終わりの始まり
ぴちゃん――と天井から零れ落ちた一粒の水滴が、硬い床にその身をぶつける音が聞こえた。視界に映るのは両脇に鉄格子が嵌められた四つの部屋と、天井にぶら下がる淡い光を発しているランプ。そんな簡素なつくりをしているここは、闘技場の階段を下りていったところにある地下牢だった。
「つきました。ここに入ってもらえますか」
「わかったよ」
ラミアは静かにダニッシュに従った。普通ならこんなところに連れてこられれば、文句の一つでも出てきそうだが今のラミアは全てのことを受け入れているのか、牢屋に入ると膝を曲げ首をダニッシュに差し出すような姿勢をとった。
「さぁ、はやくしな。私の首を示さなかったら、アンタの立場がなくなる。私はそんなの嫌なんでね。――リンのいるあの場で殺さないでくれたことは感謝しているよ。だからもう、一思いにやっておくれ」
ラミアはそれ以上なにも言おうとはしなかった。黙ってその首をダニッシュに晒すのみだ。
ダニッシュはそんなラミアを見て、一つの問いを投げかけた。
「ラミアさん。――あなたは人間と魔族、どちらが好きですか?」
ラミアは俯いていた顔をはっと上げ、ダニッシュを見た。
「そんなことを聞いてどうするつもりだい。そんな質問、いまとなっては無意味だろう」
「いいから答えてください。あなたにとって、どちらが大事だったのか」
「私は……」
ラミアはしばし考えている様子を見せた。その時間はダニッシュにとっては少しでも、ラミアにとってはとても長く感じていることだろう。
混血という生まれついてのものによって苦しんだラミアにとって、その質問はラミアの本質をつくものなのだから。
「私にはその質問に答えることはできない。なぜなら――私にとって魔族として生きてきた自分も、人間として生きてきた自分も、どちらも自分だから。代償だとか、そんなことは関係なく私は私だから、どちらかを選ぶことなんてできるはずがないんだよ」
「そうですか……」
ダニッシュはラミアの瞳を見つめると、ニカっと笑った。
「ダニッシュ?」
「よかった。ラミアさんがラミアさん自身を否定していなくて本当に、よかった」
「どういうことだい……?」
ダニッシュは膝をついているラミアの目線にあわせるよう、自分も膝をついた。
そして決意を秘めたように話す。
「これから、あなたに魔法をかけます。それはあなたにとって死と並ぶほどの苦しみになるでしょう。しかし、どうか耐えてほしい。わたしも成功するかどうかの自信はありませんが、あなたを――救いたいのです」
すると、ダニッシュは懐から小瓶を取り出した。中には液体が入っている。
「これは魔族の中の魔力に反応し、魔族を苦しめるための薬だと人間は思っています。しかし、これには――このエルフの薬には他の使い方があることをわたしは知っている。それは、混血の身体を分離させること」
「混血を分離……?」
「ええ、そうです。わたしは一度これをやっているからわかります。悲しくも、それのせいでソージアを生んでしまいましたが」
ダニッシュは気づいていた。
ゲルブ村でレイノスが言ったことの意味がなんなのかを。
レイノスとソージアは一緒であるということ、それは元は同じ身体だということだ。そしてそれが割かれた原因が、自分がフェルメスに飲まされた薬によるものだということを推測していたのだ。
ダニッシュはこう考えた。
それならば、交わった血をわけることができるのならば、ラミアの魔族と人間もわけることができるのではないかと。
ラミアの人生は片方は終わり、一方でまた始まるのではないかと。
ただこの考えには不安要素もあった。
魔族とエルフの混血だったレイノスが、なぜ人間になってしまったのかだ。
血を分けるものならば、レイノスは人間ではなくエルフになっていないとおかしい。しかし現にレイノスは人間になっている。
もしかすると、ダニッシュのこの考えは間違っているのかもしれない。
しかし、もうダニッシュにはこうするほか、ラミアを救う手立てが思いつかないのだった。
「ごめんなさい、ラミアさん。もしわたしの考えが間違っていて、あなたを殺すことになっても、こればかりはどうしようもない。許してください」
ダニッシュは申し訳ないのか、頭を下げた。
それを目の前でやられたラミアは、フフっと笑うと、ダニッシュの頭を右手で撫でる。
「ありがとうね、ダニッシュ。あんたがまだ私を助けてくれようとしていて、私は驚いてる。こんなにも私のことを考えて行動してくれるやつに、私は村の皆以外に出会ったことはないよ。そんなあんたに感謝すれど、文句なんていったりするもんか」
「ラミアさん……」
「私はあんたにこの身を任せるよ。それで死んでも私に悔いはない。もし、生き残ることができたとしたらあんたに一生尽くしてやるってのもいいかもねぇ」
「ら、ラミアさん……っ!? そ、それはもしかして、きゅ、求婚というやつですかっ!?」
クックック、と可笑しそうに笑うラミアの顔にもう暗い表情はなかった。
「そうだね。本当はこういうことは男がやるもんなんだよ? もっとしっかりしてもらわないと困るよ」
「あ、あのわたしはですねぇ、そ、そそ、そういうものには今まで無縁でして、どう応えていいのかわからないのですよ!」
「さぁね。そんなものは自分で考えな!」
声をあげて笑うラミアと、あたふたとしているダニッシュのその光景を見たなら、万人がこう言うだろう。
なんて幸せそうなのだと。
それは、いままで死を向け合っていたものたちとは思えない雰囲気だった。
「そろそろ始めないかい。あんたとこうして話していると、決意がにぶって成功するものもしなくなりそうだ」
「そうですね。……耐えてください、そして生きてください絶対に」
「ああ、わかってるよ」
ダニッシュはラミアが頷いたのを確認すると、手に持っている小瓶の蓋を開け、その中身を一気に飲み干した。
そして身体に液体が巡るのを感じると、呪文の詠唱を始める。
操られていたときと同じような感覚に陥ったダニッシュは、一瞬意識を失いかける。
「こ、これは……」
ダニッシュは理解した。この薬を使うことは人間にとってかなりの負荷になるのだと。
レイノスに魔法を向けたあのとき自分がなんともなかったのは、意識を操られ人間の中にある制限を外されていたからなのだとわかった。
「大丈夫なのかい、ダニッシュ!」
ラミアの声をダニッシュは朦朧とする意識の中聞いた。
ここで自分が気を失えば、全てが水の泡だ。ラミアを救うことも、レイノスの願いを叶えることもできなくなってしまう。
ダニッシュは意識を踏みとどまらせるかのように、自らを立ち上がらせると身体を壁にぶつける。
それを何回か繰り返したダニッシュは、ラミアのほうにその身体を向きなおした。
「いきますよ、ラミアさん」
決意を秘めたダニッシュの目を確認したラミアは、静かに頷いた。
瞬間、ダニッシュから放たれた魔法がラミアの身体に襲い掛かった。
「ぐ、ぐあぁぁああああーーっ!」
「はぁ、はぁ……っ! ラミア、さんっ!」
ラミアの身体は徐々に白い光に包まれていく。
それはレイノスが身体を分離したときと同じ現象だった。
その光はラミアの身体を包み込むと、次に牢屋全体を照らしダニッシュの視界を奪う。
「ラミアさん、ラミアさーんっ!」
光が晴れたとき、目の前には一人倒れている魔族がいた。
「ラミア……さん?」
ダニッシュは駆け寄ると、ラミアの身体を抱き起こし、その顔を見た。
ゆっくりと目を開けるラミアはなにか憑き物が落ちたような、そんなすっきりとした表情をしていた。
「ダニッシュ……成功、したみたいだよ」
「ええ、ええ……っ!」
ダニッシュは自分の目から零れ落ちている涙に気づく。
「ふふ、なにを泣いてるんだい。ここは喜ぶところだろ?」
「そうですね、そうかもしれません。泣くなんておかしいですよね」
「そうだよ。ここにいる私は死んでしまうけれど、別の場所にいる私は新しい人生を歩き出せるんだ。これが私の――ラミアの望んだことだったんだ」
ラミアは何の憂いもなく笑った。
そのときダニッシュは自分の涙の理由に気づく。そして、それを恥じた。
ダニッシュは目の前にいるラミアを殺すことが嫌だったのだ。決まりきっていることだけれども、本当に嫌だったのだ。
どちらもラミアで、どちらも自分が大切に思うラミアに変わりはないのだから。
「情けないねぇ……私が大切に感じるアンタは、もっと強かったはずなんだけれどね。それもアンタらしいっちゃアンタらしいけどね」
ラミアの顔に曇りはない。
「さぁ、やりな。――アンタに会えて、本当によかった。もう一人の私にもよろしくね」
ダニッシュは涙をぬぐった。
ラミアの決意をここで自分が踏みにじるわけにはいかなかった。
静かにそっと、剣をとる。
零れたなにかが、剣をつたってラミアの顔に落ちた。
――ここにいま、一つの命が散っていった。
地下牢に続く階段を逆にあがっていくダニッシュは、右脇に勝利の証明を抱えていた。 そして闘技場をでると、そこにいたのは思いがけない人物だった。
「――やったんだね、ダニッシュ。この前会ったときとは見違えるぐらいたくましくなって」
「あなたがどうしてここに……」
「一通り話がついたからさ。エルフは今回の事件の収拾に協力してくれることになった。まぁ、あんたが話した演説のおかげで人間達もさほど反論はしてこなかったよ」
「あなたがここにいるということは、もしかして――」
「あの子もいるよ。その証明を掲げるにふさわしい場所にいま、フェルメスと立っているんじゃないかねぇ」
ダニッシュはすぐさま走り出した。
目の前にいるエルフなど眼中にないかのように。
「このアリア様に目もくれないなんて……本当にダニッシュは強くなったよ。お前もそう、思うだろうさ――レイノス」
その日、東門の壁の上で戦争は終結した。
魔族軍のリーダーの首が、人間軍のリーダーによって示されたからである。
しかし、歓喜の渦が巻き起こることはなかった。
戦争の終結にあたって、エルフが介入してきたからである。
エルフは人間と魔族双方に和睦するようもちかけた。
人間側の指導者ダニッシュはそれを了承。魔族側の指導者レイノスもそれを了承し、エルフ仲介のもと和睦の証にサインをする。
ここで、魔王レイノスは自分の後継者を発表する。
その名前はフェルメス。
魔族の中には反発するものもいたが、戦争に実質敗北した魔族に力はなく正式にこれが決定した。
そして、人間と魔族の戦争の終結、次期魔王の発表、四種族が同じ場に集まった歴史的瞬間として、この日は後世に語り継がれていった――。
「お姉ちゃん……うわぁぁぁぁんっ!」
「リン……」
敗戦の将のような面持ちで歩くのはマニ村のものたちだった。
赤子のように泣いているのは、ラミアの義妹リン。
それを慰めることもできず、ただただ見守ることしかできない村人達はゆっくりと自分達の住む場所に帰ろうとしていた。
森をしばらく歩き抜け出すと、そこはもうマニ村だった。
村の入り口に近づいていくリンたち。
そして――。
――おかえり、みんな。そして、ただいま。私帰ってきたよ。
「お姉ちゃん――?」
「ラミアか――?」
リンと村長が呟く。
「私以外にどう見えるっていうんだい。まぁ、姿は人間だけどね」
「ラミアや……っ!」
村長が搾り出すように名前を言うと同時に、リンが駆け出した。
そして、自らの義姉――姉の胸に飛び込んだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃぁぁぁあんっ! よかった、よかったよぉ!」
「あはは、ありがとうねリン。私も、私も本当に……っ!」
二人はそのまま抱き合いながら、互いに泣いた。しかし、その涙は悲しみからではない。
その理由を言葉で表すのはとても無粋だろう。
ただ――。
「また、二人で遊べるっ! 一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に寝れるんだねっ!」
「ああ、好きなだけしよう……っ! 私たちを阻むものはもう、なにもないんだから!」
曇りもない透き通った笑顔を向けあう二人は本当の姉妹にしか見えず――。
「わしらもおるのを忘れんでくれよ? わしらみんなで家族なんじゃからな」
「わかってる、わかってるよおじいちゃん……っ!」
温かな笑顔をした村人に囲まれているラミアは――。
――本当の幸せを掴み始めていた――。