#2 コントという名の演劇
昼食後の授業は、どうにも効率が悪い。今日の現国の授業と同様、一年B組の教室には相変わらず睡魔が飛び交っている。教諭の説明がいい感じに子守唄となって、室内で睡魔を無限に増殖させているのではないだろうか。
クラスの級友たちは、授業を真面目に受けている者、教諭に見つからないように俯いて目を閉じている者、両者のどちらかに転じようとしている者、机に突っ伏している和馬。この四通りに分けられていた。ちなみに俺は三番目の中途半端なやつだ。
それにしても和馬、奴はアホだ。
室内を見渡しても和馬を除いたら机に伏せている者はいない。光高に通って二週間、本格的に授業が開始してから一週間といったところだが、緊張感高ぶるであろうこの時期に、最前列、それも教諭の真ん前で堂々と伏せて寝る、俺には到底真似できない。
人には何かしらの取り柄があるという。和馬のその太々(ふてぶて)しい態度は中学の頃から変わりないのだが、まさに取り柄というのに相応しいのではないだろうか。よく言えば度胸がある、肝が据わっている、物怖じしない……物は言いようだな。
放課後、ホームルームを終えると部活があるのか、慌ただしく教室から立ち去る生徒と、そうでない生徒に分けられる。明らかに後者な俺は両腕を天に突き上げ思い切り伸びをする。今日も一日ご苦労様、と。
結局、和馬は午後の授業から今に至るまで終始机に伏せたままだった。現在も尚、それは進行形で呑気に寝息を立てている。授業中の睡眠はさぞ気持ち良さそうで少し羨ましい。
陽が西へと傾き始め、午前中には一片も無かった晴天の空を雲が少しずつ侵蝕し始めていた。今日の天気は夕方には雲が増え、それ以降は風が吹き、雨が降る地域もある、と気象庁が言っていた。草木は揺れてはいないようだから風が吹いているわけではなさそうだが、予報に従えばそろそろ風が吹き始める頃ではないだろうか。折り畳み傘は持ってきてはいるものの、こういう日は早く帰るに越したことはない。
今は中庭に少数しか生徒がいないから、帰るなら今の内だろう。そろそろ他のクラスもホームルームが終了して、あと十分もすればこの中庭に敷き詰められていた煉瓦も、今日の空模様と同じように生徒によって侵蝕される。そうなる前に行動しておくべきだ。
「ねえ、こづか」
緊張感が解れた所に、不意を突かれた感じで朗らかな声を掛けられた。誰かと思って声のする方を振り向くと、声の主は隣の席に座っている女生徒、一之瀬あさひだった。一之瀬とは光高の入学式のときに知り合い、光高に来て初めての友人で、学園の制服である紺色のブレザーと紅色のスカートに身を包み、細身の体躯に女性の平均的くらいの身長。さらっとしたツヤある綺麗なストレートのショートヘアと、ぱっちりとした栗色の瞳には活発的な印象を受けるが、その印象を裏切らないのが一之瀬で、太陽のように温かくも燦爛とした笑顔は、とても無邪気でどことなく安心感を与えてくれる。
「ん、どうした?」
「今日はアレ、やらないの?」
「……アレってなんだっけ」
訊き返すと、一之瀬の表情がいつにも増して眩しいような気がしたのだが、気のせいだろうか。
「なかえとやってるコントのことだよ。いつもふたりで楽しそうに盛り上がってるやつ」
目に映るのは、浮き立つ気持ちを満面の笑みによって表現している一之瀬。一之瀬が言っているコントというのは和馬が中学の頃に発案したもので、和馬が俺を無理矢理巻き込む形で始めたものだった。
それにしても、一之瀬の言っていることは色々と矛盾しているところがある。俺は抑揚をつけながら矛盾点を指摘した。
「楽しくないし、盛り上がってないんだけど」
俺の真面目な返答にも、一之瀬は頬をほころばせながら「えっ、そうなの?」と笑われながら言われる始末。その様子から察するに、どうにも信じていそうにはなかった。というか遠回し「冗談でしょ」と言われてるような気がする。
「見てる側からしたら、物凄く楽しそうで、物凄く盛り上がってるように見えるんだけど」
とんだ誤解だ。まさかそんな風に見えているなんて思いもしなかった。それに物凄くって、付け足されているし……。
「そういえば、どういう経由でふたりはコントを始めたの?」
人差し指を頬に当て、小首をかしげる仕草は小動物のような愛らしいものだった。
ごもっともな質問で。その手の質問はこの高校に来て初めて訊かれた。同じ中学出身なら何人かは、この経由を知っている人も居るわけだが、それでも数は多くは、ない。それに、
「話せば長くなる」
この話を知ってもらうには、それなりに話さないといけない。しかも、この話を訊いてもらっても自分が情けなるだけなんだが。
「別に長くなってもいいけど」
予想外の返答に思わず困惑した。てっきり、こんなくだらない話を訊く人なんていないと思っていたのだから。それに今日は、恐らく雨が降る、その前に帰宅したいのだが。
外を見ると雨は降ってないものの、微かに揺れる草木に雲の密度が増していた。明らかにさっきよりも天候が悪化しているのは言うまでもない。それにも関わらず、クラスにはまだ過半数くらいの生徒が教室で談笑している。空模様と比例してか中庭にも生徒の密度が増しているのにB組は随分とのんびりしている。呑気なものだ。
「……本当に長くなるけど」
念を押すように、もう一度尋ねてみるも、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とにこやかに言われてしまう。世の中には物好きな奴がいたもんだな、と心の中で毒突いて腹を括ることにした。
「中学の頃、和馬が演劇部に所属していたんだけど」
「えぇ、そうなの? な、なんで」
開始早々なんで、と来たか。そう、話が長くなるのはこれも原因のひとつ。彼女、一之瀬はどうにもこの話に好奇心旺盛のようで、多分、ひとつひとつに疑問が思い浮かんでは質問されるのではないだろうか。そしたら必然的にこれ以降も話がなかなか前へと進まないという現象が起きるに違いない。
今日の天候は最悪の場合、雨だ。一之瀬には申し訳ないが、疑問を思い浮かばないように話させなければならない。過去の話を出来るだけ掻い摘んで説明した。
和馬が演劇の稽古をしたいと演劇部でもない俺を休み時間に無理矢理連れ出して、ふたりで演劇の稽古をしていたこと。それを偶然見かけたクラスの級友が、演劇ではなくコントだと勘違いして、俺たちふたりがコントをやっているとクラスに言いふらした人物がいたということ。大雑把だが半分くらいまで話を進めた。
「へぇ、それでそれで?」
グイッと身を乗り出してくる。俺は促されるままに続けた。
「そしたらクラスの連中が俺たちのコントを見たいって言ってきたんだ。もちろん、俺は反対したし、コントじゃないって言ったんだけど……」
一瞬だけ、快眠している和馬に冷たい視線を送った。すると、どうだろうか。奴に視線が伝わったのか、ビクッと反応した。だが、起きるまでには至らない。
「和馬の奴、『これも練習になるから付き合え』って言ってきて、気が付けば俺しか反対しているやつがいなくてさ。もう俺にとってみれば教室が四面楚歌状態。こうなると空気を読まないといけなくなるだろ。結局、その後に教卓の前でコントして、ふたりして醜い醜態を晒したんだ」
「み、みにくい醜態って……」
俺に遠慮してか、少し苦笑交じりに言う一之瀬。
「それで、その後どうなったの」
「それがどうにもクラスの評判が良くて、その後も度々コントをやらせられたという。まあコントって言っても、あくまで演劇の練習の名目でやってたから、このクラスでやってるような演劇のワンシーンみたいなセリフを喋るだけだけど」
「演劇……」
ぽつりと呟くと、何の前触れもなく、ぱあ、と一之瀬の表情が明るくなった。
「そっか! だからふたりのコントって演劇みたいな迫力あるんだ」
多分それは、和馬の演劇部として培ったパフォーマンスがその迫力を引き出しているんだと思う。聞き取りやすい声量に、身体全身を使ったオーバーリアクション。どれもこれも俺には出来ない芸当だ。俺なんて、ただ普通に喋ってるだけだし。
彼女は何か思いついたようで、人差し指を立ててこう言った。
「言うなれば、『コントという名の演劇』ってところかな」
デキのいい名前だと思ったのか、一之瀬は何回かそれを反芻して頷く。どうやら勝手に命名されてしまったようだ。まあ、悪くはない。
「でも、さすがに高校にもなってやるなんて思いもしなかったけど」
「そうなの? てっきりわたしは、クラスの自己紹介のときに、なかえと口裏合わせていたのかと思ったけど」
「そんなわけないだろ。和馬が勝手に言ったんだ」
高校入学初日、ホームルームの時間に恒例の自己紹介が行われた。室内が重苦しい空気に包まれている中、自己紹介はこくこくと進んでいった。このまま平和に終えていくのかと思った矢先のことだった。
「仲栄和馬って言います。実はオレ、コントが好きで中学の頃からクラスの教卓でよくやってたんです。で、相方がさっき自己紹介していた小柄結人。次の休み時間になったら、ふたりでコントやるんでよかったら見に来てください」
周囲から寄せられる視線が、これほどまでに冷ややかなものは感じたことがなかった。正直、あのときはどうなるかと思った。思い出したら溜息が漏れた。
「こづか、溜息すると幸せがひとつ逃げるっていうけど」
「それ訊いたことある。逆に、笑うと幸せが増えるってものあるらしいけど」
俺がそう言うと、彼女は少し眉根を寄せて考える。数秒後、はっ、となにか妙案が思いついたのか、手をポンと合わせて喜色をあらわにした。
「じゃあ今溜息したんだから、コントでもやったら? 今なら失った幸せを取り戻せるかもしれないし」
失った幸せ、だなんて大袈裟なことを言う。どうにかしてコントをやらせたいのか、そう促してくるが、その手には乗らない。
「やりません」
すると一之瀬は小さく頬を膨らませ、抗議の意味を込めたのか、こう言った。
「このクラスでも、ふたりのコントは評判良いのに」
「こっちとしては評判どうこうの問題じゃないんだけど」
「じゃあ、どういう問題なの」
あの静まり返った空気が耐えられないとは言えんよな。
「当事者にしかわからない問題ってやつ」
適当にあしらうと、ふーん、とジト目を向けてくる一之瀬。その目から逃れようと思わず視線を逸らした。すると、唸るような音がする。バイブ音だろうか。
「あ、ごめん。ちょっとメール見るね」
そういうと一之瀬は、ブレザーのポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作し始める。
「こづか、わたし帰るね。友達のクラス、今ホームルーム終わったんだって」
時計を見ると、俺たちのホームルームが終わってから十五分ほど経過していた。
俺と一之瀬は目を見合わせた。
「終わるの遅いな」
「そうだね。でもそのおかげで、コントの秘話訊けたし、わたし的にはよかったかな」
一之瀬は椅子から腰を浮かせ立ち上がり、大きく伸びをすると、カバンを肩に掛ける。
「こづか、明日こそコントお願いね」
「遠慮しておく」
俺の返答にも、一之瀬はいつものような笑顔で、
「また明日ね」
「ん、また明日」
一之瀬は身を翻すとそのまま教室から出て行った。長話をしてしまった俺も、腰を浮かせて、カバンを掛けようとすると、
「ユート!」
と寝ていた和馬が起きては自分の席から半身を向けて俺に声を掛けてきた。そんなに大きな声ではないが、教室にはそのハキハキとした声が響き渡り、呼んだ主と呼ばれた主の両者に自然とクラスの視線が向けられた。が、それも一瞬のこと。級友たちは、何事もなかったかのように談笑を続けた。
和馬はサッと立ち上がるとカバンを肩に掛け、慌ただしく俺の席へと駈け寄ってきた。が、俺は奴の顔を見て思わず目を見開いた。授業中に寝ていた報いなのか、和馬の顔にはくっきりと寝跡がついていた。そんなことを知るよしもない和馬は、俺の異変に気が付いたのか呑気に声を掛けてきた。
「ユート、どうした。お前変だぞ」
それはこっちのセリフだから。口を手で覆い笑うのを必死に堪える。これは笑える。両頬は面積広く赤に染まり、線のような跡は眉に掛って、額の中央には筆箱のファスナーだろうか。その跡がくっきりと残っている。
「なに笑ってんだよ」
「顔、凄いことになってるぞ」
「顔?」
和馬は、撫でるように顔を触り始めると、何回か触って、寝跡が付いてることに気が付いたようだ。そして和馬は言った。
「まあ、これも立派な勲章ってやつか。授業中に戦って勝った戦利品って思えば聞こえは良くないか」
顔に寝跡を残しながら腰に手を当てて胸を張る和馬が滑稽に見えて仕方なかった。
「言っとくがコレは聖なる代物だからな、やらんぞ」
武士のような人物を真似たのか、妙に演技かかった声色で、俺に迫ってくる。
「いらないから! てか近いから!」
「欲しければ、授業中にでも生産することだな」
とだけ言って一、二歩後退する。が、再び詰め寄ってきて、俺の肩をガシっと鷲掴みにした。暑苦しい……。
「ってこんなことしてる場合じゃない」
掴まれている肩を解放するため手で軽くどかして、俺は言った。
「少し落ち着けよ、どうかしたのか」
一言そういってやると、さっきまで落ち着いた様子は消え去り、少し落ち着きのない口調では言った。
「朝言ってたことだけど」
妙にそわそわしている。朝と言われても、和馬とはよく話す方なのでいつのことか見当がつかなかった。
「なんだっけ」
「あれだあれ、えっと、何限だっけ……」
狼狽える和馬は頭を軽くポンと二度三度叩くと、顎に手を添え考える仕草を取った。しかし、すぐにその手は顎から解放され、なにかを思い出したようだ。
「そう、現国だ! 現国!」
現国……ふと脳内で、現国の時間に心地いい陽に包み込まれていたシーンを思い出した。あれは良かった。
「あの授業が終わった後の休み時間に、放課後部活に見に行かないかってやつ」
ああ、と右手をグーにして左手の手の平にポンとコブシを置いた。思い出した。あのときは確か、途中でパンフの話にすり替わったからすっかり忘れていた。
「あれか。でも俺はパス。部活は数がありすぎて探すのが面倒だからな」
和馬は、えぇ、と言うと一歩後退して大仰に驚くような仕草を取る。が、和馬は後退させて足をすぐさま前へと一歩踏み込んで、悲壮な面持ちで言った。
「俺たちは中学の頃から一緒にバカやってきた仲じゃないか! それをこの高校という大舞台で裏切るのというのか! 見損なったぞ、ユート」
必要以上な声の大きさに、腕で何かを薙ぎ払うような芝居掛った動作。室内は静まり返り、放課後の談笑していた穏やかな空気は一変して消え、俺たちは必然的にクラスの注目の的になった。
これは……アレだ。提唱者一之瀬によって命名された『コントという名の演劇』が始まったのだ。
静まり返った居心地の悪い空気、突き刺さるように感じる視線、どれもこれも作り出したのは紛れもなく和馬だ。俺を逃さないようにするために、この舞台を和馬が意図的に作り出したのだと悟った。
「まってました」
「今日はやらないのかと思ったよ」
安堵の声が室内に飛び交っている。級友たちは既にコントモードのようだ。この状況に陥った以上、もはや後戻りはできない。クラスの級友たちが、談笑を止めてまでこの『コントという名の演劇』の続きを期待しているのを俺は知っている。これは、あれだ。例の空気を読まなければいけないというやつだ。
仕方がない、いつも通りに演技するだけだ。そう自分に言い聞かせ、ふう、と軽く息を吐く。よし、と思い和馬の顔を直視すると、そこにはいつもと違う状況がセットされていた。目の前に居る奴の顔には、寝跡がある。その顔で何発クサいセリフを吐くのだろうか。その度に笑いに堪えるこっちの身にもなってほしい。
静寂な教室にも、小さい声だがヒソヒソと話している声が耳に届く。
「仲栄のやつ、顔どうしたんだ」
「寝跡じゃない、ちょっと笑っちゃうかも」
「あそこまで芸が入っているとは、やりますね」
無理だ! 絶対無理! 俺はすぐに思考回路をめぐらせる。なにかいい案はないのだろうか……そうか、顔を見なければ!
固唾を飲んで、平静を装った。
「別に裏切るわけじゃないけど、今日雨降るし早く帰りたいだろ」
俺が演技を始めたことで、和馬のテンションが上がったのか、いつも以上に演技に身が入っていた。
「ああ、いつからユートはこんなにも冷酷人間になってしまったのだろうか」
大袈裟なまでに両手で頭を抱えてしゃがみこむ和馬。冷酷人間とはまた随分と酷いことを言われたものだ。すると和馬は立ち上がって、すかさず言った。
「だけどそんな冷酷ユートを更生させるのも、親友であるオレの役目だということは重々に理解している。だから、部活動だ! 探せば更生部活ってのもあるかもしれない」
なんともまあ、暑苦しいキャラ設定だ。部活だからだろうか。そんなことを考えながらも、次に言うことは決まっていた。
「はいはい、それは面白そうだな。じゃあ、俺帰る。部活頑張って探してくれ」
素気無い態度で接し、机に置いてあるカバンを肩に掛けて和馬の横を通り抜けた。これで、コントも部活からも逃れられる。だが、世の中そう甘くはなかった。
「ダメだ、ユート!」
無駄に大きい声が室内にも響き渡る。室内も和馬の暑苦しい演技に当てられてかボルテージが高まっていた。そして俺の目の前に立ちはだかるのは他ならぬ和馬だった。ちょっ、その顔を俺に見せるな!
「それじゃあ後悔する! ぜったい、後悔するに決まってる!」
和馬は再び腕を横に振り払うと、手には力強く込められた拳が出来上がっていた。渾身の演技にも、さすがにこのセリフとこの滑稽とも言える和馬の動作と顔に、思わず吹き出して笑う生徒もいた。いや、わかる、わかるよ。俺も当事者じゃなかったら、腹を抱えながら笑ってると思うし。てか、今すぐにでも笑いたい。
「どうなんだ、ユート! それと何故、オレの顔を見ない! 疾しいことでもあるのか!」
無茶言うな! 自分の顔がどうなっているのか見せておくべきだったか。百歩譲って頬や線の寝跡は我慢できる。だけど、そのファスナーの跡は止めてほしい。なんで額の、それも真ん中に跡をつけるのか理解できない。
「おい、雨降ってきたぞ」
「ほんとだ。さいあく、傘持ってきてない」
廊下から聞こえた声が、クラスの視線を俺たちから窓の方へと移り変えた。その声に釣られ俺も後ろを振り向き外の状況を確認するため窓に詰め寄った。雨脚は強くないが、降っている。さっきまで微かにしか揺れてすらいなかった草木が、その雨に誘われるように踊り始めていた。
「これよりも酷くならないうちに帰ろうぜ。」
「そうするか。せめて雨降っていないときに帰りたかったな」
「私、そろそろ部活行こうかな」
クラスの反応は区々(まちまち)だが、雨の影響で教室が少し慌ただしくなってきた。
「仲栄、さっきのコントは終わったのか」
クラスの男子が和馬にそう訊くと、
「ああ、終わった」
「どうせだったら、もう少しやってほしかったな。いい場面だったし」
その言葉に頷くクラスメイト。そんな彼らを見てか、和馬は少し申し訳なさそうに言った。
「いや、悪い。さっきも言ったけど、オレたち部活を見て回るから、今日はここで終了で」
はて、オレ達とは?
「じゃあな、小柄、仲栄。またコントやってくれよ。楽しみにしてるからな」
「じゃあね、ふたりとも。また明日」
教室を出ようとするクラスメイトに声を掛けられ、軽く手を上げ返事をした。和馬も同じような仕草を取りクラスメイトを見送る。
「雨が降るなんて運がなかったな、ユート」
背中越しから声を掛けてくる和馬に、溜息を一つ交えて嫌味のひとつでも言ってやろうかと思ったけど、どうにもそんな気分にはなれなかった。まあ、和馬が雨を降らしたわけではないから言うだけ理不尽か。
へへん、と妙な笑い声に、和馬は続けて言った。
「これで心置きなく見学ができるってもんだろ」
「いや、このくらいの雨なら降ってても帰る」
と思う。
「え?」
一瞬、和馬の世界だけが凍りついたかのように硬直し始めた。そして、その硬直を振り払おうと、ガチガチとぎこちないうロボットのような動作を始め、ゆっくりと口を開いた。
「カ、カ、カンガエ、ナオスナラ、イ、イマノウチダゾ」
「帰る。和馬もどうだ? 一緒に」
「キョ、キョウハ、ノ、ノリガ、ワルイデスネ、オヤブン」
妙なロボットのモノマネをする和馬に、なんとなく殴りたい気持ちに駆りたてられたので、ポンコツロボットを直すという意味を込め頭をポンと叩いた。
「痛いな!」
「お、上手いな。今の痛いって掛けたんだろ。殴られて痛いのと、自分のキャラがイタイって」
「……ま、まあな。オレってイタイからな……ってそんなわけあるか!」
ノリツッコミご苦労様。
気が付けばB組には俺たちしか残っている生徒はいなかった。ふたりして黙ると色々聞こえてくる。外で降っている雨音、廊下で膨張して聞こえる誰かの話し声、時折聞こえる足音。
「雨、強くなってきたな」
何度か話しているときにも垣間見ていたが、雨脚が弱くなることはなく、むしろ強くなっている。なんだか、帰るのも億劫になってきた。
「さてと、オレはひとり寂しく部活を見学してくる」
さっきまでの威勢はどこにいったのやら。それでも奴は、何かを企んでいるような表情をしているので、軽く嫌味を言った。
「数えきれないほど部活が存在するのに、それを放課後に見て回るのはどうかと思うけど」
俺の言葉を嫌味と聞き取ったのかは分からいが、和馬は肩をすくめると、ニヤついた顔をして、
「訊いた話だと、生徒会でも把握しきれないほどあるらしいぜ」
なんてことを言った。どこでそんな話を嗅ぎ付けたのかはさて置き、そんなに種類が豊富なら自分に合う部活を見つけるのも悪くはないとは思う。だけど、部活を見つけるためにあのパンフと睨めっこする気はさらさらない。
「見に行くならせめて、行きたい部活に目星付けてから誘ってくれ。そしたら考える」
「ほ、ほんとうか! 実は行きたい部活なら、もうちゃんと目星付けてあるんだぜ」
肩に掛けていたカバンから、紙切れ一枚を取り出し俺に見せびらかした。
「ノープランじゃなかったのか」
紙に書かれているのは、候補となっている部活名、活動場所、活動時間、活動日。ざっと見ても候補だけで二十近くある。
「ああ、ちゃんと計画は練ったぜ。さすがに数が多すぎるからな。パンフで身に染みた」
なるほど、納得だ。
「なら、付き合うよ。雨強くなってきたし、帰るのが面倒になった」
「それでこそユートだ! やっぱりなにをするのにもひとりで行動するのは不安だよなぁ。オレ小心者だからなぁ。いやぁ、良かった良かった!」
心にもないことを。和馬とは、中学の頃からの付き合いだが、不安だとか、そういった類のものとはまるっきり無縁だ。実際、中学のときに幾度となく、そういった場面に出くわしことがあったが、奴がひとりで行動するときは不安を感じさせないどころか、明らかにウキウキ感を体内から放出しているようなオーラが滲み出ていた。これから未知なる世界に足を踏み入れようとする冒険家、いや野心家だな、和馬の場合は。
「その前に、俺は今日中に提出するプリントを職員室に出してくる」
「お供するぜ!」
俺たちは、教室を後にして職員室を目指した。部活には入るかは分からないが、俺は心のどこかで期待に胸を膨らましていた。