母の記憶
はるか昔、獣人たちはゲルブ村に移住してきた。なぜ突然移住してきたのかはわからない。しかし、少しずつ獣人は数を増やし、ゲルブ村に住み着いてゆく。
そんなことがあり、人間たちが獣人をよく思わないのは当然だった。自分たちの住んでいるところに、突然見知らぬ人種が混ざりこんで来たのだ。
それでも最初は、人間も今ほど獣人を憎んでいなかった。挨拶をされれば挨拶を返し、子供は人種など関係なく一緒に遊び、子の親もそれを微笑ましく眺めていた。
いつからだろうか。
山神様と呼ばれるものが囁かれはじめたのは。
それは獣人が移り住んでから、程なくして人間たちのあいだで噂された。
『山神様を信じれば、どんな病気も治るらしい』
『死んだ者が生き返ったって話だ』
『罪人が山神様に出会って、改心したそうだ』
人の噂が広まるのは早い。わずか一月足らずで山神様を知らぬ人間たちはいなくなり、そして信仰を深くしていった。人は心の拠りどころを求めたのだ。
なぜなら、魔物に人が殺されていく世の中で、本当の安息の時などなかったのだから。
そして、ゲルブ村の人間は同じ場所に住む獣人たちにも、山神様を信じるよう勧めた。いや、勧めたというよりも強要した。
新参者は黙って私たちの言うことを聞けばいいのだ、と。
獣人たちは、強く拒んだ。
そして、あろうことか人間たちにこう言ったのだ。
『山神は穢れの塊である。あれは、罪が具現化されたものだと』
その言葉を聞いた信仰の深い人間は、たちまちこの言葉を村中の人間に広めた。
『獣人は我々の神を冒涜する輩である』と。
そうやって少しずつ、獣人と人間の距離は遠ざかっていく。
子供がこれまでと同じように、獣人の子と遊ぼうとしても、子の親に邪魔をされる。獣人の子は汚いから近づくな、と。
こんなことがあってから、幾分かの年月が経ち、この世にイマムネと呼ばれる少年が生まれる。
そして、その母の名をシュリアという。
――一人、このシュリアは村の差別に立ち向かっていたのだった。
「――では、行ってきますね。あなた」
「……ああ、村長の私がこんなことを言うのはだめなことなのかもしれないが、頑張ってきなさい」
「ありがとう……」
わたしが今から向かおうとしている場所は、獣人のエンジさんのところだ。獣人の中心人物であるエンジさんと、幾度となく密会を重ねてきたわたしの結論は、やはり人間と獣人は共存できるということだった。
思えば、自分が生まれた頃から、一方的な人間の差別を目の当たりにしてきたわたしにとっては、元々獣人たちは悪い存在だとは思っていなかった。むしろ、人間たちのほうが醜く、わたしの目には映っていたのだ。
「――だから、人間が今一度、自分たちを見つめなおし、獣人たちの良さに気づくことができれば――」
わたしは靴の中に足を滑らせ、靴紐をぎゅっと強く縛る。
決意を固めるように。
「……お母さん、どこに行くの……?」
眠たそうな目をこすりながら、わたしの愛しい息子が起きてきた。
「そうだね、ちょっと出かけてくるだけよ。すぐに帰ってくる。だから、安心して布団に入りなさい。ほらっ、良い子は寝る時間よ」
「本当に、帰ってくる……?」
「帰ってくる、帰ってくる! ほら、行きなさい」
なぜか不満そうな顔をしながら、しぶしぶと戻っていく息子――イマムネ。
あの子の為にも、一刻も早く、この村の問題を解決しなければ。
そして、あの子の未来を――あの子の笑顔を守らなければ。
そんな決意を胸に抱きながら、わたしは家の玄関を飛び出し走り出した。
目指すはエンジさんの家だ。
外は雨が降っていた。しとしとと、わたしの進路を阻むかのように。
視界が悪い。周りの音は、雨が地面に叩きつけられるようなものだけだ。
そんな状況で、前のほうに人影が見えた。
雨が視界をさえぎる。
あれは……誰だ?
人影に近づく。あの人は――
その瞬間、音が、止んだ。
体が熱い。焼けるような熱さが腹部にはしる。何かで切り裂かれたような痛みが、徐々に襲ってくる。立っていることすら、できない。
「どう、して……?」
わたしの体は、雨と同じように、地面に叩きつけられた。
「――お前はでしゃばりすぎた。シュリア、貴様をエンジのもとへ行かせるつもりはない。ここで今日、貴様は死ぬのだ」
あと、もう少し。あと、もう少し頑張れば、この村は変わったかもしれないのに。
「ごめんなさい、あなた。ごめんね、イマムネ――」
――お母さん、帰れそうにないわ。
こうして、一人の女の戦いはあっけもなく幕を閉じた。
そこには何のドラマもなく、ただただ、一人の女が一つのことをやりとげようとし、そしてやり遂げられなかった。
そんな死を、レイノスは山神に見せつけられた。己が罪だけではなく、なぜか他の罪を背負わされた。
だから、レイノスはイマムネの問いに答えることができる。
「貴様の母、シュリアを殺したのは――」
「ダン、お前だろう?」
ゲルブ村は今、ひとつの終わりを迎える。