第百二十五話 蚊帳の外、波音だけの静寂 前編
ザァァ、ザァァァァ――
そこは、真っ白な砂で覆われた、透明な海の波打ち際。
スタッ、スタッ、スタッ、スタッ――
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――
徐々に夕焼け色に染まり始めたその海岸を二人の人物が並んで歩いている。島の東端、この白鳥の形の島の尾のような先端に立って海の向こうを見て佇んでいた一人と、もう一人が合流し、歩き出したところだった。
二人は、西の方角を見つめる。かなりの距離があるが、遮るものもなく、目が利くのだから、二人にはその様子がよく見える。そこから聞こえてくる筈の物音も、人々の声も、波の音に打ち消される距離でありながら。
まるで、自分たちが部外者であるかのように。
ロッジの主である青年が、船着き場に泊めてあったそのガレアス船に、人々を乗せていく。彼らは振り返らない。まるで逃げるかのように、その船に乗り込み、安堵の表情を見せる。
ガレアス船は帆+人力での櫂の操作で動かす。帆を張って、風による推進力と、櫂による推進力で望む方向へと進んでいく。チームワークが必要だが、彼らに関してはそれは心配する必要はない。
そんなことよりも、モンスターフィッシュに襲われる恐れもある来た海路を引き返すことになる訳なのだから、そのことについて頭を働かせるべきだろう。決して弛みきってはいけない。つまり、これから踏ん張らないといけないということだ。だが、そんなものより、何より、船長が近くにいる状態の方が怖いらしい。
「まぁ、こうなるよな」
「そ〜ね」
そう言う二人。一人は男で、一人は女。同意を求めたのが男で、返事を返しのが女。
二人の顔は、夕日に照らされ、逆光の側に立っており、見えない。だが、決して笑ってはいないだろう。泣いてはいないだろう。怒ってもいないし、喜んでいる筈もない。
「それだけか?」
「それだけ~。だって~、それで、十分だから~」
「……」
「それで、正し~の」
男はきっと、責めて欲しかったのだろう。だが、女は責めるどころか、まるで肯定するかのような返事を返す。
「……」
「……」
ザァァ、ザァァァァ――
二人はいつの間にか足を止め、唯じっと、船出を眺めていた。まるで、その場に置いていかれたかのように、二人は虚ろな気持ちだったのだろう。そこからそれ以上、動けなかったのだから。西へ叫びを向けることすらできなかったのだから。
夕日が地平線に迫る。日の角度が下がり、弱まる逆光。二人の顔が、斜め下から、照らし出される。
「ケイト、あいつら、行っちまったな。シュトーレンの侍従ですら、結局、あっちに行っちまった」
「船~長。分かってたことでしょ~。こうなるって~分かっててしても、それは結局、別れってこと」
その二人、船長とケイトの顔が。
船を降り、船長とケイトから離れた船員たち。彼らの心は、別れ際、もう既に彼によって麻痺していて、彼に対して恐怖の感情どころか、感謝や感激といった感情を抱いていたが、それは表面上から心の中層辺りまでのこと。無意識下に刻まれた心の記憶は、誰由来か分からなくなっている得体の知れない恐怖として残っている。
二人があれだけの大量の船員の離脱を放っているどころか、自分たちの船の見張りすらしないでいるのはそれが理由である。どうせ、彼らでは自らの意思では、積極的には、海にもう出られはしない。それに、あの特異な船の仕様を船長は知って、理解までしている。船長さえいれば、あの船は動くのだから。
「ま~た理解して貰えなかった~ね」
「あぁ。そういうもんさ。それに、あいつらは、外洋に出るってことの意味を、舐めていたんだから、これも当然だろうさ。こうして、取り返しのつかなくなる前に教えて、救ってやれたんだ。悪くは、ねぇ、さ」
だから、結果を見れば、結局のところ、そうとしか見えない。
ザァァァァ、ザァァァァ!
波打ち際を、二人は行って戻るかのようにぐるりと歩く。往復するかのように、数十メートルの一定区間を何度も。立ち去りもしないが、遠くの彼らの元に赴こうともしない。それは、どうしようもなく半端だった。二人も、だいぶ逸脱してはいるが、所詮は人である。化け物染みた精神性を持っているとはいえ、基は人間である。だからこれは、当然だ。
「『悪くは、ねぇ、さ』ねぇ~。うん、やっぱり~、私と出会ったときよりは、酷くないかも~。やっぱり~、ポンくんが死んでないから~? ケイトちゃんがぁ~、死んだ気がしないからぁ~? 未だ、二度目の希望を失ってないから~?」
ケイトはまるで土足で心に踏み込むかのように船長を揺さぶった。だが、それは必要なこと。
「そういうお前は全く大丈夫そうだな。何も情報が無いより、本当に言葉通り断片でも何か掴めたなら全身、ってか? いつも通りの口調にもう戻ってやがる。壊れて正常って、お前やっぱ、狂ってるわ。で、俺はどうやら、思ってたよりも、ヤバそうだ」
船長も、ケイトの船長くらいしか知らない事情を突く。そうやって、互いの心の傷を確かめ合う。きっと、二人から離れていった彼らには、決してこれは理解できないだろう。こうまでして、折れずにいようとする程の何かも、そんな何かに匹敵する覚悟も持ち合わせていなかった彼らには。
「……。これだけは何度経験しても、慣れねぇな……」
「それよりも、夢を、目的を、取ったんでしょ~、私たちは」
「……。そうだ」
「……。だから、こんなことで停滞するのは止めてね~。ポンちゃんがいなくなっても何とか止まらずにいれたのに、もしこんなので止まっちゃったら、そのとき全部諦めたら良かった、ってなるよ~」
夕日は、水平線へと、落ちた。もう、船は見えない。謝る、懺悔する最後の機会を逃し、二人はまたも、自身に枷を課す。
二人の願いは、途方に過ぎる。だから、それへ向かう為には、犠牲を常に強いられる。一度でもそれを渋れば届かなくなるかも知れない。願いへの残りの距離を二人は知らないのだから。
「……」
「……」
夜の闇が訪れても、二人は無言のまま、結局歩き出さず、見えない先を見つめていた。
ザァァ、ザァァァァ――
変わらず波の音だけが海岸に響いていた。




