボシと言われた、それなりに危険な生物の変異種がモンスターフィッシュとして認定されたもので、変異前はヒドロ虫の群体だったものが、数体単位で一体のクラゲとしての各種器官に分化して振る舞っていた、最初期に命名・認定されたモンスターフィッシュの一種、だったっけ~?』
ケイトは、リールの、平静な振りの下に隠れた危なげな、思い詰めた感じをちゃんと分かっている。何だかんだ、矢鱈丁寧に話を進めていく。
『だから、これは、命を測る道具。仮にも貴族な貴方の命の場所と状態を現す。だから~、私に渡した、と。初めからこの道具のことを知ってる相手に言うのが一番良いよね~。それでもって~、死に急いではいなくて~、裏切る理由がない~、できない~、そんな相手~。確かに私は人を信じていないわ~。ど~して分かったのかしら~、ケイトちゃん。私のこと、調べた? 今の貴方が嘘ついても無駄よ。普段の貴方ならともかく、今は隠せない。単純に隠すだけの力量を発揮できない。隠したと疑われるだけで、裏切る理由がない筈の私に、裏切りの理由を作ってやることになる。だから、小賢しい小娘でしなない、所詮何処まで行ってもいい子ちゃんの貴方には事実を言う以外、無い。待たないわよ。ほら』
ケイトは、左手に肉刀を握り、胸元越しに自身の顔を仰ぎ見ているケイトに肉刀を向ける。
そして、ケイトの言葉通りなリールにはそれで意図は伝わった。
『有効期限は十年。私がそれに標識されてからの期限。【ヒドロピカリ】の枝葉のような針状の触手一本一本は、獲物と定めた生物の心臓を、憶える。音と熱で。その仕組みを利用して作られたのが、【方位命針】。後は、ケイトさんが知ってる通り』
『気泡体の処分は?』
『?』
『母体のことよ』
『ケイトさん、本当に全部、知ってるんだね……』
『私のこと調べたんなら、それが当然のことだって分かってるでしょう?』
『……ごめんなさい』
『違うでしょ。それは、私にじゃなくて…―』
『ポンちゃんにだけ……言うべき……言葉……』
『それでいいの。後は上手いことやっておいてあげるから』
『ケイトさん、私、やっぱり、馬鹿でした……』
『分かってるなら、いいわよ。じゃ、バイバイ、リールちゃん』
と、ケイトがリールの頭を撫で、場面がフェードアウトしていく。
(……。にしても、酷ぇやり方だもんだな、ケイトぉぉ。最初から最後まで、何てぇざまだ……。てめぇのせいで初動が遅れた。まぁいい。映像が終わったら、その分の埋め合わせは必ずしてもらうぜ)
全てが闇に解けるか解けないかの辺りで
(っ!)
一瞬――それは垣間見えた。故意か偶然か。船長はその映像の欠片を、手繰り寄せようとすると、それは、船長を呑み込むように展開し、
黒い靄の視界で、所々隠された、昼下がりの、東京フロート。その何処か。恐らく町外れ。場所までは特定できない。
視界の八割方が隠されてしまっている。僅かに見える部分が、肝要である部分を欠かさず映していることから、
(これ、か。そういう……ことか、ケェイィィトォォォォ! 何処だ、此処は、あの街の、何処、だぁああああああ!)
(言ぇえええええ! ケイトォオォオオオオオオオ!)
外のケイトに届かせるつもりで叫んだつもりだったのに、それは、形ある声にすらなりはしなかった。はらわたが煮えくり返りそうだったが、船長は、耐える。ここはケイトの見せる夢の中。肉体は此処には無いのだ。これは、過去でしかないのだ。どれだけ渇望した光景が、その手から零してしまった不始末を、やり直すことなんて、できはしないのだ。
歯ぎしることも、拳を握り締め、振り上げることも、地団駄を踏むことすらも、できやしない。そして、目を背けるという手段を取れるほど、船長は、利口ではなかった。
少年とケイト、そして、シュトーレン。消えた三人。真っ昼間。遥か遠くの未だ未だ続いている歓声混じりの喧噪と不釣り合いに、周囲には不自然な位に人がいる感じではない。皆無と言ったほうがいい。三人以外、誰もいないに違いない。だから、家々がある区画でもない。明らかに人払いがされている。その周囲一帯が発信源の音は一切していないのだから。
これが誰の視線か。それは明らかで。知っていて、見ていて、止めることすら、知らせることすら、今日このときまでしなかった、ということなのだから。
三人は、海にせり出したある一角へ。そこに止めてある船に乗り込む。それは、シュトーレンが後に船長に代理を任せた船。
そこから、何か、箱、というより、一つの小さな部屋のような直方体の物体がこれまた、光の角度によって辛うじて存在が視認できる透明な糸によって宙釣りのように垂らされていて、箱の中には少年とケイトとシュトーレンがいて、ゆっくりとそれは、水の中に沈んでいった。
それから同じ視界の光景で固定されたまま、一気に時間が早送りで進み、夕方。
海水を吸っていて、少しばかり白く色ついていた糸が、
プツッ。
小さな音をあげ、切れた。
(ケェェ……ィイイイ、トォオオオオオオオオオオオオオ!)
急速にフェードアウト。映像はそうして終わった。それは、夢の中だからこそ、最後まで見せられ、今更であるが見せられ、最後まで意識を保って見ていられた、光景。
次話と次々話で種明かししてこの章は締めます。




