魔物との出会い
「ひっ……ひっく……! レイノス、レイノス……っ!」
木々がざわめく森の中を一人の少女が、足下をふらつかせながら歩いていた。
日はとっぷりと沈み、辺りは月明かりでおぼろげに照らされるのみ。進む先は暗い道なき道だった。
「私は一人でも大丈夫だって思っていたのに。……いつからこんなにも弱くなってしまったんだろう」
アンナは自分の目から零れてくる涙を指先でぬぐいながら、当てもなく進んでいく。
零れる涙は何回やってもぬぐいきれず、それが自分の弱さを示しているようでアンナは嫌だった。
「私はレイノスを殺す。そのはずなのに、どうして泣いているんだ……っ!」
決意が鈍っているのがわかった。
一年前に誓った復讐、そしてあの杉の木の下でいなくなった兄との約束。
それらを目的としていたはずなのに、いつのまにか自分で自分を見失っていた。
「ミリネちゃんのときだって、別に助ける必要はなかったじゃないか」
でもアンナは許せなかったのだ。
獣人たちが世界からはじかれていくような気がして。自分と同じように、世界から裏切られているような気がして、いつの間にか身体が動いていた。
突然に自分の世界を失ったアンナにとって、それは自分でもわかっていなかった部分なのかもしれない。
「でもまた、一人になっちゃった」
復讐は果たしたい。しかし、いまのアンナには誰にどう復讐をすればいいのかわからなくなっていた。
レイノスを殺すことの意思は変わらないが、しかしそれに踏み切りきれない自分もいる。たとえレイノスを殺したとして、そのあとはどうするのか。自分の中から復讐というものが果たされなくなってしまったら、自分の中にはなにも残らなくなるのではないか。
「怖い……」
言い表せない恐怖がアンナを襲っていた。
そんな中、アンナは暗闇の中でなにかの物体を視認する。
近づいてみると、それは一体のブラックタイガーという魔物だった。魔物は身体を横たわらせ、まぶたは閉じられていた。
足を怪我しているのか歪な形をしており、これでは歩いたりすることはできるだろうが何者かに襲われればひとたまりもないだろう様子だった。
「この子は……」
そしてアンナは気づく。この魔物が初めて出会ったわけではないことに。
ゲルブ村に到着する前に、アンナたちはブラックタイガーの群れに襲われた。そのときに骨を折った一体を、レイノスが見逃していた。
この魔物はその一体だったのだ。
「魔物――魔族に従う理性なきケモノ」
アンナは右手を突き出し、とどめをさそうとして呪文の詠唱を始める。
魔王は復讐の相手、それに従うものは全て殺す、と決めていたからだ。
しかし、そのとき魔物のまぶたが開かれアンナを見上げた。
その瞳を見た瞬間、アンナは呪文の詠唱をやめてしまった。
「あなた……私と同じような目を」
そんな風に感じるほどのなにかを、魔物の瞳は秘めていた。
自分と同じにおいを感じたのだ。
「あなたも、私と一緒なの?」
魔物は答えるかのように、再びまぶたをゆっくりと閉じた。
魔物の姿をしっかりと見ていくと、ところどころに傷が見られた。おそらくは他の魔物や人間に襲われたのだろう。反撃しようにも、足の傷のせいで逃げることしか叶わなかったのだと、アンナは想像する。
この魔物も一緒なのだ。
足の怪我という一つの出来事のせいでそれまでの世界が壊れ、いままさにその命を絶やそうとしている。
アンナは、気づけば魔物に治癒の魔法をかけていた。
それはゲルブ村のときと同じ自分にとって何の利益もない行為だったが、しかし、いつの間にか身体が動いていたのだ。
魔物の傷は少しずつ塞がっていき、アンナの目から見ても回復しているのがわかる。
ガッ……ガルルゥ……っ!
そう魔物がうめくと、まぶたが開かれその瞳が再び姿を現した。そして、横たわらせていた身体を起き上がらせ、アンナに向かい合う。
「これでひとまずは安心でしょ。それじゃ、私はいくから。……せいぜい頑張って生きてよ」
アンナは魔物の様子を確認すると、すぐさま立ち上がり魔物の横を通り過ぎた。
再び、闇の中へと進んでいこうとする。
足音が一つ、二つと聞こているが、アンナはそこで違和感に気づいた。
微妙に多く足音が聞こえるのだ。
アンナは後ろを振り返ると、そこには今治療したばかりのブラックタイガーがついてきていた。
「……ついてこないで。それ以上ついてくると、殺すよ」
しかし魔物の歩みはとまらない。
「っ! ついてくるなっていってるでしょ!」
瞬間、アンナは魔物の手前の地面に魔法を放つ。地面は弾け、土煙が魔物の姿を覆った。
しかし、それでも歩みはとまらなかった。それどころか、瞳の輝きは強さを増しているようにも思えた。
「……もう好きにして」
アンナはなかば呆れ、魔物などいないかのように進んでいく。
その後ろをぴったりと寄り添うように魔物がついていく。
――アンナと魔物の、短い時間が始まった瞬間だった。
これからどこにいけばいいのか、それをアンナは今考えていた。
一度自分の家に戻るのもいいのかもしれない。そうすれば気持ちの整理がついて、自分のやるべきことを再確認できる気がする。
そう思ったアンナは、しかし、頭を横に振ってその考えを打ち消した。
いまさらあの家に戻ったところで何になるのか。自分のやるべきことは魔王への復讐、ただそれだけなのに。
「……グルルゥ」
後ろの魔物が小さく鳴いた。それはアンナの迷いを読み取り、心配をしているかのようだった。
「そんな風に鳴かれたって嬉しくないよ。私のことよりあなたは自分のことを考えたほうがいいんじゃない?」
そのアンナの返答に魔物は応えない。
ただじっと、アンナの瞳を見つめるだけだった。
「……疲れた。今日はここで眠るとしよう」
アンナは逃げるように魔物から視線を外し、近くにあった木にもたれかかった。
用心のためアンナは守護魔法をかけて、身の安全を確保する。
目の前の魔物が眠っている隙をついて襲ってくる可能性も否定できない、アンナはそう思ったのだ。
魔物も地面に腹をつけ、まぶたをゆっくりと閉じた。
自分も少し眠れば、少しは頭がすっきりするかもしれない。
そんな小さな期待を抱いて、アンナは眠りの中に落ちていった。
――――アンナ。
「お兄ちゃん――?」
視界に映っているのは、暗い世界の中にぽつんと立つおぼろげな自分の兄だった。
あの杉の木の下で逝ってしまった時そのままの姿で佇んでいる兄は、こちらを見ているように感じられる。
視界が定まらなかった。意識を制御できず、目の前の兄の姿もぼんやりとしているのだ。
でも、それは確かに兄なのだとアンナはわかった。
「どうしてお兄ちゃんが……?」
そう声にして、アンナはこれが夢の中だと気づいた。
兄は死んだのだと今思い出し、これが自分の作りだしたまやかしなのだと理解した。
アンナは視界にいる兄を消すように、顔を俯かせる。
「やめて、夢の中でまで現実を思い出させないで……」
その瞬間、身体がなにかに包み込まれるような感覚があった。
――いいんだ、アンナ。お前が苦しむ必要はないんだよ。
温かな感触。胸の鼓動は聞こえないけれど、そこには確かに兄のにおいがあった。
ああ、私は夢の中でも兄に頼ってしまったのか。
でも、今だけは――この温もりに包まれていたい。
そう思ったアンナだった。
「はっ……私は」
気が付くとアンナは目を覚ましていた。
辺りはすっかりと明るくなり、朝日の光が微かにアンナの姿を照らしていた。
そして――。
自分の側に寄り添うように、魔物がその身体をアンナに預けていた。
そこに敵意など感じられず、まるで自分の心配など感じられないのかすやすやと眠っていた。
「この子は本当に……」
そのとき初めて、自分の視界がぼんやりとしていることに気づき、そして自分が涙を流していることがわかった。
「はは、私はお兄ちゃんの夢を見ただけでこんなことになっているのか」
零れる涙が魔物の頬に落ち、ゆっくりと伝っていく。
なぜかアンナはこの魔物が愛おしく思っていた。
兄の夢を見てしまって寂しさを感じてしまったからかもしれない。
でも――。
「この子も私と同じなんだ」
世界からはじかれた者どうし、互いに互いが必要なのかもしれない。
「少し、この子と過ごすのもいいのかもしれない」
魔物のまぶたが静かに開かれた。
アンナは魔物の顔を優しく撫でた。
魔物は気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
アンナと魔物はしばしの時間をそうして過ごしていた――。
「どういうこと……」
アンナは、魔族と人間が共存する村――マニ村にやってきていた。
といっても、マニ村を取り囲むように立っている木々に身を隠していたが。
なぜなら、いまマニ村の中には多くの魔物の姿が見えたからだった。
「魔物がなぜここにいるの。ここはあの女の故郷ではなかったのか。……どうして、リンちゃんの身を危険に晒すような真似を……っ!」
アンナは怒りをあらわにしていた。
しかし、闇雲に自らの姿を現してもしかたがない。いっそうリンの身を危険にするだけだ。
そう思ったアンナは、しばらく様子を見ることにした。
「しばらくこの周辺にいることにするよ。……いい? アッシュ」
アッシュと呼ばれた魔物は、ガルルゥと鳴いた。
「ありがとう。それじゃ行こうか」
あの夢を見た後、アンナは魔物に自分の兄の名前をつけた。
あんな夢を見た後だったからなのかはわからないが、アンナのなかでそれが一番しっくりときたのだ。
それから数日、アンナは自分でつけたにも関わらず少しためらっていたが、今ではすっかり自然とその名前を呼べるようになっていた。
「ゆっくりでいいよ。急ぐ旅でもない」
足を引きずりながら歩くアッシュに、アンナは心配の声をかけた。
アッシュは喉を鳴らすと、ゆっくりとアンナの後ろをつくように歩いていく。
しばらくして、適当な場所を見つけたアンナは周囲に小さな結界魔法を張った。
この魔法も、アンナがレイノスと出会う前に見知らぬ戦士から教わったものだ。
「ふぅ、ここをひとまず拠点にしよう。私は少し村の様子を探ってくるから、アッシュはここで待ってて」
アンナはそういうと、アッシュと来た道を引き返すように走っていった。
その後ろ姿を静かに見守るように、アッシュは瞳をアンナに向けていた――。
数日、アンナはマニ村の様子を確認していた。
そうしていてわかったことは、マニ村にいる魔物は何者かに統率されているということ。
好き勝手に暴れているわけでもなく、静かにその場にいることからそれがわかった。
でもどうして、とその答えを探しているとき、ある男がマニ村に運ばれてきた。
それは、ダニッシュだった。
そして――ダニッシュを運んでいたのが、ラミアだったのにはアンナも少し驚いた。
そのときのラミアの顔が、アンナの頭から離れない。
「あれは敵に向ける目じゃないよ……」
すぐにラミアはどこかにいなくなってしまったが、アンナはそのことが少し心にひっかかったままだった。
あの愛しいものを見つめる瞳は、決して魔族の瞳なんかではなくて――。
「……今の私には関係ない。無駄なことは考えるな」
しかし、アンナの心から、そのひっかかりはなくならない。
それは自分が、あのラミアのような感情を抱えているからだった。
レイノスの顔が頭の中に浮かんで――。
「……っく! 何を考えてるんだ、私は!」
――自分の左手を、短剣で突き刺した。
刀身が真っ赤に彩られ、それはしばらくしてポタポタと地面を赤黒く染め上げていく。
「あれは、私の世界を壊した元凶なんだ! それをいまさら、私は……」
アッシュがアンナに近づき、左手の傷を癒すように舐めた。
「……ごめん。心配かけて。アッシュは休んでて。最近、辛そうなんだから」
アッシュはアンナの言葉に従うように、身体を横たわらせた。
最近のアッシュは、誰の目から見ても芳しくない体調だった。
時々、額から汗を流して毛を濡らしたり、息が荒くなったりしていた。
どうしてそうなっているのか、アンナにもわからない。
アンナが知っている治癒魔法を全てかけてみたが、一向に治る気配はなかった。
「私にもっと力があったなら、色んな可能性があったのに」
それはアッシュに向けてのものなのか、アンナ自身にもわからなかった。
アッシュのまぶたがゆっくりと閉じられる。
「少し、出てくるよ」
アッシュの顎を軽く撫でて、アンナは立ち上がった。
ふらふらと歩いた先、着いたのはゲルブ村に向かうときに通った洞窟だった。
ここはラミアとダニッシュが一夜を共にした場所でもある。
そして――。
「アンナお姉ちゃん?」
声のしたほうを向くと、そこにはリンがいた。
「あ~! ほんとにアンナお姉ちゃんだった!」
「リンちゃん……」
「戻ってきたんだね。最近、ダニッシュおじさんも戻ってきたんだよ! ふふ、嬉しいなぁ」
「……私も、リンちゃんに会えて嬉しいよ」
無邪気に笑うリンの顔を見て、アンナは自分が暗い顔をしていてはいけないと感じた。
「こんなところでリンちゃんは何をしていたの?」
「うーんと……おとうさんとおかあさんのお墓参り。この近くに、二人が眠っているの」
「あ……ごめんね」
「気にしないで! 別に私ももう子供じゃないんだから!」
小さな胸を前に突き出し、誇らしげに話すリンを見て、アンナは少し吹き出してしまった。
「あー! なんで笑うのぉ?」
「あはは、ごめんごめん。なんだかリンちゃんが可愛くて」
「え、可愛い? えへへ、ありがと」
アンナは優しくリンの頭を撫でた。
「そうだ、リンちゃん。ここの近くに魔物がたくさんいる。危ないから家まで送っていくよ」
「知ってるんだ。でも大丈夫だよ。あの魔物さんたちはもうここにはいないから」
「……どういうこと?」
「近くのコーネリアって街の前に広がってる平野に移動したみたい。だからもうここにはいないの」
アンナは不思議に思った。、
どうしてあれほどの魔物をコーネリア平野に移動させる必要があるのか。
しかも、人間の街であるコーネリアなんかの近くに。
「まさか……」
アンナはある考えに辿りついた。
「リンちゃん、ありがと! 私はもういくね!」
「え? う、うん。また戻ってきてね!」
「わかったよ!」
アンナはアッシュがいる場所に戻った。
しかし――。
「アッシュ……?」
そこに、アッシュはいなかった。
「どこに、どこにいったの。うそ……あんな様子じゃ、魔物に襲われたら抵抗できない」
アンナは不安に駆られる。
そのとき、
「――グルルゥ」
後ろから、アッシュの鳴き声が聞こえた。
振り返るとそこには、いつもと変わらないアッシュがいた。
少し息は荒いが、それ以外は元気そうな様子だった。
「よかった、本当によかった……!」
アンナはアッシュに抱きついた。
アッシュが苦しそうに小さく鳴き声を漏らす。
「あっ、ごめんアッシュ」
アンナ自身も、自分のこの行動に驚いていた。
数十日前までは魔物として敵だったものに対して、今こんなにも大切に思っていることが。
それは自分が弱くなっているときに出会ったからなのかもしれない。
それは自分に似ている境遇だったからなのかもしれない。
しかし、今そんな理由など探すのは無粋なような気がした。
「……今日はゆっくり寝ようか」
アンナがアッシュを抱くように横になる。
――その日の夜はゆっくりと更けていった。