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灰羽  作者: 学無
第四章
16/36

4-2

 朝……。私は洗面台の鏡に立って、思わず笑ってしまった。振り返っても鏡はなかった。

 唇は青く萎んでいて、三日吐き続けたように頬がこけている。汗で張り付いた髪が余計に歪な形を作っていた。クマで青黒く落ち窪んだ目元も、乾いた土のような肌も、自殺した少女のようである。

「はは、人相ってここまで変わるんだ、あはは」

 呆れてるのに、目の前の少女はてんで笑わない。乾いた笑い声もすぐに萎んでいった。

「はは、……は、…………。……ほんと、どこの三流ホラーだよ……」

 夢の内容を思い出して、胸の辺りを握り締めた。体が、……痙攣するように震えた。

 二年前の事故のことは……正直ぼんやりとしか覚えていない。葵が無言でバスを降りてからは、日中の疲れからうとうとしてて、気付いた時には地面の上だった。周囲には木が生い茂っていて、雑草交じりの地面が硬くて冷たくて。そのくせ、下になってる部分がじんわりと熱い。とにかく全身がけだるくて、冬場の寝起きみたいに現実がぼんやりとしていた。

 どこからか、うめき声が聞こえた。同じように投げ出された母親らしき人が、動かない子供を抱いて何事か嘆いている。かろうじて動ける人が、自分も血だらけだというのに、他のけが人を励ましていた。

 私も……何かするべきだろうか。そう考えて、けど意識とは裏腹に手足がてことして動かない。

 そんな折に黒い羽根を見つけたのだ。伸びていた腕の先、少し指を動かせば触れられそうな位置に、暗闇に溶けることない黒い羽根があった。

 その羽根に、悲しげな瞳をした葵の姿が重なった。私は半ば反射的に羽根に手を伸ばし、羽根は触れる前に灰のように散っていった。葵の愁い顔も一緒になって消えた。

 その光景を見た瞬間、『ああ、このまま死ぬんだな』と思った。聞こえていた声が、見えていた母親が急に遠くなった。私は多分……最後まで苦笑を浮かべていた。

「『私は、それを黒く堕とさないといけないから』……だったか……」

 現在の私が、葵の言葉を反芻する。あの時私は、どうして葵が今にも泣きそうな顔で、辛い役目のことを言ったのか、本当に理解してなかった。

「幸せの後には不運がやってきて、人が味わえる幸せの量は決まってる。幸せとは山を登るようなものだから、いつかは力尽きるし、……上った後は……ひたすらに下っていくしかない……だったかな」

 昔読んだ本の内容だ。今の私なら、筆者の絶望も理解できる気がする。

 この世界には三種類の役目がある。幸せを呼ぶ天使と、不幸を招く死神と、そして――

「…………忘れた……」

 ふと出てきた一文を、けれど私は頭を振って消す。

 私は幸せだった。自分を認めてくれる、〝笹本秋〟としてみてくれる人たちに恵まれていた私は、平凡な〝イマ〟以上の幸せはなかった。それがいつの間にか当然になって、いつからか奇跡になっていたことに気付くことが出来なかった。私は無心で坂道を駆け上がっていた。

「葵はどんな気持ちで、私の羽根を見ていたんだろう……な」

 何も知らず自分の話を聞いている相手を、のんきにうとうとする女子中学生を、これから堕とす相手としての私を、……葵はどんな思いで見ていたのだろう。

 私は一生分の幸せをすでに享受していたのだ。葵がそれを知覚できていたかまでは判らないけど、私の身に何かしらの不運が起こる事は嫌ほど解っていた。もしかしたら、もう二度と会う気もなかったのかもしれない。自分の役目を語ったのも、警告のためだったのかもしれない。

 走馬灯のような思考が駆け抜けて、私は、せめても、他の人の命が救われることを祈った。乗客も、葵も、私に巻き込まれただけだ。私は……十分に幸せだった。未練もない。

 けど、神ってやつはどこまでも残酷だった。

「ほんと…………、なんで、…………いきて、んだろな……」

 人の気配が、深い闇と油の匂いに飲み込まれていく。静寂に包まれそうな中で、助けてを呼び続ける声は多かった。待てど待てど来ない救助の手を、生にしがみついて、必死に手を伸ばす人たちはいた。徐々に弱くなるそれらを見捨てて――その全ての始まりを作った私だけが、すぐに生きることをあきらめた私が、生きている。

「…………私が、……私がっ」

 胸を力いっぱい握り締める。喉が締め付けられて、呼吸が乱れだす。 

 私のせいで二十人以上が死んだ。なのに私を責める声はない。マスコミや遺族や専門家は、対応の遅れた救助隊やバス会社を責め立てた。家族を返せと喚き散らし、葬式に参列した私には同情や哀れみを向けて。家族の死を背負って生きてくれと願う人もいた。

 誰も知らない。誰にも見えない。白い羽根も黒い羽根も、そこら中に溢れてて、なのに平気な顔して笑ったり、怒ったり、泣いたり、悲しんだり……。

 私には、〝イマ〟がとてつもなく歪に見えた。

 鏡に映る顔は、肉をそぎ落としたようにやつれていた。口の端がだらしなく引きつっている。

「……はは。ははは、駄目……だな。また、姉さんや陽子を泣かせてしまう……」

 目の前にいたのは、二年前となんら代わりのない私の姿だった。

 蛇口を捻り、何度も水を顔にこすり付けて、どうにか赤みだけを取り戻す。それから、母さんたちが起きてくる前に家を出た。ドアを開けた途端にあふれ出す朝日が妙にまぶしく、朝の冴えきった空気は痛いくらいだった。

 自分を影を追うようにして歩いていると、最初の曲がり角の辺りで、思いっきり背中と叩かれた。反応が遅れてる間に弾むような陽子の声が聞こえた。

「おっはよ、アキ! って、どうしたの、アキっ? 顔色悪いよ? 夜、眠れなかったの? うわっ、目なんて両目とも真っ赤じゃない! 何があったの、昨日のことっ、私の忠告無視した志刀くんに襲われたとか!?」

 陽子は矢継ぎ早に言って私の頬をはさむ。心配そうに見つめてきた。

「…………何もないし、志刀にそんな度胸もない」

 陽子の勢いに押されながらも、私は力なく首を振った。

「ただ……、肌寒い風が少し目にしみただけ」

 自分の腕を抱き寄せながら、風に身が凍えたようにふるまった。陽子は頬に触れていた手を離し、少し距離を置いてうつむいた。

「ふーん。そっか、……うん、そう。今日は冷え込んでるもんねっ」

 陽子は蝋燭の火のように萎んでいく声を、どうにか最後だけ明るくする。

 今朝の夢のせいもあって、はにかむ陽子が泣いているように見えた。私の思い込みや身勝手で傷つけて、揺れる瞳で私を心配そうに見つめていた二年前。私は苦い気持ちになって、陽子から視線を外した。

 まもなく、人の温もりをやけに近くから感じた。驚いて視線を向けたら、陽子が自分の頭を私の胸のあたりにつけ、身を寄せていた。

「……なに、やってんだ」

「アキで暖をとってるのっ。だって、代謝のいいアキが寒いっていうんだもの。だから、じょーじんの代謝たる私は、カイロの代わりにこうしてアキにくっついてるの! は~あったか~い」

 頬をゆるめるような声で言うので、私は目を丸くした。

 けど、陽子はそれさえお見通しというふうに、急に冷め切った声で続ける。

「アキの心が冷たい間は、……何も聞かないよ。けど、ほっときもないって、あの時誓ったから。誰がアキを否定しようとも、アキのやってることが間違ってても、私はこうして、アキのそばを離れない」

 心がささくれるような激しい熱さじゃなく、音もなく燃え続ける想い。

「アキが拒絶したって、もう二度と離れてやんない。……これは、私の決意だから」

 あの事故から、私はただただ自分の幸せが怖かった。怪我や後遺症を気遣う声を、慰めてくれるのクラスメイトを、私はことごとく拒絶していった。自分の無知が生んだ罪を、そのまま受け入れられるのが耐えられなかった。

 そして、最後まで私を守っていた陽子までも拒絶した。

『いいかげんにしてくれっ! 何が目的なんだ! どうして私なんかに構って、そうぬけぬけと笑っていられる!! そうやって、孤立してみじめな私への同情に浸って、自分がいい子なんだと、酔い溺れてるだけだろうがっっ!』

 陽子は私を思ってクラスメイトに牙をむき、私に構うせいでクラスから浮くようになった。日に日に無理して笑うようになって、そんな陽子を見たくないと苦しい思いをそのまま垂れ流した。

 それが余計に陽子を傷つけると解っていたのに、私はそうするしか自分を保てなかったから。

『……止めてくれ。もううんざりなんだっ、これ以上私に関わるな! 迷惑なんだ!!!』

 うとまれるのは私一人でいい。憎まれるものも私だけで十分だ。あの悲惨な事故のきっかけを作ったんだ。私は到底許される人間じゃない。

 ……そう妄信して、直面している現実からも逃げていた。

 でも陽子は、今ここにいる。私からこぼれたボロを追ってきて。私は振り切ることができなかった。

『大丈夫。私は、ここにいるから……』

 屋上に向かう階段、その行き止まり。窓から差し込む茜色も届かなくて、暗闇と淡い陽だまりの境目に立つ私を、陽子がそっと抱き寄せて言った。

『私は、もう二度と、アキから離れたりしない……絶対、しないから』

 私は最後まで弱音の一つも言えなかった。陽子が何も聞かないと知りながら、その芯の強さに甘えて、私は嗚咽を噛み締めながら泣きじゃくった。陽子はそんな私を、いつまでもやさしく包んでくれた。

 自分が傷つくより、身勝手な私を支えることを選んでしまった。

「…………ばーか」

 秋の冷たい風が目にしみて、私は顔を背けて目をこすった。

「アキだけには言われたくない」

 ふてくされるように言い返した後、陽子は昨日の事を一方的に話し始めた。母親が腕によりをかけて料理したこと。陽子も手伝って、ついでに躁太さんまで乗り出してきたこと。それで一体誰のお祝いだって笑ったことも。躁太さんが買ってたプレゼントが、既に母親経由で渡されてて、それを知らない本人が慌てふためくのを二人して意地悪く見てたとか。

 ほんと誰のためなのか、ことさら明るい声で。どこにでもある家族の一幕があたかもこの世のすべてだというかのように、陽子はくすぐったそうに話し続けた。

 校門に付くころには、目のはれも少しは引いていて。

「おっはよ、アキ!」

「ああ、おはよう」

 そんなバカなやり取りも、周囲の奇異な視線に構わずやっていた。

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