一人の青年
「はぁ、はぁはぁ、撒けたかな……?」
息を荒く吐き、呼吸を整えながら建物の裏に身を隠す青年。
「どこにいった!? 草の根わけても捜しだせ! 見つかるまで帰ることは許さんからな!」
青年が身を隠した建物に隣接している広い道からは、野太い男の声が響き渡っている。その周りには他に三人の男がおり、道行く人の一人一人に声をかけていた。
そして、ある一人の女性が男と話しながら、身を隠していた青年の方を指差す。それを見た他の男達は、一斉に女性の指差した方向――青年の方へと走り出してきた。
「く、くそ」
青年は、男達とは反対の方向に逃げるように走り出す。反対側には青年にとって運がよかったのか、家がたくさん並んでいる住宅街だった。青年は、建物と建物の間を縫うように走り、後ろから追ってくる男達を完全に撒いてしまった。しかし、逃げることに夢中の青年はそれに気づかずに走り続け、やっと止まった場所はゲルブ村南部の門付近の路地裏だった。
「こ、ここまでくれば大丈夫かな……?」
追っ手を確認するように周りを見て安全と判断した少年は、両手をひざの上に置き小刻みに呼吸を繰り返した。そして、尻餅をつくように地面に座る。
そして深くため息を吐いた。
「……ここは目的の場所とは正反対じゃないか」
青年の座る路地裏には、あまり人がいない。それがまた青年にとって幸運だったのか、足音や声などがよく聞き取れた。そのおかげで追っ手の声がすぐに青年の耳に入ってきた。
「おい、いたかー!」
「こっちにはいないぞー!」
「……もう追いついてきたのか」
青年はゆっくり息を整えながら、腰をあげて立ち上がる。そして、追っ手の男達の声の方向を確かめると、また逃げるため走り出す。
……青年は夢中になると周りが見えなくなるのかもしれない。
「わっ!」
「うわぁ!」
走り出して、南の門の前を青年が通り過ぎようとしたとき、誰かとぶつかってしまったのだ。
青年は、ぶつかった人を押すように倒れる。
そして――
青年の唇に柔らかな感触……ではなく、すこしがさがさした感触。
「~~~!!」
青年は声もなく悶える。
それもそのはず。
青年は、事故とはいえ男とキスをしてしまったのだった。
「~~~!!」
レイノスとアンナは、目の前で起きている光景に口をあんぐり開けて驚いていた。レイノスは次第に不愉快そうに目を細め、アンナは目をキラキラさせながら目の前の出来事を見た。
ダニッシュはというと……
「~~~!!」
事故の当事者として活躍していた。
「この光景……はっきり言って気持ち悪いぞ……」
レイノスは気分悪そうに言い放ち、ダニッシュと青年から目をそらした。その言葉に対して、ダニッシュは言いたいことがあるのか、喋ろうとして口を動かそうとするがキスしているので動けない。
しかも、ダニッシュは下だった。いわば、押し倒された被害者とも言える。いや、実際被害者なのだ。
では、加害者である青年は何をしているのかというと――
気絶していた。
「ふ、ふががふごごが! ふがふごふががふごが(き、きぜつしないで! はやくどいてください!)」
ダニッシュはそう言いながら、青年をどかそうと体を右へ左へ動かす。そうやって、ようやく青年の唇から開放されたダニッシュは、おえ、とえづいた。
そしてゆっくり立ち上がり、空を眺めながら固まってしまった。
その様子を見たアンナは、励ますように一言。
「人生の中で普通の人が中々体験することができないことをしたんですよ? ほら、元気出して!」
「アンナ……それ、全然励ましになってないぞ」
レイノスが呆れたようにアンナにつっこんだ。それを聞いたアンナは、そうかなー? といった表情で首を傾げる。
その間、ダニッシュはずっと空を眺めていた。
「で? こいつはなんなんだ?」
倒れている青年を指差し、レイノスはアンナに聞く。アンナは腕を組みながら、倒れている青年に近づいて顔をまじまじと見た。
「うーん、ちょっと誰かわかんないなぁー」
「いや、そこで誰かわかったら怖いけどな……。俺が聞きたいのはそういう事じゃなくてな……」
そのとき、青年が目を覚ましたのか、うーん、と声をだした。そして、倒れたまま首を右左と忙しなく動かし、状況を理解しようとしていた。そして、周りにいたレイノスとアンナとダニッシュを見て、
「あなたたちは……?」
と聞いてきた。
「お前こそ誰なんだ?」
訝しげに青年を見るレイノス。
その空気を、いつものように感じ取らないアンナは、
「わたしアンナ。あなたの名前は?」
と、普通に名前を名乗っていた。お、おい、とレイノスが言うが、アンナは大丈夫というようにレイノスに笑いかける。
そして、青年の方を向いて、再度名前を尋ねた。それに、少し弱々しく青年は答える。
「僕の名前はイマムネっていいます。えっと、そちらの二人の名前は……?」
「……レイノスだ」
「レ、レイノスさんですか。そちらの……空を眺めている方は……?」
苦笑しながらアンナがダニッシュさんだよ、と答える。イマムネは不思議そうにダニッシュを見て、
「なんで、ダニッシュさんは先程からボーっとしておられるのですか?」
「お前……何も覚えてないのか?」
「……なにかあったんですか?」
イマムネの頭からは、ダニッシュとのキスの記憶は綺麗さっぱり消えていた。それほどのショックと衝撃だったのだ。
「忘れているならいいと思うぞ」
「う、うん。私もそのほうがいいと思う」
「?」
三人がそんな会話をしていると、後ろから野太い男の声が聞こえてきた。
「まだ、見つからねーのか! 早く見つけねーと俺達の首が飛ぶぞ!」
「へい! 分かってますよー!」
「やばい! それじゃ、レイノスさんとアンナさん。僕はこれで!」
そういうやいなや、イマムネは颯爽と走り去っていった。
「なんだったんだ? あいつ」
「わ、わからない」
イマムネが走り去っていった方向を見つめながら、レイノスとアンナは伸びをした。
「まぁ、ひとまず今日の宿を探しにいくか」
「そうだね」
二人は並んで歩きだす。アンナは手を後ろで組み、レイノスは前で腕を組む。そんな二人の顔は笑顔だった。
「なんで私はいつもこうなんでしょう……」
一人立ち尽くすダニッシュ。手はぶらりと垂れ下がっている。その顔は、いまにも泣き出しそうな悲しい顔をしていた。