壊された世界
一人の口髭を生やした男は、少女に言った。
『昔、父さんは人間を率いて戦うリーダーだったんだぞ? ――なにぃ、嘘くさいだとぉ? おーい、母さんからも説明してやってくれぇ』
一人の透き通った朝日のような髪をした女は、少女に言った。
『私はね、普通ではないの。それはあなたも一緒。あなたは見た目こそ、父さんと変わらないけれど、ちゃんと私の血が流れてる。……ほら、見て?』
女は自分の髪をかきあげて、少女に耳を見せた。
『これは私が普通ではない証拠なの。この髪だって、人間には決して出せない色をしてる。……こんなことを今話しても仕方ないのかもしれないけれど、わかっていてほしい。あなたは普通ではないけれど、普通に生きていってほしい。――お兄ちゃんとあなたは私とお父さんにとって、かけがえのないものだから』
女はそう告げて、少女の頬を撫で笑顔を向けた。
少女は、少女だったからか何も考えることなく兄とともに成長していった。それはいたって普通で、他の子供とまったく変わらない生活だった。
兄とともに森の中でひたすら走り回り、へとへとになって家に帰れば温かいご飯と女の笑顔が待っていた。男も加われば、少女の食卓に不足しているものなんてなにもなかった。
少女が暮らしていたのは山の奥深くで、周囲には他に誰も住んではいなかったのが少女には不思議だったが、そんなことは些細なことだと考えていた。たまに麓の町に出かけるのは、なにかのお祝い事のための買い物ぐらい。それ以外は全て山の中で生活していた彼女にとって、兄と女と男と過ごす――家族という空間は唯一の世界だったのかもしれない。
しかしそんな世界も、少女が年を一つ迎える記念の日に全て終わった。
生き残ったのが不思議なくらいのその町での惨劇は、少女にとって思い出したくもないものだろう。
プレゼントとして受け取った短剣だけが、彼女の手元に残るだけだった。
幸いにも、兄は家で少女を祝うための準備をしていたため町にはついてこなかった。
騒ぎを聞きつけた兄が少女を家へと連れ帰り、そしてまた自らの肉塊となった肉親を連れ帰るため家を出て行った。
そのあいだ、少女はただ震えることしかできなかった。
『これから貴様は絶望するだろう。肉親を失い、独りとなった貴様は何に頼って生きていく? それは憎しみか、それとも悲しみか? ……貴様は良い種になりそうだ、死なずにこの我に人生を捧げる柱となるがいい! 憎め、憎めぇ! フフ、フハハハハハハハハっ!』
あの怪物は何を言っていたのだろうか。憎い、あの怪物が。あの怪物のせいで私の世界が、母が父が壊れてしまった。
『くそぉ――絶対に、許さない……っ! 私に力が、力さえあればあんなやつ……』
『――それは俺に任せろ、アンナ。必ず、必ず父さんと母さんの仇は俺がとる。父さん達をこんな姿にしたやつらを、俺は絶対に許さない。だからアンナはこの家を、俺が帰ってくるまで守っていてくれ』
男の亡骸を背負い、女の亡骸を抱きかかえている兄が帰ってきて、少女に言った。
二人は男と女の亡骸を、近くの森の中にある大きな杉の木の下に埋めた。
その日から、兄の姿は山の中にはなかった。
少女も男と女を供養しながら、時々山をおりては自らの力を蓄えるため魔物討伐の依頼を請け負っては戦っていた。
最初は苦戦を強いられていた少女だったが、もともとのセンスなのか次第に熟練の戦士にも負けず劣らずの戦闘をするようになっていた。
そうしていると勇者と呼ばれるものが、魔王を倒すため旅に出ているという話を耳にした。
特徴を聞く限り、それは兄に間違いないと少女は確信する。
兄も頑張っているのだから、自分も頑張らなければいけない。兄との約束、あの家を守らなければいけない。
少女は山の中の、自らの帰る場所へと戻った。
しかし、人間は何かをしていないと精神が不安定になるらしかった。
少女は憎しみを、その悲しみを、魔物討伐という戦いにぶつけていたのか、徐々に自堕落な生活に陥っていった。
人間は、そう強くはない。
兄との約束、というものを考えると少女は家を離れるわけにもいかず、魔物討伐にもいけなかった。
周りに誰も支えてくれるものもおらず、憎しみをぶつける捌け口も自ら閉ざしてしまった少女は、町におりるたびに酒を買い漁り壊れていった。
いや、もともと壊れていたのかもしれない。男と女を失ったあの日から。
それでも少女は信じていた。兄が必ずあの怪物を殺し、この家に帰ってくるという希望を。
結果、兄は帰ってきた。
男や母が埋められている大きな杉の木の根元によりかかるように、血まみれになった姿で。
『……ごめんなぁ、アンナ。どうやら兄ちゃん、約束果たせなかったみたいだ。ごふっ……っ! 俺はもう逝ってしまうけれど、お前はもう何にも縛られる必要は……ない。お前はお前の――』
そうして少女の兄は逝った。
少女の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
もう崩れていたのかもしれないが、それなら少女の中で何かが消え去ってしまったのだ。
兄の身体が光り輝くのが見えた。
ああ、兄は本当にいなくなってしまうんだな、と少女は実感した瞬間だった。
こんなことならば、自分も兄と共に旅に出て、共に戦えばよかった。
そう思った少女は、ふっと気が付いた。
次は自分の番なのだと。
なんのために自分は力を蓄えてきたのか。
それは自分があの怪物を殺すためではなかったのか。
少女は決意する。
自分の世界を壊したあの怪物を、あの魔物、魔族を率いていた魔王を殺すことを。
兄の――アッシュの姿がまばゆい光に包まれて、アンナの視界を覆った瞬間だった――。