序幕 海の時代
西暦2057年。30年前に起こった極地の氷河全溶解による急激な海水面の上昇により、世界のあらゆる平地・低地は水に沈み、人々は山へと生活圏を移した。
日本もその例外ではなく、その国土の大半が沈み、小さな島の集合体になっていた。
文明は保てない、多くの人は科学を捨てたのだから。
便利さは消えた、それは電気のない生活。
余裕なんてない、だから休日なんてない。
生きるのが精一杯、その日の飯にありつくためだけに力を注ぐ。
もう子供でさえ、遊んではいられないようになってしまったのだ。ところが、そんな世界に唯一の遊戯が残された。
遊びと実益を兼ね備えた、唯一の例外。
それは―――釣り。
糸と棒で魚を釣り上げる、究極の娯楽。
日本、兵庫県六甲山島。直径1kmの円にすっぽり収まってしまう程の小さな島である。
その島の西南部、アイボリー色の砂浜。一切の岩場はなく、そこからは一面の蒼い海が広がっている。
物語はここから始まる。
夏の、雲ひとつない青空の下、一つの小さな人影が砂浜に佇んでいた。
それは――小柄な少年だった。本作の主人公である彼の名は、釣一本。まだ15才の少年である。
その身長は151cmと、小柄であるが、体つきは筋肉質でがっちりとしている。日焼けした薄小麦色の肌に、髪の毛は直毛で長めの黒髪。
首は顔ほど太く、面長な顔をしており、顔つきは江戸時代の武士のような薄い顔つきをしている。力強く開いている一重の黒目以外は。
まるで江戸時代の浪人のような雰囲気を醸し出していた。
服装はそれとは真逆で、現代風であった。膝から下を切り取った色落ちし切った水色のジーンズ。首元が浅く、脇元も浅い、白いタンクトップ。どちらも少々ぱつんぱつん。黒いゴム製のサンダルを履いていた。
少年の眼光はどこまでも広がる海を真っ直ぐに見据えている。すると突然、彼は上体を少し後ろへと反らす。鈍い銀光が差した。
「よし、釣れた。今日も大漁やな。」
太刀魚である。それも2m近くの大きさであり、それはさながら刀のようだった。それを少年は背後の海水を張った、取っ手のついたバケツ、いや、そう言うには余りに巨大な、ドラム缶を横に真っ二つにしたかのようなサイズの大きく深い入れ物へと投げ込む。バケツの中は魚で今にも溢れそうだ。
少年がしていたのは釣りだったのだ。それは、娯楽としてではなく、仕事としての釣りではある。
太刀魚を釣り上げた瞬間見せた笑顔はすぐに引っ込み、いつもの無気力な目に戻る。少年は魚で溢れそうな巨大バケツの前にしゃがみ、背負うように持ち上げ、山の麓の集落まで運んで難なく運んでいった。
六甲山村。島の中央から東側に広がっている、この島唯一の集落である。東側には小さいながらも港を備えている。
木でできた数十個の簡素な家がまばらに建っている。そこに住む村人たちは、漂白していない麻そのものの色の服を着ていた。
男性は、切りっぱなしの麻のTシャツとゆったりとした麻のボトムスを。女性は、麻の飾りっ気のないワンピースを着ている。
濃厚な魚の香りを感じ取り、村人たちは少年の傍へと近寄ってきた。
「お、今日もたくさん釣ってきたんか。」
「あんたいつもすごいわね。」
「っ、まだガキだっていうのにほんまお前すごいわ。」
「うは、大漁やな。」
「一本坊や、一匹分けて。」
「いつも助かってるわい。」
「一本兄ちゃん。今度僕にも釣り教えてよ。」
集落の人たちが笑顔で少年を出迎える。食べるだけでも大変な時代、安定して食料を調達してきてくれる釣り人は得難い存在だったからである。
しかし、少年は素通りする。見向きもせず、無表情で。
(ただ煽てているだけ、自分が食料を持ってきてくれるからや。都合がいいから誉めてるだけなんや……。ボウズだったら赦してもらえるんかいなぁぁ!)
ボウズとは狙っていた魚を全く釣れないことをいう釣り用語である。
服装から分かるが、少年はよそ者である。数年前に家族で引っ越してきたのだ。
少年は集落の一番奥の自分の家まで黙々と歩いていった。
「父ちゃん、母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん、ただいま。」
扉を開けて家に入っても少年の声に返事は返ってこない。なぜなら彼はひとりぼっちなのだから。木でできた、六畳二間の家。それが彼の住む家であった。
玄関側の部屋には、釣り道具や、まだ加工していない釣り道具素材、釣りに関する各種本が置いてある。奥の部屋は寝室であり、そこには四つの位牌が飾ってある。
少年の顔から無表情の仮面が外れ、涙が零れた。
彼の父と母は、一年前、一週間ずっとボウズだった。たったそれだけのことで殺された。
彼の祖父と祖母は、二年前、大物と引っ張り合いをして海に引き摺り込まれた。しかし、近くで見ていた見物人は誰も助けようとしなかった。
「今日もいっぱい釣れたよ。どうか明日もそうでありますように。」
少年は仏壇の前で手を合わせる。4つの位牌の前へ向けて、明日を願いつつ。釣れた魚のうち1匹を焼き魚にして食べる。
しばらく経ち、いつも通り、残りの魚を村人たちに回収していく。少年はそれをただ光無き目で見つめていた。失意。諦観。そこに希望はないのだから。
そうして少年は床に就く。
「おやすみ。」
当然返事は返ってこない。