自分との対面
レイノスがまぶたを開いたとき初めて視界に映ったのは、果てしなく広がる白だった。
「ここは……」
前後左右どこを見回しても白以外のものは確認できず、レイノスは不思議な浮遊感も感じていた。
「――目覚めたのか」
「っ!?」
今しがた見回したときには誰もいなかったのに、声のしたほうに顔を向けるとそこには一つの姿があった。
鋭い目つきと尖った耳、金色の髪が特徴的なソイツは、なにかを悟ったような顔をしながらこちらを見つめている。レイノスと視線が交錯すると、ソイツはフッ、と微かに笑い、レイノスから視線を外した。
ソイツの視線がいまどこを見ていて、ソイツがいま何を考えているのかはレイノスにはわからない。
「……やっとあいつらのやりたいことがわかったよ。なんともまぁ……いまさら、なんだというのだ」
ソイツ――ソージアはそうつぶやいた。そこには少しの哀しみが含まれているように感じられ、これまで見てきたソージアとは何かが違う気がレイノスにはした。
「決着を、つけよう」
だからといって、レイノスがソージアを倒すことに変わりはない。そのためにデスパレスまでやってきたのだから。
レイノスは持っていたエルフの剣をソージアに向けようとする。しかし……。
「エルフの剣が……」
レイノスの手元にはエルフの剣がなかった。先ほどソージアの心臓をつらぬいたときには手に握っていたはずなのに、いまレイノスの手にはなにも握られてはいない。
「ここには我と貴様以外のモノはない。そういう空間なのだ」
「……なぜお前にそんなことがわかる」
「我はずっとこれに似た場所におったからなぁ。……貴様の心の奥底にある空間に、あのときまでな」
「あのとき……?」
ソージアの右手がふわり、と空気を撫でるように横へと動いた。すると瞬間、レイノスとソージアの間に二つの椅子と一つのテーブルが現れる。ソージアは現れた椅子のうち近いほうに座り、テーブルにある器に酒のようなものを注いでいく。そして、その器を回すように揺らしゆっくりと口をつけた。
「……俺達以外のものはないといっていただろう」
「ないさ。この空間に本当に存在しているのは俺達二人だけだ。今我が出したこれらは、全て偽りだ。いわば、記憶のかけらを集めたものとでもいうのが正しいのかな? ――まぁ、そんなことはどうでもよいことだ座れ」
レイノスは躊躇いの感情を抱いたが、ソージアに促されるまま椅子に腰を下ろした。座り心地は悪くない、とそんな考えを一瞬浮かべたレイノスは、同時にソージアがニヤニヤとこちらを見ているのに気づいた。
「なにがおかしい」
「やはり我と同じなのだな、と思っただけさ。我もこの椅子の座り心地がいいと感じた。しかし……どこで別れてしまったのか。やはり、あのとき我と貴様が別たれたとき、既に我らは同じでありながら違う道を進み始めていたのだな」
「何をいっているんだ……?」
レイノスはその言葉を聞き、いぶかしむようにソージアを見つめた。そんな視線を受け流すかのようにソージアは再び器を口につけ、その中にある酒を飲む。
「ふむ……記憶とはいえ中々良い酒だ。話をするときには必須だなこれは。……貴様も飲むが良い、美味だぞ?」
「……いただこう」
レイノスは目の前にある器を手に取った。中に入っているのは赤紫色をした液体で、微かにさわやかな香りが漂ってくる。それをレイノスはゆっくりと口に含み、器をテーブルに置いた。
「どうだ、美味であろう?」
「ああ、これは美味いな」
レイノスは、一息つく。
ソージアも一息ついた。
しばしの沈黙が、この白き空間を支配する。お互いに相手を見つめながら、どちらかが喋りだすのを待っているかのようであった。
そして、その沈黙はソージアによって破られる。
「――我の目的は世界に復讐することだった」
突然の吐露。
ソージアは視線をレイノスから外し、遥か虚空を見つめているかのような瞳をレイノスに見せる。
「我が肉体を持ってサウスリアに現れたとき、我の目的は世界に復讐することだったのだ。そしてついさっきまでも、自分はそのために生きていると思っていた」
「今は、違うのか」
「違うというのは正しくない。今でも世界には復讐をしたいさ。しかしなぁ、我の中にはそれとは別の感情というものが生まれてしまっていたのだ」
「……それはなんなんだ」
ソージアはしばし口をつぐんだ。レイノスはその様子を見て、今度は自分から話しだす。
「ソージア、お前は俺だ。そして、俺はお前だ。そのことを俺はゲルブ村で知り、そしてエルフの島で母さんから聞かされた。しかし、俺にはわからない。どうしてお前がこの世界に復讐をしたいのか。俺の中にはそんな感情はない、そんなことをしたいと思うきっかけになる記憶もない。お前は――」
「――だから我は貴様が妬ましいのだ!」
ソージアの叫びが周囲を振るわせた。そして同時にソージアはテーブルに器を投げつけた。
器はゆっくりと、空間の白に溶けていくかのように消えていく。そして次に、テーブルとレイノスたちが座っていた椅子も消える。
残されたのは息を荒げて立っているソージアと、椅子がなくなり尻餅をついているレイノスただ二人だけだった。
「貴様はいいなぁレイノス、憎しみや哀しみの感情が抜けおち、孤独だった記憶すらなくなり、いわば新たな人生を歩むことができたのだから! 貴様に残されていたのは、最後に親子三人で楽しく過ごした記憶だものなぁ! 憎しみに囚われた我を置いて、貴様は新たな仲間に出会い、成長し、そしてついには母さんとの再会すら叶えた!」
ソージアの吐露は、止まらない。
「貴様は忘れた! 魔王になるまでの苦渋の日々を! 魔王となってからの生きていた意味を! 貴様は忘れて、のうのうと生ぬるい旅を続けた!」
ソージアの瞳から静かに涙が流れ出していた。
「思い出させてやる! 今、貴様が、我が、魔王レイノスが受けてきた吐き気のする日常を! 我から――を奪った残酷な世界を、今度は忘れないよう脳裏に焼きつけるがいい!」
瞬間、レイノスの中に様々な記憶が流れ込んできた。
――両親がいなくなったあと、エルフと魔族の子として異端扱いされ、必要なとき以外には誰にも話しかけられなかったことを。
――次期魔王として子供ながらに多くの訓練をさせられ、失敗をすれば様々な魔族から折檻されたことを。
――そんな魔王の座に耐えられなくなり、逃げ出した先で受けた人間達からの攻撃。
――逃げても逃げても、どんな者たちからも受け入れられず絶望したあの日々。
――デスパレスへと連れ戻され、吐きかけられた多くの言葉。
――ケガレタエルフノチヲヒキツグケガレタマオウメ。
――それでも魔王の椅子に座らされ殺戮の日々を強いられたこと。
――そして最後には、魔族全員から見放され裏切られた。
「――ニクイニクニクニクニクイッッッ!!」
その言葉はレイノスとソージア、どちらが発したのか。
レイノスの心の中をどす黒い憎しみの渦がぐるぐると渦巻く。どうしようもないこの感情を、レイノスはどうすればいいのか考える。
――ソウダ、コンナセカイナラコワシテシマエバイインダ。
「そのとおりだレイノス! こんな世界なら壊してしまえばいい、そう思うだろう!?」
ソージアが自分に語りかけているのがわかった。
そうだ、ソージアの言う通りだ。
誰も自分を見てくれなかった。自分から大切なものを奪って、孤独にさせた世界は壊れてしまえば良い。
自分を魔王の後釜としか見なかった魔族も。
自分を恐れ迫害した人間達も。
全部全部、壊れてしまえばいい。
それで、いいんだよな……?
「――いいわけ、ないだろ……っ!」
レイノスは立ち上がった。
「確かに俺たちは孤独だった。誰にも見向きされず、誰からも愛されることはなかった。――でも今は、俺は知っている! この世界にはあたたかさがあると。大切なもののために戦える人たちがいると。この世界は悪いことばかりじゃないんだと!」
「な、なにをいっている……思い出しただろう!? 我らのつらかった日々を! それでもそんなことを言うのかお前は!」
「ああ、何度でも言ってやる! この世界はあたたかさに満ちている! 誰かに――愛されることができる世界だ! 仲間を、友を大切に思うことができる世界なのだ! だから俺は――」
レイノスはそういってソージアと向かい合い、まっすぐ歩いていく。
「貴様まで……貴様まで俺を一人にするのかあああああ!」
「――だから俺は、お前を愛そう。ソージアよ」
レイノスはそっと、ソージアを抱きしめた。
レイノスの手に力がこもり、ソージアが着ている服にしわができる。
レイノスにはソージアのあたたかさが伝わってきた。そのあたたかさはおそらく、ソージアにも伝わっていることだろう。
なぜなら、ソージアの身体は振るえ、レイノスの肩にはあたたかい雫がこぼれてきているのだから。
「寂しかったんだろう? 唯一お前を理解してやらなければいけない俺が、色んな人たちと触れ合っていて遠くに行ってしまうような気がしたんだろう?」
「そんな、そんなわけ、なかろう……っ!」
「もういいんだ、お前は魔王じゃない、お前はお前なんだ。もう魔王になるために強くある必要はないんだ」
「なにを、愚かな……ことを……っ!」
レイノスはいっそう、抱きしめる力を強める。
「俺はお前を受け入れる。お前を認める。もう、お互いに一人でいるのはやめよう。同じ場所に戻ろう。自分と戦って傷つけあったって、意味なんてないんだから」
そして、ソージアはようやく肩の力を抜いた。
白き空間に響き渡る泣き声は、レイノス、ソージアどちらのものでもあるだろう。
なぜなら、二人は一人なのだから。
そうして、一人の魔王の、仮初めの魔王としての時間は終わりを告げた。
「お前の言うとおり、我は寂しかったんだ。我を唯一理解できるお前が温かな世界に包まれていくのを知って、我は孤独を感じていたんだよ。なりたくもなかった魔王の椅子に座っていたのも、我にはそれしかなかったからだ」
「ああ、今ならわかるよ。ソージア、お前は俺を初めから殺す気がなかった。現れては俺に語りかけすぐに消えていく……まるで母に構ってほしい子供のようだった」
レイノスがくっくっく、と声を噛み殺すように笑った。
「笑うな。我も必死だったのだ! 貴様に気づいてほしくてやっていたのに……くそ、こんなことを口にするなど我も堕ちたものだ」
「いいじゃないか、変に取り繕った態度よりもよっぽど面白い。自分にはこんな顔があったのか、と可笑しくなってくる」
「……我も思うよ。自分にはこんなに意地の悪い一面があったのか、と
そのソージアの言葉を聞いて、レイノスはまたも可笑しそうに笑った。
「でもなぁ、レイノス。お前は俺だ。そして俺はお前だ。だから今、お前に話しておく。我らの浅ましく愚かな一面を」
レイノスは笑うことをやめて、ソージアを見つめる。
ソージアはそれを確認し、一呼吸してから話し出した。
「我らがまだ一つだったとき、我らは多くの者たちの大切なものを奪ってきた。そして、我がソージアとして生まれてからも、我はそれを続けた。憎しみの種を植えつけ、我と同じものを作ろうとしたのだ。同じ孤独を生み出し、世界を憎しみに満ちたものにしようとしていた」
「……それは」
「……それは許されることではないな。今の我らならわかるだろう。大切なものを奪われて苦しんだからって、そんなことをしてはいけないのだと」
沈黙が二人を包む。
しばしの時間が過ぎたとき、ソージアは再び語りだした。
「我らは今まで愚かだった。自分の感情を持て余した子供だったのだ。我らが犯した罪は消えない。だからこそ――」
レイノスは頷き、そして――
「――だからこそ、アンナを救わなければならない」
ソージアは目を伏せ、微かに笑った。
「あいつを憎しみの世界に沈めたのは我ら二人だ。しかし、その役目はレイノス――お前に任せていいな?」
「ああ、任せろ」
「我はもう眠る。少しの時間であったが楽しかったよ。――ありがとう、レイノス」
ソージアの身体が淡く光り出した。レイノスがよく見ると、その身体は透けている。
そのとき、ソージアがふと何かを思い出したような顔をした。
「そうだレイノス、お前に一つ言っておかなければならない」
「なんだ?」
「我らはエルフと魔族の混血だ。それゆえ我らには、能力とそれに伴う代償が備わっている」
「能力と代償……」
「エルフとの混血の代償――それは愛がない世界に身を置かれることだ。我らが分かたれたとき、お前には能力が、そして我には代償がそれぞれ受け継がれた。――レイノス、お前はその能力を発動させているはずだ。我には能力が何なのかはわからぬが……それを上手く使え。そうすれば、争いの絶えぬこの世界も少しは変わるかもしれん」
「――わかった」
ソージアの身体は、もう視認することができないほどに薄くなっていた。
「時間切れ、だな」
ソージアが寂しそうに、呟いた。
「さらばだ、レイノス。そして、久しぶりだなレイノス。我は消えるが、我はお前の中にいる。それを忘れないでいてくれると――うれしい」
「ああ、覚えているとも。忘れる、ものか」
レイノスの声が詰まる。
ソージアはフッ、と笑った。
「魔王レイノスも随分とまるくなったなぁ。――フ、フッハハハハハハハハハハハ! 涙など魔王は流さぬ。いつでも魔王は腕を組み高笑いしながらふんぞりかえっているものなのだ! しかし、そんな我はもう消える――」
ソージアの首から下はすでに消えている、そんななかでソージアは言った。
「――だからこれからは魔王ではないレイノスの、新しい人生の始まりだ!」
――その言葉を残してソージアは消えた。
レイノスは、自分の中に何かが入り込んできたような感覚を覚える。
それが何なのかはもはや言うまでもない。
「ありがとう……」
レイノスの視界が少しずつ狭まっていく。この白い空間もそろそろ終わりを迎えているのだった。
「俺は必ずアンナを助ける。だから、これから俺を見守っていてくれ」
そうしてレイノスは、白い空間から姿を消した――。