互いの思い、そして別れ――
エルフ。それは人間とも魔族とも、それ以外の種族とも異なった血筋を受け継ぐものたち。
この世界――サウスリアを守り続ける守護の役割を、己の使命として考え行動する始祖の一族。かつて全ての生物の頂点に至っていたエルフは、しかし、その膨大な力と相反するように数が少なかった。
一族代々の暗黙の了解からか、他の種族との交配を試みようとするものはおらず、やがてますます数は減少していった結果、エルフの生物界の頂点という称号は過去のものとなっていった。
やがてエルフは追われるように、サウスリアの北にある離れ小島に移り住むことになる。
そこでサウスリア――もといた故郷の平穏を願ったエルフたちは、大陸に危機が訪れると度々姿をあらわし、それを回避させてきた。
――レイノスやアンナが生まれる少し前。その時期に大陸に迫った危機のときも例外ではなかった。
人間と魔族の全面戦争。
大地は荒れ、草木は腐り、やがて人々や魔族たちの心まで病んでいったおぞましい出来事。互いに相手の血肉を喰らわんとばかりに剣を、魔法を手に携えながら挑む戦いは不毛の一途を辿っていった。
エルフはこの状況を、離れ小島に建っている高い塔の最上階から見下ろしていた。そして、エルフは決断した。二人の仲間を大陸に送り込むことを。
一人は人間のもとへ。一人は魔族のもとへ。
この二人が何をしたのか、知るものは少ない。しかし、この二人の手によってこの戦争は回避され、再びサウスリアに一時の平穏が訪れた。
その後、エルフたちがどう過ごしてきたのかを知るものは、人間や魔族のなかにはいない――。
「エルフの島に、行けるのか……?」
レイノスのそんな疑問に満ちた声を発する。それはそうだろう、当初のレイノスたちの目的がエルフの島に向かうことだったのだから。それが突然、目の前の女によって差し出されたことによって、レイノスが疑問をもつのも不思議なことではなかった。
「行けるさ。なんていったってこのアリア様だよ? あんな離れ小島に行くことなんて、赤子の手をひねるぐらい簡単さ」
それに対し、フェルメスが口元を歪ませながら、アリアを見た。その視線を感じたアリアは、フェルメスをにらむ。
「なんだい、フェルメス。なにか言いたいことでもあるのかい」
「フフッ、あなたがエルフの島に行くことは確かにできるのでしょうが……まさか、レイノス様をお連れするとは思わなかったもので」
「……こんな事態にならなければ、わたしだってレイノスを連れて行くことなんてしなかっただろうさ。まして、自分自身があの場所に戻ることもね」
アリアはふっと吐き捨てるように言った。
「それはそうでしょうね。しかし、それほどまでに事態が悪化しているという証拠でもありますか。いやいや、私が眠っているあいだにいったい何が起きていたのやら」
「その責任は貴様にもあるぞ、フェルメス。なんていったって、ソージアを生みだしたのは貴様の行動のせいなのだからな」
「私はレイリア様――いや、ラノス様からの命令に従ったまでのこと。その件に関しては、私は何も知らなかったといっていい。知っていたなら、こんなところで結晶に閉じ込められるなんて愚行は犯していません」
「お前らはなんの話をしているんだ……?」
二人の話についていけないレイノスは、困惑の表情を浮かべながら尋ねる。しかし、それに対しフェルメスとラミアは、ただただ微笑むばかりだった。
「レイノス君……そしてフェルメス、アリアさん、少しいいですか?」
そこに今まで沈黙していたダニッシュが三人の会話に割り込んだ。そんなダニッシュにフェルメスは不愉快そうに顔を歪めた。
「おい、この人間風情はなぜ私のことだけを呼び捨てにしているのか」
「あっ、いえ、別にあなただけを区別するわけではなくてですね」
「しかもなぜ、こうも気軽に話しかけてくるのだ。消していいのか、これは」
「えっ! やや、やめてください! ごめんなさいごめんなさい!」
「ふふっ、心が狭いねぇフェルメス。もっと大きな器を見せることはできないのかい。仮にも次期魔王なんだろう?」
「……人間風情に舐められる魔王など、魔王ではないわ」
「まぁ、そこらへんも追々、あっちで語ることにしようかね」
さて、とアリアが手を鳴らし、無駄話は切り上げるよ、と言って一人一人の顔を眺めた。その瞳からは先ほどまでの笑みや冗談などの色は混じっておらず、ただただ真剣さだけが宿っていた。
レイノス、フェルメスと続き、最後にダニッシュを数秒間見つめる。
「……な、なんですか?」
「……レイノス、そしてフェルメス。二人は私と共にエルフの島に来る、ってことでいいのかい?」
有無をいわせぬ物言いにレイノスはしばしたじろいだが、了解の返事をした。フェルメスも同様に、了解する。
「それは良い返答をもらえた。まぁ、嫌だといっても無理やり連れていったがね」
一瞬、アリアは二人に視線を送るが、すぐにダニッシュに合わせなおす。
「問題は、お前だ。ダニッシュとやら」
「えっ……」
「さっきお前が尋ねようとしたことは、エルフの島についてのことなんだろうが……その前に一つ聞いておかねばならんことがある。――お前はレイノスと共に、エルフの島についていきたいかい?」
「そ、それは当たり前ですよ!」
「――なにが当たり前なんだい? 自分がレイノスと共に歩いていくって決意したからかい?」
「そうです! 私はもうレイノス君の後ろをついていかない。隣を歩いていくって決めたんです。自分が強くなるために! ――そして、アンナさんを助けるためにっ!」
「ダニッシュ……お前」
レイノスはあらためてダニッシュの言葉に驚き、そして安心した。ゲルブ村で言っていた言葉は嘘ではなかったのだと、あらためて信頼したのだ。
なぜかレイノスの胸にこみ上げてくるものがあった。それがなぜなのかは、まだレイノスにはわからなかったが、レイノスはこのとき初めて、ダニッシュに出会うことができてよかったと、そう感じた。
アリアのほうを見る。その顔は全てをわかっているようで、そのうえでダニッシュのいまを否定するようだった。その顔を、レイノスはなぜか認めてしまった。いや、アリアの考えていることがなんとなくわかってしまったのだ。
――ダニッシュはこのままでは強くはなれない、と。
そう、感じたのだ。かすかに、しかしなぜか確信を持って。
「一つ言おうダニッシュ。お前はエルフの島にきてなにをする。なにもない。ただレイノスの側にいるだけで、貴様自身ではなにも為すことはできない。それでは強くはなれない」
「どうして、そんなことをいうんですか。どうしてレイノス君を一人にさせるようなこと……」
「レイノスは一人ではない。いまやフェルメスや私、そしてあちらにいけばレイノスの大切な人だっているのだ」
「大切な人、ですか……? しかし、そんな……」
「お前は自分が一人になるのが本当は怖いのではないか? そしてそれはお前自身が一番よくわかっている。しかし、それを頭で考えようとしても、自分自身で否定している、そんなように私には見えるが」
「そんなっ! そんなことは決してな――」
「――ここでお別れだ、ダニッシュ」
「…………はい?」
レイノスがダニッシュの言葉をさえぎった。それはダニッシュにとって信じられない言葉だった。
「いまなんて、いったんですか?」
「お別れだと、いったんだ。このまま今のお前と一緒に行動しても、仕方がない」
「どうして……?」
「――お前が強くなる場所は、俺ではない。お前が強くなる場所はお前自身だ、ダニッシュ」
レイノスは力強く言い放った。それは何事にも揺らぐことのない強固な意思によるものであったことは間違いない。しかし、ダニッシュはそれを受け止めることはできない。
「……一緒に歩いていこうって私がいったとき、レイノス君も笑顔で了解してくれたじゃないですか。どうして、なんですか」
レイノスはしばし目を伏せた。そこからは表情はダニッシュは読み取ることができないのだろう。ダニッシュは困惑するばかりだった。
そして――。
「はっきりと申そう。現在の貴様では力不足なのだ、人間よ」
それは、いや、その言い方はレイノスであってダニッシュが共に歩んできたレイノスの言葉ではなく、魔王のそれだった。
「そん、な……」
もう、ダニッシュとすら呼ばれていなかった。
そして、それの意味するところはもはや、今のダニッシュのことを見ていないということ。そして同時に、もうダニッシュはレイノスの仲間ではないと、そういうことなのだとダニッシュは受け取るのだろう。
レイノスは、今の目の前のダニッシュから視線を外し、アリアに問う。
「エルフの島へは、どうやっていくのだ」
「……一瞬さ。エルフにはあそこに戻ることができる移動魔法を教わっている。だから、私が念じれば、今すぐにでもいけるよ」
「そうか……」
レイノスはフェルメス、アリア、そして周囲の風景を眺め、
「では今すぐに飛び立つとしよう」
と、一言。
「まって……まってください。私を、私を置いていかないでください。もう、もう――弱い自分一人になるのは嫌なんです!」
「アリア、頼む」
「……わかった」
「まって!」
ダニッシュはレイノスに追いすがる。足元に這いより、レイノスの右足にしがみついた。もう顔は涙でぐちゃぐちゃで、そこにはもういつもの冷静なダニッシュはいなかった。
「私は、私は一人ではなにもできないんです! レイノス君やアンナさんがいたから、強く見せかけることができた! 魔物ともなんとか戦うことができた! 仮初めの自分だってことは多分わかっていたんです、でも、同時に自分が強くなったんじゃないかと錯覚していた。変わったと思い込んでいたんです! でも、そんなこと全然なかった。アンナさんがいなくなったときに不安になった。自分の仮面がはがれるんじゃないかって、思った。だからレイノス君の前で強がってしまった、あんな強くなったかのようなことを言ってしまったんです! 私は強くもない、大人でもない、ましてや英雄なんてものでもなかった。それなのに、レイノス君は私からあなたの仲間というものすら奪ってしまうんですか……」
ダニッシュの、最後の叫びだった。そしてそれは、ダニッシュが初めて漏らした、心からの弱さだった。
「私は、ただのなんの取り柄もない人間だったんですよ……」
それが全てだった。そして、それがダニッシュの本質だった。
特別ではない人間が、特別であろうとした結果がダニッシュだった。
勇者に救われ勇者に憧れて、フェルメスによって仮初めの英雄に祭りあげられ、魔王の強さに惹かれ魔王の側にいようとした、人間の結果が。
今のダニッシュを直視できるものはいないだろう。現に、フェルメスやアリアでさえ、各々思うことはあるのだろうが、ダニッシュから目を背けている。
ただひとり、レイノスを除いては。
レイノスはじっと、ダニッシュを見据え、そして何も言わなかった。そこにはなにも必要としないかのように。
ダニッシュも、涙でレイノスを見上げてから、その様子になにかを感じた。
「レイノス、君……?」
レイノスは最後に、一言。
「……待っているぞ」
その瞬間、レイノス、フェルメス、アリアの姿が光に包まれる。レイノス達の足下から光の粒子が次々と巻きあがり、その全身を覆っていく。
「まって、私も、私も連れていってください……っ!」
その言葉が届いたかどうかはわからない。レイノスたちはもう、ダニッシュの前から、姿を消していた。
足を掴んでいたダニッシュの手が、虚空を握る。
もう、そこにはレイノスの姿は残っていなかった。
「そん、な……レイ、ノス君」
ただ一人、ダニッシュはそこに崩れ落ちるばかりだった――。
「あれでよかったのか? レイノスよ」
もうそこはエルフの島の海岸沿いだった。レイノスたちは無事にたどり着けたのだ 、エルフの島に。
「フン、あんな見苦しい姿を晒すとは、やはり人間は愚かですね」
フェルメスが吐き捨てる。それは心底、フェルメスが思ったことだったのだろう。
しかし、それはいま言ってはいけない言葉だった。
なぜなら、レイノスからおびただしい殺気が溢れだしていたからだ。それは近くにいるだけで身を切り裂かれるような、そして心までをも蝕まれるような、そんな瘴気にも似たものだった。
「それ以上、ダニッシュを侮辱するような発言をすれば、フェルメス。貴様をこの世から瞬時に消し去ってやろう。魔王など関係なく、どのように俺が惨めな姿になっても、必ずな」
「冗談です。あまりお怒りにならないでください、レイノス様」
「……そうか、言葉には気をつけろフェルメス。仮にも次期魔王ならばな」
レイノスからの瘴気は薄まった。なくなったとはいえないが、フェルメスの言葉をきいて、少し薄めたのだろう。
「しかたはあるまい。あの男はレイノスといれば、どんどん駄目になっていく。気づかないうちに腐敗していく。それはあの男も、そしてレイノス、貴様も望むことではないのだろう?」
「そうだ、だから俺は……あんな、ことを」
「……そうか、もうなにもいうな。今日は疲れたであろう。ここで一夜を明かすとしようか。ほれ、フェルメス準備だ!」
「な、なぜ私がそのようなことを!」
「いいから、こい!」
そうしてアリアはとフェルメスはレイノスから離れていった。
「ふん、気を使わなくてもいいのにな」
レイノスはしかし、そうはいいながらもアリアに感謝した。
「ここからエルフの住む場所までは、まだ少し進まねばならんのか」
ここからはいつもの仲間ではない。本当に自分の道を進んでいくのだと、あらためて思ったレイノス。
「……俺も一人で進んでみる。だから、お前も一人で進んでみろ」
それは誰に向けて言ったものなのかは、わからない。
しかし――。
「そして、いつかまた、お互いに強くなって再開しよう――」
レイノスの言葉にははっきりとした優しさが、揺るがずそこにはこめられていた――。