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私は変化の乏しい、退屈なくらいの日常がわりと好きだった。今も……好き。
幸運なんて自分には不相応だと思うし、そのせいで不運に落ちるというなら、私は波風立たない事に越したことはない。
決して高みを目指さず、ゆえに地に落ちることもない。
高校に進学してから早半年が過ぎた。進学したのは三流公立。いけるとこなんて腐るほどあったし、ここを受けるくらいなら県外を受験して玉砕する。そんな考えが主流だったらしい。
例えば駅一つ分東に行けば、制服がかわいいと人気の高校があった。……女子高だが。
私はここでいい。ここには私の居場所を作ってくれた人がいた。そしていつまでもそばで支えてくれる。おかげで少しは事故の記憶が薄れている気がした。
不器用で何もできない自分を、私は今でも疎ましい。
けど入学してすぐ生徒会長に捕まって、悲観的になってる暇がなかったし。教室で露骨に避けられることもなくて、雰囲気になじむよう促してくれる存在もできていった。
どうも……私の周りにはお節介が集まってくるようだ。
朝も早い廊下は人の気配が薄い。けれど香る秋に誘われて、時々生徒たちがクスクス笑っていた。
澄んだ陽だまりの中を一人廊下を歩いていると、いきなり後ろから押された。
「うおっ」
「おっはよ、アキ」
はつらつとした声は容赦なく私の態勢を崩す。変な悲鳴と、声高らかに笑ってもいた。
私は仏頂面で振り返る。そこには朝日よりまばゆい笑顔があった。
猫のようなまん丸い目、ニカっと笑みを浮かべる口元。肩口でそろえた髪は後ろでまとめ、ピンかなにかで上向きに留めていた。彼女の名前が現したような爽快な表情をしてる。
「陽子、朝から元気だな……」
げんなりとする私とは逆に、そいつは弾んだ声を上げる。
「だって、朝からアキにあえたからっ」
と、陽子は表情をほころばせ腕を絡めてくる……て、胸が当たってるから。
飽きない幼馴染を見て溜め息。それから思い出したようにあくび。
本名は日野陽子。小学校からの付き合いで、高校もさも当然のように同じだった。
中学の時、周囲の暖かさを拒絶した私を、それでも見捨てなかった親友。自分が罵倒され傷つくのも省みず、いつも私をそばで支えてくれた。私の事をどこまでも一途に思ってくれる、今でも大切な存在だ。
陽子がいつもそばにいてくれることが嬉しくて、だからこそ素直になれなくて。
私は指で目元を拭って、振り向きざまに羽根を掠めとる。
「ん? アキ、どこ行くの? 教室逆だよ?」
「ちょっと、顔洗ってくる」
怪訝そうに呼び止める陽子に、私はあくびの余韻を残した声で返した。
「そっか」
ひらひら振った手を引っ込めて。握り締めて目を隠し、
「んじゃ、美顔をよりひきしめてきんしゃい!」
意地悪っぽく送り出す陽子に、聞かれないようにごめんとつぶやいた。
焦げたように変色する羽根を握りつぶす。人肉を焼いたような、嫌な臭いが鼻をついて離れない。
陽子は何もなかったかのように教室に入っていった。
昔、私がまだ小学四年生の頃、父さんの書斎で見つけた本があった。
人には三種類いて、それぞれ死神、天使、羽なしと仮に呼ぶ。
筆者によれば人の吉凶には周期があるのだと。それらをつかさどるのは、人間が生まれ持っているエネルギーだ。つまるところ、幸運は身を削って生み出すもの。
やけに宗教的な言葉が並んでて、数行読むごとに目を回していた。
確かあの時、頭痛と知恵熱で半日寝込んだんだったっけ……。そしたら母さんに、
『アキは体が弱いんだから、無理するんだったら事前にお母さんに言ってっ』
とか無茶を言われた気がする。
結局、あの本に何がかかれてたなんて覚えてない。学術的だった気がするけど、著者が何を訴えたかったのか知らない。
天使は白い羽を片方に持ち、気まぐれに幸運を呼ぶ。
死神は黒い羽を片方に持ち、幸福すぎる人に不運を呼ぶ。
羽なしは羽をもたないただの人間。
そして天使や死神が関わった羽なしには印がつけられる。
天使が落とす、幸せの白い羽根。死神が汚す、負に落ちる黒い羽根。
白い羽根はその人に些細な幸福を呼ぶけれど、それは長く続くことはない。幸福が続いてしまえばその人は死に近づいてしまうから。
そして私は知ってしまった。あの日、死を覚悟した私が生き残った代償。
不運の前には幸福がある。私にとってそれは変わらず続く日常だったというわけだ。心のそこから望み、無意識のうちに自分の命を削って幸運にしがみついてた。
白い羽根は小さな幸福を運んでいく。
黒い羽根が人を不運に突き落とす。
だったら、今の幸せは果たして、〝ホンモノ〟なのだろうか。
「――さん、ちょ――」
夢から覚めるよう前のように、ぼんやりとした女の声が聞こえた。女の声は徐々に近づいてきてる……、けど私は、ずっと手を擦り合わせていた。
「笹本さん!」
「――!」
耳元で叫ぶ声に、はっとなって手を止めた。
女の声は明らかに、呆れたように頭を抱えていた。
「笹本さん……、あなた、何でこんな気持ちのいい朝から、親の敵のような険しい顔で手を洗ってるの?」
蛇口から噴き出す水が私の両手を包んでる。冬の立とうとするこの時期、けど水の冷たさは感じない。頭もぼんやりとしてて、特に左手の感覚がなかった。
「……ぃっ……」
じわりと熱さが皮膚を伝う。見れば肉が剥き出したように、左手が赤々と腫れていた。
何やってんだ、私……。確か顔を洗おうと洗い場に来て、蛇口をひねって。それで……
隣で大きい溜め息が聞こえた。
「なにやっての……、ほんと。人が少なかったのが幸いね。声かけるのが私じゃあなかったら、完全に通報されていたわよ」
「あ……、ああ、悪い」
私はおもむろに蛇口を捻って顔を上げた。
予想通りの顔が出迎えた。花が恥らうどころか、頭を下げて敬ってしまうほどの顔が、今は疲れたふうに呆れている。けれどそれは、雲間の月明かりのようにみるものが吸い込まれるものだった。
細く整った眉にすっと通る鼻、薄く膨らむ唇。起伏に富んだ体のラインを、紺のブレザーと波打つレンガ色の髪が縁取る。
そして何より。彼女の背後には淡い朝日を吸い込みまばゆく光り輝く――真白の片翼。それは霞に映る幻影のようで、目を細める間に視界から消えてしまった。
「冷やした方がいいんじゃないの?」
『何があった』と訊くのではなく、私の手のことを気遣う。些細な気遣いが少しだけ嬉しかった。
「水だろうが空気だろうが、これじゃあ染みるだけだろ。だったら水がもったいない」
「まあ、そうかもね」
私は左手に刺激しないようシャツで拭ってから、命斗に向き合った。少し布が当たるだけでも、じくじくと内側へと痛みが染みこんでくる。
「それにしても……、朝からお勤めご苦労なことだな、命斗」
「ええ……」
労いの声に命斗は歯切れ悪く答えた。朝から巡回してることから、どうせまた生徒間の問題だろう。ろくでもないことだろうと考えていたが、反応を見て確信した。
もうすぐ秋も深まって、いろいろ行事が立て込しな。
この白為命斗はこの学校の生徒会長で、教師にも生徒にも支持されている。
特に、『美』であるとか『秀』を使った熟語は全てこいつを指す、といって過言ではなく、嫌味なほど欠点がない。各方面に秀でていて、物腰も柔らかで。分け隔てなくて……それが鼻に付かなくて。男女ともに好かれる美少女も珍しい。
「どうして、お前がこの高校にいるのか。いまだに訳が分からん」
「あら、そんなことどうでもいいでしょ?」
私の呟きに気を悪くするそぶりもなく、命斗は胸に手を当てそっと目を閉じた。
うっすらと目を開きこんなことを言う。まばゆい光を自ら発すように、どこまでも優しく、吐息に舞う羽根のように軽く。
「私がここで会長をしいてたから、あなたに会うことができた……その偶然に、私は感謝してるもの」
そして、恥じらいに頬を染めながら笑みを深くするのだ。
思わず見とれてしまった。嫉妬や劣情も放り出して、陽光をまとう彼女の微笑みに引き込まれていく。
――っ。こいつは~~、……はぁあ。左手で顔を覆って、ようやく命斗から視線をはずす。
「お前は、その不自覚に誤解を振りまく癖をどうにかしてくれ。……私をたぶらかしたって何もでてこないからな」
険しい目で睨むと、透き通る指を口元にあてて、小さく笑う。
「あら、ざんねん」
ころころと笑ってるとこを見ると、少しは年が近く感じられた。
「でも、……そうね」
命斗の声からおふざけが消える。
目じりや口元に疲れが滲み出し、らしくない弱音が命斗の口からこぼれる。
「今はまだたいした問題じゃないけど、そのうち笹本さんにもお願いするかもしれない」
ブレザーの懐からケース取り出し、中の眼鏡をかけながら歩き出す。
「そのときは頼りにしてるから、左手お大事にね?」
手折られた花のようにしおらかに微笑んで、すっと脇を通り過ぎた。
私が振りかえる頃には、髪を一つにまとめて気合を入れた後姿があった。まばらな人通りにも、一人一人笑顔で挨拶していく。
「だから、……何で私にふるんだ、っつの……」
強めの溜め息が左手を直撃して――、
「いっつぅぅ――――」
痛みが神経にまでとどいて、私はその場で悶絶した。