トロッコ問題と幸せな生首
すぐに喪服をクリーニングに出した。家に置いておきたくなかった。親友の葬儀の臭いを消したかった。
同じ団地育ちの親友――奴が消えた。
電車の轢死だった。
二十になったばかりだった。
線路に転落した視覚障害者の少年を助けて、電車に轢かれて粉々になった。
あいつは、そういう奴だったよ、昔から。いじめっ子をかばっていじめられ、捨て猫は小遣いをはたいて病院に連れていき、保護猫団体に預けて、人助けしかしてこなかった。あんな善人を、神は善行で殺した。
事故が起きた小さな駅には、転落防止のホームドアがなかった。
すべての駅にホームドアをつけろよ、くそ。
「いつまでもそうやって落ち込んでいるのはよくないよ」
彼女の美波が言う。俺は舌打ちをする。こいつとそろそろ別れたいと思っていた。親友が死んだ俺に「かわいそう」という言葉を聞いて、こいつとは感性が合わないと感じた。
いつも俺は女と長続きしない。
成海とは、長い時間を共有した。
だるい体で、成海が死んだ最寄りの駅に行かなければならない。
私鉄の田舎の小さな駅、地元で見慣れたはずの駅が、ひどく冷たい知らない場所に見えてくる。ここはもう、悲劇の場所に変貌した。
大学入学後も俺と成海は地元に住んでいて、この駅から俺たちはいつも顔を合わせて、それぞれ違う大学に向かった。
「すみません、あの」
電車に乗って吊り革を持ってスマホを見ていると、ハキハキとした少年の声が聞こえた。振り返ると、なで肩で小柄な白いニューエラのキャップを被った少年がいた。目はぱっと見ではわからないが、彼は白杖を持っていることから視覚障害者のようだ。
彼の隣には、沈痛な面持ちの、疲れた顔をした二十代後半ぐらいの地味なスーツの女性が立っていた。
「久保成海さんの、ご親友の方ですよね。初めまして。僕は久保さんに助けられた長原龍樹と申します。久保さんについてのお話を聞かせてくださいませんか。僕は、僕を助けてくれた人について、もっと知りたいんです」
少年の声は張り詰めていた。
俺は目を伏せて考える。
話したくねぇよ、辛い。
でも、あいつのことを彼に知ってほしい気持ちが勝った。
少しだけ、俺はため息を吐いてしまう。
「…………わかりました。次の駅で降りて、そこにあるカフェで話しましょうか。あの、あなたはどなたですか?」
俺は龍樹の横にいる女性に視線を向ける。
「龍樹の姉の春香と申します。よろしくお願いします」
春香は緊張した面持ちで言った。俺たちは一緒に隣の駅で降りて、バスのロータリーを一緒に歩いた。
龍樹の白杖は、黄色のブロックを丁寧にたどっていく。
俺は黄色のブロックに自転車が置かれているのを見てどけて、龍樹が安全に通れるようにした。
カフェに入り、三人ともアイスコーヒーを頼んだ。
八月に入り、凶悪な暑さで、クーラーの効いたカフェで一息つく。
「お時間いただき、ありがとうございます。あの……本当に成海さんのこと…………申し訳なくて。僕は、ちゃんと成海さんの分まで生きたくて。それで、成海さんがしたかったこと、やろうとしてたことを、僕が代わりに少しでも多くしていきたいです。僕は障害者で、健常者のように、うまくできませんけど……」
声をつっかえさせながら、龍樹は苦しそうに話す。
膝に置いている手は、きっと震えているだろう。
視覚障害を持ってる人にとって、俺の沈黙は怖いだろう、と想像する。相手の顔が見えない。目の前にある邪魔な自転車にも気付けない。そういう人生がどれだけ大変だろうか、と。
優しすぎた成海なら、きっと想像しただろう。
あいつには、躊躇いなんてなかった。
「そういうのが…………逆にムカつく」
俺の不機嫌な言葉に、ピクッと龍樹の頬が引きつった。
「助けられたなら、堂々としてくれ。成海の人生を君は生きられない。君は君のやりたいことをやったほうがいい。だって、あいつの助けてくれた手に、迷いなんか、なかっただろう?」
「は、はい」
「成海は、そういう奴だった」
俺は考える。彼に成海について、何を話そう。取り留めのない思い出話ではない。
成海がこの場で、彼に自分の死を「納得」させる話を思い出す。
「俺は……成海が死んで、それは信じがたいほどショックだったけど、あいつが君を助けて死んだって聞いた時は、あいつならそうするだろうって思った。生前に、こういう話をしたことがあった」
俺は、あの日の安い酒場で成海と飲んでた夜を思い出す。
市場奥の薄暗い席だった。厨房が近く、焼き鳥の焼ける香ばしい匂いが近かった。
成海は焼き鳥が好きで、うまそうに何本もよく食った。成海は小柄で顔も小さい。目が丸くて、「かっこいい」より「かわいい」でモテる男だった。しかし仕草は男らしく豪快で、焼き鳥の串から歯でかぶりつき、引き抜いて食うのは俺の前でしかしなかった。
「大学の人間関係って、思ってたより複雑だよな。ゼミとかさ。俺、まだ馴染めてないかも。この前もちょっとなんか引かれたかも」
テーブルに肘をついてハイボールをあおり飲み、少し酔った赤い顔で話し出した。
「んー、何? あ、おまえ、俺の分のレバー食った?」
「あ、ごめん。食ったわ」成海が無邪気に笑う。
「俺、レバー好きなの知っててわざとか。で、なんの話だよ。その引かれたってのはさ。またモテ話か」
「違うよ。真面目な話だって。ほらあれ、トロッコ問題ってあるじゃん。あれ、なんかゼミで話題になって。みんなそれぞれ解決法とか言ってくの。俺んとこ心理学だろ。いろんな学者の説とか出すけど、全部ちげぇよなぁって思ってさ」
「あれなー。あれ、どうしようもねぇ意地悪問題だろ。大体、基本の設定が狂気だろ。事故起きないように作業員を配備しろよ」
「あはっ、それめっちゃおまえっぽいなー。だよなー…………どっちかしか救えないとか意地悪問題。レバー変更の岐路に立たされて、五人助けるために一人の犠牲者ですませるためレバーを引くかどうかなんてさ」
「で、おまえの答えは。なんつったの?」
「うん。俺はレバーを引いて、一人の作業員を突き飛ばし、自分がトロッコに轢かれる。目の前で誰か死んだら、なんで助けられなかったかって辛い思いを抱えて生きるなら、自分が犠牲者になった方がいい。それが俺のトロッコ問題の答え。たった一つだけ、他は思いつかない」
成海は少し遠くを見て、かつて失ったものを見るような悲しげな瞳をした。
成海が、ふとした時にたまに見せる寂しい瞳だった。それが意味することは、今となってもわからないが、早世の翳りがすでにあの頃からあったのは確かだ。
「あー、それは自己犠牲で引かれるな。トロッコに自ら轢かれる選択をして、引かれたか」
俺は少し笑った。
成海も頬を少し膨らませて笑った。吹き出すほど面白い、の時にする顔だ。
「それなー。で、おまえどうなん。彼女とは?」
「あー、なんか合わないかもって感じてきた」
「俺は高校の頃よりモテなくなったー。かわいいで売るのは十代までだったな」
成海はそう言って笑い、「すいませーん」と手をあげてハイボールを注文したんだった。あいつはいつも店員さんにはすごく丁寧な態度だったな。
この話を龍樹に話し終えて、俺は悲しみが波のように引いていくのを感じた。
そうか、あいつは、目の前で誰かが死ぬなら自分が犠牲になったほうがいい。
そういう、何億人に一人かのすごい善人だった。
あいつ、可愛い顔してたから、天使にされちまったか。
これはちょっとクサいけど、あいつならきっと「だろう、だから若いまま、かわいいまま死んだんだよ」って、白い翼を見せびらかしてきそうだ。
目の前に、花柄のハンカチが差し出される。春香は手で口を抑えて泣いている。そして俺の頬も濡れていた。俺は「手でいいです」とハンカチを断って、リュックからタオルハンカチを出す。
龍樹の肩も震えている。
「…………ぼ、僕は。作家になるのが夢なんです。見えない僕の世界を書きたいんです。だから、今の成海さんの話。きっと、物語にします。それが僕のしたいことです」
「うん。そうだな、外見はとびっきりの美少年で、背は高くしてやってくれ。ビジュ盛った方が、あいつ、喜ぶから」
俺はそう言って、成海が死んでから初めて、ようやく、笑えた。
成海の体は轢死で砕け散ったが、生首だけはきれいに残っていた。
棺桶の窓を、成海のお母さんが開けて、微笑みながら泣いて言っていた。
「見て、こんなに幸せそうな顔の生首なんて、この世にひとつとしてないわ。見つけてくれた駅員さんも驚いてたそうよ。こんな幸せそうな顔の生首なんて初めて見たって。よかった、この子は本当に……本当に……人を救う祝福の天使だったのよ」
終