7-2
「左手の甲、怪我してる。おそらく私をかばった時」
保健室に向かっている時に、葵が早口気味に言った。
一方の私は、葵の冷たい手に包まれてるからか、いまいち手の痛みが伝わってこなかった。
てっきり桐森たちがいるかなとか思ってたけど、保健室の鍵は閉まっていて、須磨から没収した鍵を使って中に入った。
電気をつけ、葵をベッドに座らせて。甲を覆っていた葵の手が離れると、確か人差し指のあたりから斜めに赤々とした傷があって、押さえつけれてたおかげで血がにじんでいた。
「…………痛い。…………」
冷たい風にあおられて、じくじくと神経を刺激するような痛みも、どこか空々しかった。一端意識すると、手の感覚全て持ってかれてるほど痛い。よく平然としてるな、私……と、ついマジマジと傷口を見てしまい、右手顔の半分を押さえて薬品の棚に向かった。
消毒と、絆創膏……じゃあ足りないか、えーとガーゼとテープと……包帯は大げさかな。……まあ、とりあえず、っと。両手に抱えたもろもろを持って葵がいるベッドに向かう。
葵は身じろぎもなくベッドの端に腰掛けていた。棚に飾られた人形のように、長い髪だけが風もなくさらさらと揺れていた。
「アキ……痛む?」
鉱石的な瞳に反射する光が、湿っぽく見えた。
「いや、しょーじき、よくわからない。全身が熱っぽくてだるいから」
もしかしたら、それが結構やばいってことなのかもしれないけど……まあ、深く考えないことにした。
失礼。と包帯とかガーゼとかを間に置いて、葵の横に腰掛ける。それから、まずハンカチで葵の手に付いた私の血をふき取って、もう一度だけ葵が怪我していないか確認する。揺れる瞳に見つめられて、私は軽く笑って自分の手に向き直った。
ハンカチに消毒液を染み込ませ、傷に押し当てるように血を拭き取る。ガーゼをあてがいテープで固定して、上から包帯を巻いていく。
「…………」「…………」
二人の間に会話はない。気まずさが濁りのように渦巻いていて、包帯の下で暴れる痛み以上に息詰まる。
最後に包帯の端を切ろうと思って、ハサミを持ってこなかったことに気付いた。
「あ、……と」
反射的に腰を浮かし、下手に動いたら包帯を巻きなおさなければいけなくて、中途半端に動きを止めた。ことごとく間が悪いな、私……。何にいらだたしいか判らないまま、長く息を吐きながら浮かした腰を下ろす。
再び訪れる、気まずい沈黙が私と葵を包む。
「お前は悪くないよ……」
そしてようやく出てきたのは、最悪の台詞だった。隣で葵が息を詰めるのが解った。
悪いかどうかを決めるのは自分。自分が悪いと思いこむやつに、『悪くない』は慰め以上に、責め苦に聞こえることがあることくらい、私が一番知っている。けれど、私にはそれ以外に言えることがなくて。言葉足らずに口を走らせ続けるしか私にはできなかった。
「これは私が勝手に首を突っ込んだ結果だ。だから甲の傷も、桐森の言葉も、全部私が背負うべき」
「そんな事ないっ」
痛々しく巻かれた包帯に落ちる視線を、葵の怒鳴り声が遮った。
顔を上げれば、葵は目を力いっぱい顰め、歯を食いしばるように私を睨んでいた。自分の胸を、ただでさえ白い肌がより白くなるほど握り締め、それしか表情を知らないかのように必死に私を見つめていた。
「そんな、事っ……な、い……。私はいい、私はもう慣れて、るから。人の幸せを落とすは私の役目、あの人から幸福を奪ったのは私っ、……だから、責められるのは当然で、私は穢れてるから……けど、アキが、アキがまた傷つくのは――」
上気した声が突然途切れた。はっとなって、表情が激情のままに固まる。
「アキはもう十分傷ついた。二年前の事故の日、私なんかに遭遇してしまったから……」
実は、あの後、女子中学生が生存したというニュースを聞いて、私の学校に様子を見に行った、と。葵は時々むせながらつぶやいた。
その事実に愕然となると共に、恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
私は〝イマ″が信じられなくて、近づくすべてを拒絶していた。
自分が壊してしまうことを、これから壊れてしまう幸せの中にいる可能性におびえる私を葵は知ってしまった。自分のせいで私がそうなったと、また自分を戒めた。
こいつは私かそれ以上に不器用で、臆病で。私が投げた言葉は、やはり中途半端に届いていたんだ。
「ばーか、だから先に言えっての」
私は呆れたふうに笑って、視線を前に戻しながら続けた。
「だから、私は言ったの。私は灰色でいい、てね」
私は夕日が落ちる山々の光景を思い出しながら、曖昧に呟いた。葵の視線が頬を刺す。
「あの事故の日、葵は白い羽根を堕として、人に不幸を招くと言った。泣きそうで、けどそんな権利はないって突っぱねるようにして……だから、私は白くても、羽根に振り回されるだけの〝ただの人〟でもなく、灰色でいい。そうすれば、私は貴女を傷つけることもなく、貴女の肩の荷を背負えるんじゃないか、……って想ったから」
まあ、本当に〝灰色〟な状態になったのは想定外だったけど。その分、少しは葵の背負ってるものを感じることができた。
私は白い羽根も黒い羽根も見えて、けど私にはそれらを取り除くことしか出来ない。幸福でも不運でもない不安定な状態にする、中途半端な存在だったから、私は半分だけ葵の無力さを理解したつもりだった。
私は出来るだけ明るく見えるよう笑った。
「同じだよ。少なくとも私は、ただ怖いんだ。人を傷つけて、傷つけるしかない自分を受け入れられることも、拒絶されて永遠に嫌われることも、怖いんだ。自分が触れることで関係が壊れてしまうことが、どうしようもなく怖い。見ている日常がどうしようもなく不安なんだ」
本当に怖いのは、変化が目に見えてしまうから。私には陽子がいて、姉や母さんがいて。高校に入ってからも志刀や命斗が加わって。事故以来ふさぎ込んでいた私に、じっくりと付き合ってくれる人たちがいたから、どうにかつぶされなかったに過ぎない。
なら、今度こそ私は彼女に手を伸ばす。
二年でつぶれそうになった私でも、十六年も耐え続けた彼女を支えれるか解らないけど。それでも、私は彼女を支えたいと思った。
「けど私はお前を信じるよ。お前の見ているものが私に見えなくても、お前が自分を穢れてるなんて言っても、たとえ他人がどんなにお前を非難したってさ。私は、お前が見てるものをありのまま受け止める。だから、何が見えるのか言ってほしい。何かしてほしいことがあるなら、私は力になりたい」
私は、葵に振り向いた。今度こそ真正面から、彼女を受け止める。窓の外の暗闇に、ぼうっと浮き上がる雪のようにはかない彼女に、精一杯微笑みかけた。
「それとも、私じゃあ頼りないのかな?」
葵は顔を顰めたまま固まった。途端に不安が込み上げる中、葵はゆっくりと首を振る。それから、
「…………ありがと、アキ」
はにかむように小さく笑った。氷山に閉じ込められた花が、月の光に照らされてきらきらと光の粒を散らすように。