6-5
女とも言えない声に、一瞬にして喉は引きつった。
フラッシュバックする事故の光景。生温かい闇に佇んで、血みどろな一人の少女が寂しげに見つめてくる。雪のような白い肌も、エナメルのように黒い髪も赤黒い血で染まり、うつろな視線で私を見据える――夢の中の葵が私を責めるように、
「――アキ!」
――くいと引っ張られて、私ははたと下を見た。葵が、黒い目で痛ましそうに見つめていた……そう、葵だ。今にも泣きそうなほど瞳を揺らして、けど袖を引く力は軽かった。葵の背中にある羽が、闇に溶けてしまうように消えた。
それを見て、私は急に現実に引き戻された。
雑然とした闇の中で踊る女は酔いしれるように笑っていて、葵のことを侮蔑していた。
狂おしいほど相手を想って、けど純粋な願いすら信じられなくなった。恨むべき相手を見失い、身近なものに当たって自分を保つしかできなくて。目の前の少女が愁いにかげりを落としていることにすら気がつかない。
こいつが、自分が悪いのだとじっと耐え忍ぶ姿を、見ようともしない。
握りしめた左手に、熱さが宿る。
「……えに、何が……るっていうんだ」
ひとりでに感情が漏れだしていく。
一度恐怖に縮み上がった体は、手足が痙攣するほど冷たくなって。無理やり押し込まれたバネが元に戻ろうとするように、芯まで冷め切った体の奥底に熱いものが灯る。
恐怖で縮み上がった体は、別の理由から震えていた。
「お前なんて、お前なんて存在しなければっ」
「お前は、こいつの何が解るって言うんだっ!!」
女の罵倒を、私は内側から湧き立つ熱さそのままに遮った。握りしめた左手が激しく鼓動して、高ぶった感情を更にあおる。
「お前は何を知ってる? 葵がどうして他人を寄せ付けないのか、どうしていつも一人凛と背を伸ばしてるのか……どうして能面のように表情を消して、何を背負って今ここにいるのか、お前が何もかも知ってて、それでもこいつを否定してるのか?」
内側を占める熱に対して、私の声は氷のように冷めきっていた。女が初めて人間っぽく愕然としていた。構わず私は、乱暴に手を横に振った。
「嫌なことを全部他人に押し付けてっ……、見たくない現実から逃げるお前に何が解る!! 妄想じみた自己嫌悪にとらわれて、自分が抱くものまで見えなくなったお前にっ、自分のせいで他人が傷つけ、深く関わることに怯え続けるこいつの何が解るんだ!」
事故は自分のせいだと責めながら、失った命の重さに耐えきれなくて、ベッドの上で一人泣くしかなかった。これ以上誰かを傷付けないよう、周囲を拒絶することしかできなった! 必死に背筋を伸ばすことなぞ、私には想像できないほど苦しい。
ふつふつと込み上げる熱さ。血液が垂れ流れるように体が熱くなり、煮えたぎった金属のような、どろりとあふれてくる感情をむき出しにしてそいつを睨んだ。
「彼が求めた? だから自分を変えた? は、笑わせるな! 求めたのはお前だろうがっ。 彼に好かれる私、彼女である私、彼女として尽くす私っ! 彼女として、友人から嫉妬されるほど努力するけなげな自分っ!! ……すべてお前が望んだ姿だっ、彼の為と主観を入れ替えて、結局自分の為だろうが! 彼女でいないと、彼の特別じゃないと不安で、無理して嘘をつき続け、すれ違いにもふたをして見ないようにしてきたっ。あまつさえ誤魔化すために彼を言い訳にして、狂おしいほど愛が自分だけものじゃないと願ってるだけじゃないのか!」
私は結局、傷つけまいといいながら自分を守っていた。理屈をつけて、自分の行為を肯定してっ、私は陽子や友人達との関係が壊れるのが怖かっただけなんだ。壊れるくらいなら、壊せばいい。ないものは失わない、向けられる侮蔑にもすぐ慣れる。そう自分に嘘をつき続けた。
「いい加減、現実を見ろよ」
目の前の女は、私の叫びに圧倒されて、壁際まで引きさがる。白い頬が、よりやせ細ったように見えた。
「お前に声をかけたやつらは、本当にお前をあざ笑っていたのか? 本当にお前と馬鹿にしてたのか?」
悪いかどうかを決めるのは自分だ。周囲がどんなに暖かくても、優しく慰めても、本人が悪いと思い込んでいれば、それは責め苦と変わらない。
だから、『お前は悪くない』なんて言葉は意味がない。
「貴女に……何が……」
「何も解るか」
私ははっきりと言った。
「漠然と触れ合う想いだけじゃあ、人は動けないんだよ。自分から何も言わないで、気持ちなんて伝わるだけないだろうが、……ばか」
何も言わないからと、言えないからと否定していいものではないけど。相手の優しさに甘えるだけでは駄目。言いたいことがあるなら、正直に言わなければ意味がない。
闇に取り残されたように女は立ち尽くす。際限なく見開かれた目に怒りと真逆の感情が浮かんでいた。まるで、押しこめていた不安や恐怖が表情に現れていくように、彼女はゆっくりと唇を震わせた。
「はは、なにそれ、……何なのよ……意味わかんない、私が……悪い? こんなにアキを思って苦しいのがいけないこと? はは、おかしい。そんなのないわよ……」
女は、気が抜けたように足元がふらついた。壁に手をついてどうにか堪えると、左手で髪を掻き揚げながら顔を覆い、ゆっくり口角を上向きに引きつらせていく。
「私はアキのそばにいられれば良かった。教室だと飄々と軽口言うくせに、二人きりだと何もいえない彼が好きだった。手作り弁当一つで子供みたいに喜ぶ彼が、自分の時間まで削って部のために走り回る彼が……かっこよかった。だから励ましたかったのに、メールしたり、デートして気分を入れ替えようとしたり……それがいけなかったの? 私は別に振り返ってほしいわけじゃあないの」
零れだす言葉はどれも傷だらけで、どんどんと彼女の体を暗闇へと追いやっていく。
「アナタは言った。私が彼女の何を知ってるかって……けど、そんなもの、アナタにだって言えること。なら、アナタに私の何が理解っていうの!?」
女の髪が再び、黒い羽根のように広がる。
「そうよね、……そう! アナタこそ私の、いえ、私とアキの事なんて何も知らないじゃない。私がどれほどアキを愛していて、アキが離れられないほど私に依存していたか! 私はアキのことを一年前から知ってるっ。やる気のない先輩の下で、いつも歯を食いしばりながら努力してる彼をっ。そんな孤高な彼の支えになりたくて、私はこの一年間をささげたの! それがあなたに解るとでもいうのっっ!! そうっ、そうよ。アナタは結局、私の表面だけ見て、ただ憐れんでいるだけじゃない!! あんたなんかに人の気持ちが分かるわけない!」
女は何かを探すように入口の方を一瞥し、すぐに私を正面に捉えた。
「そんなわけの解らないものを背負ったあんたが――同じ人間でいいはずない!」
再び私を睨む女は、瞳に先のような激しい光を灯していた。狂いきった瞳が、今度は真正面から私を睨みつけた。弓のように引き絞った瞳に憎悪を押し詰めて、私たちがいる方向を睨んだ。だらりと垂れた腕の先に、白い白刃が牙を剥く。
「私は幸せだった。アキが隣にいるだけで、恥ずかしそうに笑いかけてくれるだけでっ、アキがおずおずと手をつないでくれるだけで充分だった! 甲子園に行くって、大げさに夢を語ってくれるのも、私を気にかけてくれる優しさも、様子を見に来た私にも気付かず練習する直向さも! 全部好きだった!! はにかむ彼の笑みがくすぐったくて、アキがいてくれるだけで私は満足だったのに! アキには私が必要で、私にはアキしかいなかったのに!!」
私は静かにそれを聴いていた。体から湧き出した熱に追い出されたかのように、何もかも空っぽになった気分だった。
驚くほど、冷静な頭で、私は薄闇の向こうを見据えた。
「それを向ける先のは、私ではないだろ?」
女がはっとなる。