5-2
立冬。陽子という唯一の支えすら拒絶して、私は嘲笑と侮蔑されるだけの存在に成り下がっていた。もうクラスでは死神だの、〝中女テロリスト″だの呼ばれるようになり、遠巻きな白い視線はいつまでもこびりついていた。
味方は、もういない。全部私自身が遠ざけた。同時にこれでよかったのだと思う。私と一緒にいると、また壊れてしまうのだから。
「朱樹ならいねえぞ。あいつら、あんたが本気にくるかどうか、笑いたいだけだからな」
理科室の途に手をかけたところで後ろから声がかかった。鼻で笑うような男の声だ。
朱樹とは私を理科室によんだ女子生徒の名前。今まで散々罵倒してたことを謝りたいとか、そんな理由だった。私が振り向きもしないでいると、男は呆れたように続けた。
「ほら、向かいの四階。自習室があんだろ? そっからだとそこ、障害物もなんもないからさ、あいつらそこに集まって」
「――知ってるよ」
お節介以外の何物でもない声を、私は一蹴した。そんなこと解ってる。といった方が正確かもしれない。見てもいないのに、そいつは肩をすくめた気がした。
「だったらどーして、んな律儀に来てんだよ? 相手いねえの解ってんのにさ」
私は初めて声の主の方を振り返った。相手の言い草がどうにも嫌だったから。
ただでさえ目つきの悪い顔をしかめて、きっと相手を睨む。果たして、そこには西貴宗治という変わり者が窓枠に体重を預けていて、私が振り向くと何もなかったようにはにかむ。
ひどく人懐っこそうな笑み。けど私には底の見えない笑みに思えて、本能的に怒りや嫌悪が浮かんできた。
西貴宗治は、歯を見せたまま『わるいわるい』と腰低く謝った。
なら、それで終わりだと、私はいつもどおり視線を背けようとして――
「何であんたは、そんな苦しそうなんだ?」
戻しかけた目が開く。頬の筋肉が引きつって、私は壊れた機械のように再び西貴宗治を見た。
西貴宗治は私を見ていなかった。開いた窓にそらした上体を乗せて、まぶしそうに手を庇にしながら空を見ていた。うつろな声色で溜め息をつく。
「どうして、そう……思うんだ」
声がかすれている。心臓がきゅうっと縮小したように思えた。西貴宗治は、無頓着なのか、私の動揺にも気付いてないのか口元をへらへらとつり上げる。
「どーして、ってそりゃ単なる置き換えだ、よっと」
西貴宗治が勢いつけて態勢を戻したので私は慌てて視線を落とした。
「仮に俺があんたの立場だったとしたら、どう思うんだろうな、てな。……まあ、俺の場合、クラスメイトから罵倒されたくらいだったら、へらへら笑ってる気がしないでもないがな」
ひどく一人心地な口調だった。落ちていく夕日と一緒に、愚痴をしずめてくような淡い言い草が、何故か胸に突き刺さった。言葉の続きにおびえるように、私の心はさらに縮んでいく。
「けど、だからわかんねーの」
西貴宗治の視線が強く、そして冷たくなる。
「……なんであんたは、そんな『この世の地獄を見て』るような、すさんだってか、痛ましげな目をしてんだろうなって」
私は背筋が凍った。声色は変わらないし、口元だってにやけたまま。
しかしこいつは、他のやつらとは違うものが見ているように語る。
「あんたは、何が怖いんだ?」
私は西貴宗治が何を見ているのか怖くなった。それも今日が初めてではない。
何を、どこまで、こいつは知っている? そうさ。私が怖いのは……教室で孤立することでも、いじめの的になることでもない。陽子の時みたいに、また私のせいで人を傷つけること、……人との関係を、私が壊してしまうこと。
…………けど、そんなことよりもっと単純に――
「おまえに何が解るんだ……」
私は低く探りを入れた。
「周囲から親しまれて、信頼も厚くて、……私みたいな害虫にもへらへら話しかけても、クラスに受け止められるお前に、私の何が解る」
私の詰問に、彼はあっけらかんと答えた。「わかんねえ」と。
「俺はあんたじゃねえ。あんたの気持ちや考え方はあんたにしかわっかんねえよ。……いったろ、俺はただキョーミがあんの。俺がこんな打ち込んでる『楽しい』学校生活が、あんたにはどう映ってんのか」
『俺は馬鹿みたいに変化のない学校生活が割と好きなんだ。だから何であんたは、そんな暗い顔してんのか興味あってさ』
西貴宗治が、私に構い始めたころの言葉が浮かんだ。
私はこいつの言葉を裏を噛みしめるように、俯いてしまった。
「確かにさ、学校の関係を軽視はしない。しねえけど、こんな学校なんて狭い世界が全てだなんて妄信もしない。だってそうだろ? 確かにこの街には高・中あわせて片手くらいしかねえけど、全国で見れば、同じような施設は数百とある。それに、駅前に顔出せば、信じられないくらいの人で埋め尽くされてるしさ」
こいつは他のやつらとは違う。
「親と子供がまともに話できんなら、年の差なんてある程度はどうにでもなる。今が苦しいなら、『イマ』の外側に行く手だってあるんだ。なのにあんたは、今の状態に固執してるようにみえんだよ。わざと周囲を拒絶して、自分に白い目や嫌悪の矛先を向けさせて、苦しいくせに、今の状況に閉じこもってる。今の状況が本気で嫌ならさっき言ったみたいに、気分を変えて街に出てみればいいし、感心されねえかもだけど、家族だけの世界に閉じこもるか、親に相談して転校したっていい。そうやって新しい関け――」
こいつはどこまでも中立で。クラスメイトのように、私の意固地に辟易するでも、悲劇のヒロインぶってると侮蔑するでもなく。陽子のように、自分も身の振り方も考えず守りに掛かるでもない。
だからこそ、残忍だ。
「じゃねえと、つまんないでしょっ、んな」
「お前に何が解るっっ!!!」
私は突然西貴宗治の声を遮った。思いのほか大きな声が出て、肩はいからせながら西貴宗治の顔を睨んだ。
「わかんねえよ」
と西貴宗治は肩をすくめて、三度引き下がる。
「…………っ」
こいつは、掛け値なしで私を見ているのだ。恐怖に震える人に向ける同情も、いつまでも過去にとらわれる人に向ける嘲りもなく。今ここにいる『笹本秋』という人格を見据えようとしている。
私に客観的な価値を与えようとする。
「まったく、難儀なやつだな、あんたって。人間、自分から話さなきゃ、何にも始まらないって」
先日こいつは言った。価値観があおうがあわまいが、互いに主張をぶつけ合うのが、心の底から楽しいんだと。
『だってそうだろ。毎日そいつらの違った一面が見えてさ、あきねえってか、自分にはない考えを知れるのって面白いだろ? だから、俺は今充実してんの』
「私は、……いらない」
私はそうやって、幸せに無頓着だったせいで、堕ちる兆しが見えなかった。山を登り切れば、後は落ちるだけというのに。私は長い上り坂を平坦だと思い込んで、下り坂に足を取られた。
「お前も、私に関わると後悔するぞ」
私は自分の無自覚のせいで、乗り合わせた人全員を道連れにしたのだから。
「おお、こわ。さすが『中女テロスト』さんは、雰囲気が違うな」
すごむ私に対して、西貴宗治は晴れやかな空のように、からからを吹き出した。どこかの掲示板で炎上した、私を揶揄する言葉まで持ち出して。
「けど生憎、俺はまだ後悔したことなかったりして」
「おっ、西貴。ちょうどいいとこに、なあそんなとこで何してんだ?」
彼を呼ぶ声がして、西貴宗治は窓の方に身を翻した。
「散歩。んで、どうかしたか?」
「いやな、今、帰りのジュース掛けて、佐久和たちと勝負してんだけどよ、暇なら助っ人してくんねえか。負けそうなんだって」
「おう、わかった。今そっち行くわ」
相手のお願いに、西貴宗治は軽快に二つ返事だった。
それから、あげたままの腕を軽く振って、独り言のようにぼやきながら歩き出す。
「ちゅーこくはした。じゃあな、笹本さん」
西貴は一度も振り返ることなく歩き去っていった。