3-5
志刀は結局何も聞かなかった。怒鳴り声を聞きつけた須磨や西貴にも、
「怖かったんだよ、ほっとけ!」
と乱暴に言い張った。
それから志刀が須磨に詰め寄って、どうやら何か話とまとめたらしい。須磨も苦い顔をしていたから、あいつ自身、何も収穫がなかったのかもしれない。
お互いに収穫もなく。ただ歩き回って疲れただの、捨てられてたゴミが腐って臭いが異次元だっただの。ただの愚痴大会となりかけた帰り道。
駅の方向に向かう三人から離れる私に、志刀が追従してきた。
「送ってく」
憮然とも神妙とも聞こえる声でそれだけ言って、私たちは西貴たちと別れた。
帰る道すがらは、行きよりも闇が深く。無駄に澄んだ空気のせいで、星明かりがまぶしいくらいだった。
無言で無音。志刀は上着のポケットに手を突っ込み、私は俯いて自分の影を追っていた。
「『クロハネ』の被害者ってさ、丈智の知り合いだったんだよ」
やがてぽてっと落ちた志刀の声は、夜の風より無機質だった。
「一年先輩で、丈智の幼馴染の女子。なんつうか、とろいっていうが不器用で、その癖責任感が強すぎて、丈智もいつか失敗するんじゃないかって気が気じゃなかったとか」
何の話だよ。私は暗い瞳で隣を見つめた。けどそこに志刀の目はなくて、彼はそのまま続けた。しばらく考えて、それが私を誘った理由につながるんだと気付いた。
「彼女、その日は学祭の時に着る衣装のサンプル作ってて、あれこれやってるうちに布もなくなったんだとさ。――で、部活で毎晩のように居残ってた丈智のとこに来て、〝第三〟の合鍵を借りたんだ。あそこならあまった布切れの一つや二つはあるだろうからって」
シャリ。ポケットに突っ込んだ鍵が、自己主張するように鳴った気がした。須磨から没収した鍵だ。その彼女とやらも、須磨にこれを借りに来た。そして――
「『クロハネ』に襲われた」
感情もなく志刀は言い切った。私は無意識のうちに鍵をボトムの上から握り締めていた。
「なんでも黒く長い髪に病気的なほど白い顔した女だったらしい。長い髪を乱暴に振り回し、だらりとたれた手にカッター持って、『お前のせいだ』って奇声を上げて彼女に襲い掛かってきた。……彼女も逃げたけど、途中でこけて追いつかれて……」
手に持っていたカッターで切りつけられた。
まあ、たまたま通りかかった白為会長が一喝したおかげで、どうにか太ももを軽く切るぐらいですんだらしいけど。と志刀は、やるせないといった感じで付け足した。
……たまたま、……ね。私は急にきな臭いものを感じて、顔を顰める。
志刀の独白のような一人事が続く。
「んで、六組の黒羽がまんま『クロハネ』って噂が――」
不意に出てきた単語に私は奥歯を噛んだ。
……黒羽。その名前が志刀の口から出てきたことが妙に悲しかった。
「俺はんなこと、これっぽっちも信じちゃいねえけど。俺はあいつを嫌いになれるほど、あいつのことしらねえし」
「え?」
驚いて見上げた私に、志刀は困ったように鼻を掻いて。
「は、話戻すけどよ。俺はさ、周囲から見て感じワリイからって、その先を見ようとしないのが納得いかねってか……言えない、って理由とかあるんなら、俺はそいつが言い出すまで待っていてぇの……だから黒羽のことを悪く言うの――て、違うからなっ。俺は別に黒羽が好きとかじゃなくてだな、ただ人として、あのな!」
いきなり志刀があせったように顔を近づけた。
「っぷ、ははっ」
不細工に否定する志刀の姿に、不謹慎にも私は少し笑ってしまった。志刀も、つりあがっていた目元をわずかに緩める。それから落ち着いた声で、話を戻した。
「けどもし仮に、黒羽が『クロハネ』だって言うんだったら、きっと笹本なら穏便に済ませられるんじゃないかって思って……さ。その、あれだ、入学式の時にお前がいきなり黒羽に話しかけたって聞いたことあったし、白為会長や百合香みたいな一癖者と気取りなく話せてるの、お前くらいだし……その辺、信頼してっから。それにっ……お前と黒羽って、なんかる、類ともみないな、感じな気がして……それで、丈智に話を聞いた時に笹本を誘ったんだ」
不意に聞かさえた理由。胸を動かされるとともに、冷たく貫かれる。まるであの時見た黒い羽を、遠回りに肯定された気がしたから。
「……丈智はさ、ただけじめをつけたかっただけなんだと思う。何も出来なかった自分が許せなくて、せめて彼女を切りつけた子に、……素直に謝ってほしいってさ。だから」
志刀が振り返る気配。私も引かれるように志刀を見上げた。
「――悪いのは、俺なんだ」
決意をたたえた瞳。長い前髪が月明かりに照らされて儚さを増した表情。
「いや、お前は、」
――悪くない。ととっさに否定して、けど言うことは出来なかった。それが自分の荷を軽くするためだけの、表面的な慰めでしかない。と私は思うから。
言葉が喉の奥に詰まって、悔しい思いが募る。志刀は表情一つ変えず、私の返答を待つ。
「――ぁ、――っ――」
何か言おうとして、結局一歩引いてしまう。
慰めも同情も言えない、惨めに俯く頭にそっと手が置かれた。撫でるでもなく、ぽんぽんと叩くでもなく。優しく触れるように志刀の温もりが、冷え切った髪に伝わってきた。
それから志刀は、黒色が占める空を見上げ、まるで水面に映っても取れない月への憧れに、区切りをつけるかのように口を開いた。
「……まったく、何で俺の周囲には、言っちまえば楽なことを黙り込むやつが多いのかね――ほんと。……けどまっ、知っちまったからには、俺には無視できねえの。性格上」
からからと肩をすくめながら笑う志刀を見上げ、ようやく声が形になった。
「難儀な、……性格、だな……」
ようやく出てきた嫌味に。お前がな。と呆れたように笑われた。
志刀はどこまでもまっすぐで、私はどこまでも内側に渦巻いている。
本来なら、どうあっても交わることのない二人――、っ。私は一瞬にして表情が凍った。志刀にばれないよう、最低限に視線移動で自分の体を見回す。
そして、暗闇に映える白い羽根がないことに安堵してしまった。
「今日は悪かった。また学校で」
さよならと告げる志刀の声。見上げた時には背中を向けていた。振り返ることもなく、まるで今日はここまでと割り切ったようにあっさりと帰っていく。
私は、私の周囲に残る温もりの中で立ちつくしていた。
「私はまた、……何も言えない」
哀愁に尾を引かれながら踵を返す。家まではまだ距離がある。
家の門が見えてきても、私は振り返らなかった。
この温もりが、白い羽根が見せた幻想だと知るのが怖いから。
家に帰ってきて。母さんと姉さんというヤジ馬に最後の気力も奪われて。私は久しぶりに、二年前の事故を夢に見てしまった。
今の歪んだ私になった、始まりの日の夢を。
これにて第三章が終わりです。
葵は本当に〝クロハネ〟なのか!!
第四章に続く。。