3-4
向かうのは中央棟。手に持っていたものがいつの間にか離れていき、床を打つ反響が背後に聞こえた。
「お、おい、どこ行くんだ! そっちにな――」
声が聞こえたが、頭には入ってこなかった。
前にも後ろにも闇が満ち、自分の足音だけが不気味に私を包み込む。
「一瞬だけ、っ……見えた」
白い側面しか見えない校舎の内側、闇でさえ同化できない深い闇色。中央棟の端――そこあるのは第三倉庫!
息が乱れる。高まる緊張と、荒い息が全くかみ合わない。無酸素状態の脳が焦りばかりを募らせる。廊下の端まで走って、壁に手を当てながらどうにか体重を支える。
「ど、こ……、いな、い……のか、」
上下に伸びる階段があるが、誰もいない。異常なほどの汗が額と滴り、けど体を沸騰させるほどの熱が一向に冷めなかった。周囲の闇が、刃のように私の皮膚に突き刺さる。
下と上。先を見えないほど深い黒。視界に靄が掛かる。わいわいとした話し声。楽しい余韻を残した夕暮れの山道っ――何度空気を吸っても、私の中に吸収されない。
自分の意識が遠のいた。ふらふらと感覚が浮遊して、上下が反転――
「笹本!!」
「――――っ」
闇に飲み込まれる寸前だった。私を呼ぶ声がして、私はとっさに壁に手を付いた。膝が嫌な音を発したが、どうにか傾ぐ体の勢いは止まった。
「どうしたんだ! いきなり走り出したと思ったら、ふらふらと倒れそうに――て、顔色真っ青じゃねえか! ほら俺の肩使えっ、それよりどっかで休んだ方が……」
矢継ぎ早に気遣う声をかけてくる。それが志刀だと気付くのに数秒掛かった。
意識はまだ体に定着してなくて、相変わらず吸った空気は私に届かない。けど、志刀の不安げにゆがんだ顔を見て、私は無理に笑みの形を作った。
「だい、丈夫だ。少しめまいがしただけで、これくらい少し休めば」
「大丈夫なわけねえだろっっ!!!!」
「ひぅ――」
志刀の怒気は空気を振動させた。私を支えていたものまで吹き飛ばして。身は縮こまり、両膝は笑い出す。もう無理だと全身が訴えてくる。声すら出すことができなかった。
涙で濡れた瞳で、こわごわと志刀の顔をうかがった。けどすぐにそらしてしまう。
志刀は本気で怒っていた。切れ長の目を吊り上げて、奥歯を万力で噛み締めながら、強健のような表情で私を睨んでいた。
「――――」
そして、私の顔を認めた瞬間、そらされた。
それを、私は知っている。中学の頃、私を侮蔑するクラスメイトに牙をむいた陽子と同じ。自業自得だと諦める私のことを思って、心がささくれても止められない熱さ。
傷口のように熱くなって、痛い。私がまた、傷つけてしまった……私が、またっ。
「……悪い、怒鳴るつもりは……なかったんだ。俺はただっ、笹本の様子が心配でっ。……いきなり飛び出した時も張り詰めた顔だったし、追いついてみたら階段の方をうつろに見つめて、顔色もおかしかったし、そしたら急に倒れて……」
志刀の声が急速に冷めていく。しゅんと俯きながら、高まった熱の断片を涼出で握りつぶして。――私の小さな胸が締め付けられる。
「悪いのは、私だ。お前が謝ることじゃない」
相手の顔をまともに見ることすら出来ない。
「……心配してくれてありがとな、志刀」
ありきたりな言葉しか私には思いつかなくて、それでも、それしか言える言葉がなくて。せめて相手の思いに報いるよう、精一杯の気持ちを込めて志刀にぶつけた。
「な――ば、バカ、んな今にも泣きそうな顔であやまんなよ。俺は友人として心配したってだけで、そんなの当然ていうか……なんつうか…………だーっっ、なんか、泣きそうなやつの方が大人びてんのがむかつく」
照れ隠しのように声を荒げて、こんな時まで素直じゃない志刀。
私は胸の奥に染み入る暖かさに、『ありがとう』と繰り返した。
「はは、ごめん」
「お、おう。……はああ。とりあえず散策は中止だな。……悪かったな、変な思いさせて。丈智には俺から言っておく……実は言うとお前を誘ったのって俺らが言い出したんだ。だったら笹本を呼んだらいんじゃねえかって。あいつはそんなこと頼めるかってつっぱねたんだけど、そこを半ば強引にな」
須磨が下げたくもない頭を下げた理由は、志刀と西貴の推薦だったのか。けど、それを聞いて余計に解らなくなる。何で私だったんだってことが、だ。
須磨は調査だと言い張り、切り出した背景を話す気はない様子だった。義理の厚い志刀に訊いても無駄だろう。
歩けるか、とそっと私の腕を包み込む手は、滲む汗の不快さが気にならないほど。
……暖かった。