#4 希望の星
開かれた引き戸。俺と一之瀬は「失礼します」と言って入室した。こじんまりとした職員室は、コーヒーの香りがほのかに香り、温かいというよりは、少し暑いくらいの室温。この場合は生温いというべきか。
室内は教諭が机に向かってカタカタとパソコンのキーボードを叩く音、そして何かの機械が起動しているのか唸るような機械音、それだけが聞こえて話し声などは皆無だった。教諭は黒のメッシュチェアに座り机はグレーのオフィスデスク、室内にはそれらが全部で十数個あり、部屋の中心に縦長の凸の形で並べられている。各教諭の机上は、書類や資料で埋め尽くされている机がほとんどで、それに向かっては自分の仕事を熟すことが精一杯なのか、俺たちには気が付いていないようだった。教諭もまたこの時期は慌ただしいのだろう。そのためか妙に空気が張り詰めている。こういう空気だと知り合いの教諭でも話を掛けにくい。それ俺だけではなくは一之瀬も同じのようで、俺と一之瀬は入り口付近で辺りを見渡して松島を捜した。が、ここからでは見当たらない。多分、学年主任だから奥の席が松島の席なのだろうと思うがはたして。と、そこに引き戸の近くにある座席表を見つけた。それを拝借して、一之瀬を小声で呼び手招きをすると、とことこと彼女がこっちに歩いて来る。
「どうしたの?」
彼女もまた消え入りそうな小さな声を発した。俺は一之瀬に座席表があることを知らせて、ふたりでそれを見るが、それをふたりで見る必要はなかった。松島の席はすぐに見つかったのだ。にらんだ通り、松島の席は一番奥にあり、やはりここからでは確認できない場所だった。
「それじゃあ行こっか」
一之瀬を筆頭に彼の席に向かう。この職員室の奥には大きめの窓があり、さらにそこから職員室のベランダがあるのが見える。
「こづか、まつしませんせ、居ないみたいだよ」
彼女の背後から松島の席を覗き込む。本当だ、いない。
松島の机上も他の教諭と同じで散らかっていて、二冊ほどの分厚いファイルに、山のよう積まれている紙の束、辞典が三、四冊置いてある。松島の性格や授業中の様子から考えてみれば、机の上が散らかっていることが少し意外だった。
どこに行ったんだ、と俺たちは顔を見合わせた。
「松島先生なら、さっきベランダの方に出っていったぞ」
不意に近くに座っていた男性教諭が野太い声で話しかけてきた。名前までは知らないが、どこかで見たことがある。松島教諭と同じくらいの歳だろうか。髪が薄く大きい丸顔に丸々と太った体躯、とにかくデカい。主に横に。そのせいか、彼の机は他の教諭の机よりも小さく見えるし、座っているメッシュチェアに関して言えば彼が動く度にギーギーと悲鳴を上げている。あんまり動くと壊れてしまいそうだ。
「だけどな、そこで待ってればいい。ただ松島先生がいつ戻ってくるか分からんがな」
静寂な室内にハハハっと快活に笑う男性教諭とギーギーと悲鳴を上げているメッシュチェア。なんとも対照的だ。
しかし、松島はベランダでなにをやっているのだろうか。少し気になったので窓に寄ってはベランダの様子を窺う。人影が見えた、後ろ姿だが刈り上げた髪に男性にしては小柄な体躯、あれは間違いなく松島だ。夕空を見ているのか、顔は上を向き腰に手を当てては呑気に煙草を吸っている。言っては悪いが、画になってない。
「ねぇねぇ、まつしませんせ居た?」
背中をつんつんとされて身を翻す。場所を彼女に譲って、松島の居る方向を指で教える。
「煙草吸って、黄昏てる」
「あはは、ほんとだ」
しかし、学年主任にも困ったものだ。人を呼び出しておいて、呑気に煙草を吸うのは感心しない。
待つこと約五分。松島は職員室の入り口から入室してきた。職員室にはベランダに出られる場所が無いから、恐らく違う教室からベランダに出ていたのだろう。松島は俺たちに気が付くと、少し早足でこっちに向かってきた。
「ふたりとも来ていたのか」
俺と一之瀬は会釈をする。松島はゆっくりと自分の席に座り始めて、ひとつ咳払いをしては言った。
「実は、今日ふたりに来てもらったのは他でもない」
そういうが、松島は「あ、でも」と呟いてなにやら考え込んでは、顎を擦る。松島にしては珍しく歯切れが悪い。
「その前に、ふたりは部活動に入っていたりするのか」
さすがに予想外の質問だった。脳内では仮入部した部活の名前が、次から次へとぽんぽん浮かんでくる。この質問の意図がどういう意味を持つのか知らないが、あまりいい予感はしない。
一之瀬はこの質問の意図についてなにも考えていないのか、すぐにかぶりを振って素直に「まだ決まってません」と言う。そして今度は松島が俺に視線を送って答えを待っている。
なにか仮入部した部活を適当に言おうかと思ったが、後で根掘り葉掘り訊かれてボロが出ても困るので、結局「決まってません」と言うしかなかった。すると松島は「そうか、そうか」と晴れやかに言っては破顔して頷いた。松島はあまり授業中にもこういう表情は見せないので、新鮮な感じがする。というか余計に怪しい。
「それじゃあ本題に入ろう。実は、私は新聞部の顧問をしているんだ。それで新聞部は今年でもう三十一年になるんだけど、今年に限っては何故だか新入部員がひとりも入部していない。部員も少ないし今非常に困っているんだ。それでふたりには是非、我が新聞部に入部してほしいと思って、今日は呼んだんだ」
はあ、と思わず生返事してしまう。拍子抜けしたというわけではないが、説教でもなく、雑用でもなくまさか部活の勧誘だとは。
「せんせ、質問してもいいですか」
一之瀬が松島にそう尋ねると、彼は何度か頷いて「いいぞ」と言った。
「たいしたことじゃないんですけど、なんでわたしとこづかを選んだんですか」
もっともな疑問だ。俺もそれは訊いてみようと思っていた。
「私が授業を受け持ってるクラスがいくつかあるんだけど、その中でもふたりは真面目で授業態度もいい。だから、ふたりには是非と思って声を掛けたんだ」
たった一か月で生徒を真面目か不真面目かを区別するなんて早計な気がする。ましてや松島と接する機会は授業中くらいしか無いのだから。それほど新聞部は切羽詰まっているのであろうか。
「で、どうだろうか。ふたりは新聞部に入ってくれるか?」
一之瀬と顔を見合わせると彼女は苦笑した。
「先生、俺も質問してもいいですか」
松島は笑顔で頷き、
「なんでも訊いてくれ」
「部活内容ってどんな感じなんですか」
彼は俺が興味を示していると思ったのか、目を見開いては、ハキハキと喋り始めた。
「基本的にはインタビューやアンケートを先生や生徒から訊いたりする。後は、記事を自分たちで取り上げては書いてみたりするくらいだな。何も難しいことはない。それと、発行するのは夏休み前と卒業式前に新聞を発行するんだけど、夏休み前がこの――」
松島は机の引出しからA三くらいの大きさの用紙を取り出した。
「タブロイド判で発行する」
その用紙はこの学校で発行された新聞で、それの右上に光橋高校新聞と記されている。結構立派だ。
「ふたりは家で新聞を取ってると思うんだけど、あれの一ページの半分がこの大きさだ。これをタブロイド判という。それで卒業式前に作成するのが、えっとどこにやったけな……」
がさがさと引出しの中身を確認して探し始める。数秒後、「あった、あった」と引出しの奥から引っ張り出したのは、何重かに折りたたんである用紙だった。それを広げて、俺たちに見せる。これも学園新聞だろうか。
「これだ、ブランケット判」
さっきよりもデカい、これも学園新聞だ。思っていたよりも本格的で想像していたのとは違う。
「さっきのタブロイド判の倍の大きさ。こちらを卒業前に作成する。一応、年に二回の発行なんだけど、生徒の要望があれば文化祭、もしくは発行したいときに発行という形も取れる。ただ、部費の関係上毎月発行は厳しいから、そこは部費と相談だな。大まかだがこんなところだ。分かったか?」
なるほど。俺は頷いた。
「先生、もうひとつ質問いいですか」
「いいぞ、何度でも質問してくれ」
「今現在の部員数を教えてください」
質問されたくないところを質問したからなのか、松島は、う、という謎の言葉を発して固まってしまう。松島の表情からさっきまであった笑顔が消えて、徐々に曇っていくのが目に見えて分かる。松島はバツが悪そうに苦笑いをすると、とても言いにくそうな表情をしては口を開いた。
「実はな、今年の三月までは部員が居たんだけど、もう皆卒業してしまった。それで、非常に言いにくいことなんだけど今は部員がひとりもいない」
「えっと、それじゃあ、わたしたちが入部しなかったら部員はいないってことですか」
「そういうことになる。だから、今年はなんとしても部員を確保しようと必死なんだ。まあそれはどこの部活も同じだとは思うんだけど」
松島は、さきほど取り出したタブロイド判とブランケット判の学園新聞を両方見て、なにやら懐かしいものを思い出しているような、そんな気がした。松島は新聞を見ながら、俺たちに言った。
「実は、この新聞部を立ち上げたのは、私なんだ。この学校に来てから三十一年、部が創部してからも三十一年。今まで、一度たりとも新聞を発行しないときはなかった。一度もそれが途絶えることはなかったんだ。だから今年、授業中のふたりを見て私は確信したんだ。小柄と一之瀬は新聞部の希望の星だと」
希望の星。響きはいいけど少し大袈裟すぎる。学年主任から、これまた随分とスケールの大きい評価を戴いたものだ。
この後も、松島による新聞部への想いや熱意、過去の話などを散々訊かされ続けた。話が終わったのは職員会議が始まる直前で、俺と一之瀬はその場で松島から解放された。
職員室から出てカバンを取りに教室に戻る。今日は仮入部に行くかないことをメールで和馬に告げて、一之瀬が「それなら一緒に帰ろう」と言ってきたのだ。特に断る必要もない。彼女と中学は違うが家の方角は途中まで同じであり、今日職員室で共に松島の熱弁を受けた仲でもあるので一緒に帰ることにした
中庭の人通りが疎らなこの時間帯。ふわっと身体に安らぎを与える心地よい風が吹く。春風だ。夕陽が草木を紅く変色させて、空一面を淡い橙色に染めている。グラウンドではソフトボール部とハンドボール部が声を出して練習に精を出していた。
「新聞部かぁ、うーん、悩めるなぁ」
「一之瀬は新聞部に興味があるの?」
「どうだろう、わからないや。そういうこづかは?」
「俺も分からない。ただ、松島があんなに焦ってるとは思わなかったけど」
「せんせ、必死だったもんね」
身振り手振りで説明していたけど、それほど困ってるってことなんだよな。授業中では考えられない松島の一面が、こんな形でお目にかかれるとは思いもしなかった。
校門をくぐる。ここで三つの分岐点に別れるが、基本的に光高生は駅方面、東南の方角に進む。ここから駅までは徒歩十五分くらいの一本道で、この道を光高街道と呼ばれている。呼ばれているだけで、正式にはそんな名所があるわけではない。俺たちは電車を使わないがこの光高街道は使う。
「三十一年って言ってたよな。部活立ち上げてから」
「うん。それに皆勤賞で新聞を発行してるって言ってた」
意味は合ってるがそんな言い回しはしてなかったと思う。
「なんか、このまま部活が廃部になるのも可哀そうだよね。三十一年間も頑張ってきたのに」
一之瀬はしんみりとそんなことを言う。三十一年間、頑張ってきたその重みは俺には分かることなんて出来ない。だけど、その続きを伸ばしてやることなら出来る。そんなことを一之瀬も考えたのだろうか。俺は彼女に言った。
「一之瀬、希望の星にでもなるつもりか」
「それもいいかも」
その言葉が本気なのかどうかは分からない。だけど、彼女は笑顔だった。
松島が俺たちを呼び出して、部に勧誘するために熱弁した。真面目だとか、そういうことは置いておいて、本当は松島は自分自身に感情移入してくれそうな人材を探していたのではないのだろうか。松島の担当科目は現国、そういうことを思うと、充分に考えられる。いや、考え過ぎか。少なくとも一之瀬は揺らいでいるけど……。俺はどうなのだろうか。
夕陽に見守られながら、この光高街道を歩いて行った。