第百二十六話 蚊帳の外、波音だけの静寂 後編
ロッジの中。
夜も深まった頃。明かりは付けたまま。ベットに寝かされており、置いていくかと思われていた老人も、彼らは連れていったらしい。
部屋を船長が物色し、
ガサガサ。スッ。
「……。あいつ、戻って来ねぇつもりだな?その証拠に、ボトルシップ持ってってやがる。置き手紙は無いが、丁寧に、食料一食分だけ置いてってある。カチカチのパンと、白カビチーズ」
と、棚に置かれていたそれを手に取り、ケイトに見せた。
「そりゃそうでしょ~。あの子は、船を降りたコたちと同じ側よ~」
つまり、形だけでも友好的に、青年は、船長に接したということ。本当は直ぐにでも船長の前からいなくなりたかった、ということ。
「あいつ、抱え込む奴だったもんなぁ……」
「今更、でしょ~? それに、抱え込むといったら、船長だって~、そうでしょ~?」
「……。もしかして、見たのか?」
「うん~。お蔭で、私は、こぉやって、何とか戻れたよ~。まだ壊れた、ままだけど~。でも~、義務は続けられる~。だから一つ。はい、これ~」
ボトッ!
それを手渡された瞬間、船長の顔色が変わる。ほぼ無表情に近かった、冷めきった表情が、凍りついた
「ん、…………――っ!」
かと思うと、急沸。目が、瞳孔が開き、ケイトの方を見る。視界が揺らぎ始め、頭に鈍痛が響き渡る。目に映る光景は、現実を上書きするかのように、別の光景を見せ始める。
ちらりと見えた光景に映った人物を見て、一度船長の心は硬直し、そして、沸騰したのだ。
(リール……、だと……! 時間軸は、あの島での式典の、後……。つまり、こいつは……)
「その通りぃ~! そ~ゆ~こと~。言葉なんかよりもずっと分かりやすいよね~。あの魚たちが~私らに絡めた糸。船を降りちゃったコたちは~これを活かすこともできず、今日船長の元から離れていっちゃったけど、未だ、糸の全てが切れた訳じゃない。あの魚たちが絡み付かせた糸は、私と船長の間にパスを作ってるから~、こんなことができる訳~」
ケイトはそんな船長と目を合わせ、嗤っている。舐め腐るように、振り回して玩ぶように、まるでそれは子供染みた悪意と大人の悪知恵を混ぜ合わせたような、侮辱。船長はその、赤い針のようなものが何であるか知らない。見たこともない。だというのに、デジャブのような既視感が、その針の背景が、過去を、伝えてくる。それは、ケイトの記憶。ある過去の、記憶。
「ケイトぉぉ……、お前……、何のつもり……だ……」
脂汗塗れの船長は床に臥せ、それに合わせてしゃがみ込んだケイトを見上げるように、凄む。
「聞くより見た方が早いよぉ~? きっと、私に感謝したくなるよぉ~」
ケイトが頬杖をつきながら嘲笑ってそう言うと、船長の脳裏に場面が構成されていく。まるで自分の目でその場にいてリアルタイムで見ているかのような、色も音も匂いもある、光景。
それは、ケイトの過去の記憶。それが船長の脳裏に映されたのは、未だ残っていた夢による精神の繋がりの糸。今日この日までは国内レベルでは一流のモンスターフィッシャーだった彼らが、たった一回の失敗で砕けた原因、感覚と意識と記憶とその場での経験の共有の、混濁するような多重疑似経験。彼らは何度も死の疑似経験を繰り返し、増幅してしまったのだ。船長による殺傷の記憶をその大部分として。
死と隣り合わせでな筈のモンスターフィッシャーたる彼らが折れた実のところの理由は、それである。彼らの無鉄砲さは、恐れ知らずは、死んでも治りはしない。だが、それが一度でないなら? 何度も何度も、そしてそれが同時に幾重にも重なって、押し寄せてきたら? 普通なら廃人だ。彼らだからこそ、この程度で済んだのだ。
当然折れてなかったシュトーレンの侍従であった一部のモンスターフィッシャーたちも同じものを味わっている。船長やケイトも同じものを味わっている。程度には差があった可能性があるが、そんなもの、誤差としての意味すら成さない。それが境界線には成り得ない。
それでも折れなかったのは、折れる訳にはいかない、狂信に近い信念や願いがあったから。
「ケイトは、船長にじゃなくて~、私に託した。それがどういうことか~、分かる~?」
もう船長の視界は禄に現実を認識できず、ケイトの声も認識での補正で聞き取れているだけに過ぎない。そしてとうとう、その瞼が、落ち、た。
疑似の経験を共有し、幾重にも反芻するかのように、その糸は人の心の産物を、増幅し――――船長が今日この時まで知ることのできなかった、二度目の喪失物を拾い上げる為の鍵が、姿を現す。




