第百二十二話 たったそれ位のことで 前編
終わってみれば、あっけない。それは夢の中の出来事であったのだから。そして、夢の中に存在した敵は、こちらを夢の中に引き摺り込んだ敵は、現実において、どうしようもなく、弱かった。
勝手に死に絶えてしまう程に。
「あ~あ。これじゃ、検体にすらならないよぉ~。死体とすら言えな~い。小さく薄く弾け飛んでて~、肉片と~骨片と~皮切れだけ~。おまけに~、何の菌も~出ないしぃ~、こいつら~、唯のコイの変死体だよ~。船長~、こんななら、私殺さないでよぉ~。詫びて詫びてぇ~」
ケイトはそう、残念そうに、普段通りの調子で言った。先ほど、自身を殺した男に向かって、広い集めたそれを見せた。
「あぁ、そうか。残念だったな。まぁ、生きてんだから、次の機会があるだろうさ。今度は眠りに落とされないように策でも練っておくこったぁ。流石に、そう何度も自殺紛いのことすんのも嫌だからなぁ、俺もお前も。まぁ、だが、いいじゃねぇか、今回は。結果死ななかったんだからよぉ。それに、死んでたなら死んでたでそん時はそん時だろう?」
先ほど、ケイトを殺したその男こと船長は、そう、普段通りの軽い感じで、明るく笑いながら言った。
「そりゃ~、違いないねぇ~」
ケイトも何が面白可笑しいのか、口を大きく見開いて笑った。
船長がケイトを殺したこと、船長による殺戮、それらは夢だ。だが、ケイトも船長も、それを覚えている。夢を終わらせるための船長の自殺もそう。そして、それは二人だけではない。この船の他の者たちも皆、憶えている。あれは、皆繋がっていた夢。だから、船長の自殺も、そのときの心情も、ケイトのそのときの思考も、その他もろもろも、薄くだが、微かにだが、共有しているかのように、伝わっている。
だから、
「なんで、あんたらぁ……、平気なんだよ……」
「痛ぇ、痛ぇよぉ……腕があるのに、腕が無ぇよぉ……。気が、狂いそうだぁぁ」
「げほげほっ、げほっ……」
「ぁ"あ"ぁぁあ"」
「死んだ、死んだ、首、飛んだ、うぅ……、おぇぇぇ……」
「ぅぅ……ぅぅぅ……」
彼らは一様に騒ぎ立てる。怯えながら。だって、そうだろう? そんなもの、理解できない。何故、自身も分も含め、場の命を、自身の判断で瞬時に賭けられる? 何故、自身の命が碌な説明無しに、説明があったとしても理不尽なやられ方で、刈られた? そして、ケイトはどうして船長を赦している? どうして、船長は、まるでそれを、たったそれ位のことで、と軽く見ている? 自分すら殺してみせて、それでいて、それが夢でない可能性や、現実に同期する夢である可能性を、しっかり知覚していた?
そして、恐ろしいことに、他の方法も思いついていたのに、唯、ほんの僅か数%だけ夢から抜けられる可能性が高いからと、自身を含めての殺戮を、一瞬の迷いもなく、最後まで行ってみせたというのが、もう、無理だった。
「私、どうして、生きてるの? はは、あは! きっとここは、死後の世界なんだ。あっ……、さ、殺人鬼ぃいいい!」
「やべぇ、こいつ、あの化け物直視しやがった、あっ、ナイフ出して、ぁぁああああ! 自殺すんぞぉ、こいつぅぅぅ! 止め、うぇぇ……、止めるぞ」
「ガタガタガタガタ……。カチカチカチカチ……。私も……、ごほぉ……、手、手伝う……
決して烏合の衆ではない彼ら。その一部は、震えながらも、牙を剥ける。彼らが化け物と言い、そう言わずとも、目端に入れるだけで吐いたり、震えたり、禄にろれつも回らなくされてしまう相手に向けて。それは、彼らが、船に乗った際、船長、と呼び、その人に従うと、付いていくと、決めた、命を預けるかの如く信頼した相手の筈だった。
だが、もう、違う。
それは、希望の暗転、絶望齎す敵でしかなかった。それも、今さっきまで相手していた準モンスターフィッシュの群れなど比べ物にもならない……。
彼らは憶えている。自分たちに真に死を齎し、恐怖に陥れた、絶望に沈めてきたのが、何であったのかを。あれが夢だと気付かなかった彼らにとって、説明もせずに、自分たちを夢の中であると知らせず殺してきた、考えも無しに危害を加えてきたそれは、もう、微塵も信頼していい相手ではないのだ。
彼らの論理では。
そして、彼らの論理では、この時代、外海ではやっていけない。彼らには絶対的に足りない。感じる、察知する、悟る、感度が、そして、決意が、覚悟が、足りない。
「ったく、はぁ……」
スッ。
船長が、右手で手刀を繰り出す。振り翳される円軌道。禄に音もせず、それは、刃物を握っている一人の首へ向かって放たれる。
速い。確かにそれは速い。だが、彼らのような、日本国内に限ってではあるがモンスターフィッシャーとして一流と称されていた者たちが避けられない速度では決してない。
だが、彼らには、絶対にそれは避けられない。何が起こったか理解できなかったが、彼らは何をされたか見て、体験して、憶えているのだから。それに、現実において、刃物の切れ味は無いと分かっていても、反応すらできない。避けることは当然できず、安全そうな部位で受けることもできない。
が、
シャキン!
それは、刃物が抜き身になった音。
ピタッ!
船長の音は、それに反応し、止まったのだから、それは船長が放ったのではない。なら、それは当然、そこにいる誰かが放ったもの。
「ゲホッ、ぅぅ……。儂がやるべきじゃろう。見極められなんだ……。ゲホッ、うぇぇ……。お主は、長として、船長として、相応しくない。間違っている。我が主が、見誤っておったとはのぉ。なら、従僕である儂が、けじめを、つけなければのぉ。きっと、げほっ、ゲホッ! この先も、お主が生きている限り、犠牲者は、出る。主の、その、英気の下に隠された悍ましいそれ……。だが、未だ、儂は止まってはおらんのじゃから、未だ、恐怖が、身体中に沁みわたっていない間の今しか、無い……」
船員の一人であった老人が、何やら、棘々しい柄の肉刀を抜き、それを握った右手を、その棘に貫かせつつ、それを高めに構えたのだ。
グッ、シュッ!
「罪を感じる心が残っておるなら、抗うで……、ないぞ……」
老人の言葉は、船長に向けてだけの言葉では無かった。
(ほぅ、殺気が一人分に減った、か。感心するなぁ、これには流石に。なら、唯捨てるだけにする訳にもいかねぇ。壊したからには、ちゃんと、後の面倒も世話してやるとするか。それをこの爺さんへの手向けにしてやるとしよう。ったく、)
ザッ、フゥオン!
音より早く――右手の肘から先とその赤く染まった肉刀だけを船長に向けて射出した。
グゥゥゴォォォォォォォォァァァァアアアアアアアアアアアパァァンンンンンン!
その音から一瞬遅れ、生じた、嵐の日の突風のような風に、誰もが目を瞑る。
「かぁぁ、面倒臭ぇ」
(面倒くせぇ)
聞こえる筈の無い音が、聞こえた。それは、老人が重い代償を背負って、放った、捨て身の一撃に対して、無事であった、船長の声だった。
「あ……、ガタガタガタガタ……、ギリリ、あり得ん……」
老人は燃え尽きたかのように、その場に膝をつき、生きてはいるが動かない。
「ほぅ、爺さん、確かあんたはシュトーレンの従者の一人だったなぁ。成程、芯がある奴ってのは、やはり一味違うな。砕け散っているであろう芯でよくもまぁ。っと、いけねぇな。これ以上は無碍だ」
老人は船長の言葉に反応しない。きっともう、その声は聞こえていないのだ。老人はとうに、意識を失っている。膝をついたまま、倒れずに。
他の者たちが呆然としている中、ケイトはまるで何事もなかったかのように、その老人の止血処理をさっと済ませ、担ぎ、船内へと消えていった。




