第百二十三話 たったそれ位のことで 後編
船長と別れた後の彼らのその後については、本来、記す価値もない。だが、それでも敢えて記すとするなら、恐らく、この一文で終わる。
彼らは、文字通り、未来を捨てた。
夢で死に、その結果、現実で、彼らは、モンスターフィッシャーとしてどころか、唯の釣り人としても、それどころか、唯人としても、死んだも同然に、心に取り返しのない傷を負った。一部、心を壊した。一部、現実から精神が逃避してしまった。一部、再起不能になった。一部、現実で、夢の死を辿った。
それでも記さなければならないのは、彼らの中に、折れなかった者たちがいるからだ。
だが、よく思い出して欲しい。彼らというのは、実のところ、この船の全員ではない。当然、船長とケイトを除くという前提の上で。
船に乗っていて、寝ていた者たち、あの夢の中で、船長に殺されなかった者たちが確かに存在していた。その者たちは、日本で一流といえるモンスターフィッシャーであったが、生粋のモンスターフィッシャーではなかった。モンスターフィッシャーである前に、その者たちは、大事に誇りにしていることがあったからだ。
シュトーレンの従者、であること。
あの老人と、あの老人と同じ思いを抱きながら、あの老人の気持ちを行為を汲んで、鉾を収めた者たちがいた。その者たちは船長に砕かれていない。夢では運よくと言っていいかは定かではないが、限りなく死に近い死を直接は体感しなかった。シュトーレンの従者たちの中で唯一二度の狂刃を食らったあの老人ですら、死に至らなかった。
だから、彼らの、その、本来不安定どころか、唯の過去の幻想と成り果てたかも知れない、その支柱。彼らが信じるが故に、諦めない故に、折れはしない。
シュトーレンの行方は分かりはしないが、その者たちは、それでもシュトーレンを信じている。主たるシュトーレンを。絶対に生きている、と。彼らはあの男、シュトーレン=マークス=モラーを、最もよく知る者たちだからだ。
シュトーレンに限り、何の痕跡も残さず、死ぬなんてことはあり得ない。唯、消えるように行方不明なぞ、有り得ない、と。
だから、何処かで、どうしようもなく、足掻き、未だ生きていて、いつか、自分たちの元へ姿を見せるに違いない、と信じている。きっとその者たちは、シュトーレンの死ぬそのときでも実際に直接目にしない限り、絶対に信じはしない。
その者たちの、その念は、真の一流の持つ不屈に比肩、時に凌駕する。だから、その者たちの名は出なくとも、有り方は、示されるだけの意味も価値も、あるのだ。
ことん、ことん――
ギィィ、グゥイイイ――
ザァァ、ザァァァァ――
ケイトがその老人を運ぶ最中、そこにいる者たちは静まり返っていた。ケイトが甲板を老人を抱えて歩く音と、昼の穏やかな海の波の音、それに揺らぐ船の音。そこに、彼らの騒めきなど、ない。
ギィィ、ガコン。
船内への扉閉まった後、船長はすぐさま口を開いた。そこにいる彼らに向けて。ついさっき、現実ですら仲間の一人を躊躇なく斬り捨ててみせたばかりだというのに、まるで何事もなかったかのような、普段の口調に、普段の雰囲気。だからこそ、彼らにとってそれは、もう、理解の外。
「お前ら。もうすぐこの船は次の島に着く。そこは、辛うじて、日本国内だ。人工島ではあるがな。接近しねぇと見えねぇからもう暫く辛抱して貰うことになるが。もう分かっていると思うが、この船は、お前たち無しでも動く。これはそういう船だ。だから、またモンスターフィッシュ級の何かに襲われでもしない限り着かないなんてことは無ぇし、お前ら、一応モンスターフィッシャーだったんだから知ってんだろう?」
船長がそう言うと、彼らの表情の陰りが薄くなった。船長は未だ、言葉を続ける。それは、船長なりの慈悲。船長なりの、彼らへの救い。船長は確かに彼らを捨てたが、何も、蔑ろにしたかった訳ではない。唯、必要に迫られたからであり、そうするのが最も合理的であったからだけに過ぎない。船長は、できる限り、自身が興味を抱けない、失った者たちに対しても、できる限りのことはする。そして、それは化け物の献身。だが、彼らの心に届く献身。せめてもの情けというような、彼らへの、モンスターフィッシャーとしての安楽の死を与えたのだ。
船長の目を見れば、彼らは分かる。分からされてしまう。受け入れさせられてしまう。そして、それを、彼らは、自発的な、自身の心の内からの感情であると誤解してしまう。
船長に悪気はない。彼らにも悪気はない。だからこれは、船長の呪いだ。英雄の、呪い。勇者の、呪い。呪われし勇者が、無慈悲に振り翳す、容赦のない血刃だ。
だからこそ、もう、万に一つも、彼らが再起する目は木っ端微塵に砕かれ、失われた。そう、あの場で、目を開けていた、生粋のモンスターフィッシャーであり、モンスターフィッシャーという生き方のこの日このときまで成功者であった彼らは、船長の言葉に、沈む。
「やべぇのがいたら、その近くにはもうやべぇ奴は、共存でもしてねぇ限りいねぇ。で、あの状況でそういった奴らが割り込んで来なかった地点で、他に何かいるとは考え難い。ってことだから、安心して、次の島で船を降りて欲しい。なに、心配すんな。俺の知り合いが、その島にいる。お前らみてぇに、元モンスターフィッシャーの、な。そいつがお前らを本土まで送ってくれるだろうし、お前らの傷を癒してくれるだろうさ」
彼らは捨てたのだ。夢での船長の言葉通り、未来を。これだけ鮮明な夢、現実に準じた、彼ら程度では夢と気付けなかった精巧な夢。なら、必ず、その影響は現実に現れる。それが夢であるが故に彼らがそれを自覚、知覚しなくとも、記憶の奥底に埋もらせてしまっても、脳を、神経を、そう、演算した、演繹した、まるで現実のような夢の過程を結果を結末を、無かったことになんてできはしない。
船長の言葉が終わり、沈黙が続く。誰も立ち去らず、誰も動こうとしない。怯え泣くことも、震え蹲ることも、嘆き怒ることも、唇を噛み締めることも誰もしない。
ギィィ、グゥイイイ――
ザァァ、ザァァァァ――
きっと彼らは、その遠い目で何も見ていない。
「次の島は、あれだ。……。聞こえてねぇか。まぁ、いい。あそこには、俺の嘗ての仲間がいる。正確には、元・仲間。具体的に言えば、お前らの先輩だ。年はお前らよりもずっと若いがな」
(十数人いるシュトーレンの忠実なる従僕たちですら、心ここにあらず、か。まぁ、仕方無ぇか。まぁ、折れてないだけ、ましか。せめて折れてないこいつら位は、責任持って、マークス家に送り届けてやるか。それ位はやらねぇとな……。力及ばない奴らを分かってて載せた俺の責任だしなぁ……)
船長がそこで一旦言葉を止めると、僅か数人ばかり、顔を上げ、その焦点の合わない目で、だが、確実にこちらを恨めしく視界に捉えているのが間違い無いといわんばかりの重く陰鬱な視線を船長に浴びせる者たちがいた。
(全員、シュトーレンの従僕か。やはりな。はぁ……。まぁ、こいつらは、いわば俺に巻き込まれた被害者とも言える訳だ。こいつらは何があっても船を降りる選択は取れなかったんだから。妄信から来る絶対的な義務感であろうが、それを成し遂げられて、折れ切ってないだけ、専業のモンスターフィッシャー共と比べて、ずっとましだ。俺やケイトと比べたとしても、後ろ向きな気持ちを糧に立っている訳じゃねぇこいつらは、やっぱ、少し、妬ける。俺も、そんだけ、強けりゃなぁ……)
船長は、普段の雰囲気を作るのを止め、素直に本心をぶちまけることにした。折れなかったその者たちには、それ位、してやらなければこちらに立つ瀬がない、と。
「……。済まなったな、絶望させちまって。だが、仕方無いのさ。たったこれ位のことで折れるようじゃ、この先の旅路にはとても連れていけねぇよ。壊れるだけならまだしも、狂うだけならまだしも、動けなくなっちゃ、おしまいさ。時間も安全も、この先の島にはある。お前らだけには選ばせてやるよ。シュトーレンの従僕たち。引き続き、俺と共に行くのか、降りて別の道を行くのか。じゃあ、また後でな」
船長がそう言い終えて、甲板から立ち去り始める。誰も動かず、声も出さず、静かなもので、
ギィィ、グゥイイイ――
ザァァ、ザァァァァ――
船の穏やかに揺らぐ音と波の音の中、
コトンコトンコトンコトン――、ギィィ、ガコン。
船長は早足で立ち去った。
それでも、彼らは静まり返ったままだった。船長という、視線を集める必要のあるものが消え、彼らの視点は、また、何処までも遠くを、朧げに見ているだけだった。




