正倉院幻想(ふぁんたじあ) 壱
「お前は下手だのう」
「何をぅ、この間は大分受けたでねえか」
琵琶を弾きながら歌っては、各地を巡ってきた男の脳裏には、たった数日前の村人の拍手と喝采の声がまざまざと蘇っている。しかし、駱駝は一向に首肯しないのである。
「うんにゃ、バラド・バラド・バラク様とは、一段も二段も違ぇでなぁ」
バラド・バラド・バラク様とは、王からバラド・バラド・バラクの称号を名乗ることを許されたほどの稀代の名手である。
ちなみにバラド・バラド・バラクとは、本人が所望した称号である。
絶大な権力を確信していた老王は、朗らかな気持ちで言ったのだった。
「どんな称号を使ってもよいぞ」
「――では、バラド・バラド・バラクでお願い申し上げる」
即答であった。
ただ、広くて豪華な会場はシーンと静まり返ったけれども。
バラド・バラド・バラクなんて、いかなる記録にも存在しないし、そもそも、なんだかふざけている感じを受けたからである。
ところが、愚弄している様子はなく、神妙な顔つきであった上、そもそも言ってしまった以上、王も盛大なセレモニーを挙行して許可するしかなかった。
同時に「バラド・バラド・バラク様」の誕生は規定にのっとり、文書によって国内の全ての地域および外交関係にある諸外国、――例えば、茫々たる巨海に舟渡りして、波路の果ての、日出る東海の果ての、秋津島は豊葦原の瑞穂の国、その国のまほろば、畳なづく青垣、山隠れる、うるはしきヤマト(彼の国の使者が述べた国の紹介による)――へも通告された。
ただし、かなり前から彼の姿を見た者はいない。死んだのだとも病に臥せっているのだとも、巷間では噂されている。
そしてそして、駱駝は「バラド・バラド・バラク様を最後に乗せたのは自分である」と自慢するのである。
――ある夕暮れ、バラドを乗せたのさ。荒野に差し掛かると、バラドはこれまで世を風靡した人気曲を何曲も歌ったが、別にそれを変だとも思わなかった。ところが、約束の場所で降ろし、元来た道を帰ってゆくと、背後の山間から、不思議不思議な歌を歌うバラドの声が響いてきたのさ。
己も音楽好きであったので、
「今そこへ行くから、その面白い歌を近くで聞かしてくれよう」
と遠吠えした。しかし、言葉による返答はなく、さらに別のこの世の誰も聞いたことのない歌が披露され、と次第に遠のき、最後は風に消えていった。
「それでわかったのさ。バラド殿――駱駝は興が乗ると、こう呼ぶ――は、俺が音楽好きの駱駝だって知っていたから、わざわざやって来て頼んだのさ。何のためにって? 今までとは違う歌を歌い始めたくて、姿を消したのさ」
以来、男は何度もその楽曲を再現してくれるよう、駱駝に頼んできた。
「言語道断だな。バラド殿が人間どもに披露するまでは、明かしゃしねえよ」
それでも、何か手がかり(楽想のヒントになるような風景とか出来事)を知りたくて、バラドを降ろした場所もあれこれ尋ねてみた。
「もともと、それを誰にも教えないっていう約束で乗せたのさ」
とはいえ、男と駱駝はバラド殿の現在について、いろいろと空想を巡らしては楽しんでいる。
「どっかの境内の隅で、ふつうの老人の身なりにやつして、何気なく歌っているんではねえかのう」
「なるほどなあ。そいで、耳を傾ける者が稀にしかいなくとも、楽しんでるんだろうなあ」
西域を旅する一人と一匹は案外、話が弾むのである。
‥‥もちろん、男にはこれが甘やかな幻想であることはわかっている。先日の拍手喝采は、都から僻遠にある田舎の人々だから喜んでくれたのだ。そもそも、駱駝だって、最近安価に入手できた痩せっぽっちで、今もほぼ訥々と歩んでいるだけだ。
――これを記す筆者にも現実はわかっている。
けれども、透明感のある玳瑁に、光輝を放つ白い螺鈿が美しく嵌めこまれた撥面を見ると、やっぱり駱駝のだみ声が聞こえてくる。
「お前は下手だのう」
「何をぅ、今に見てろや、有名になってお前を天国に連れてってやるでよ」
彼の天国は、飢渇と寒暑に苦しまない場所を指す。駱駝にとっての天国とは、音楽による法悦境である。
「‥‥まあ、偶然には良い調べも一節二節あるかなあ。‥‥大体、バラドのように王宮の園遊会の出し物として呼ばれなくとも、俺の故郷に来ればいいがよぉ」
高き天に輝く白い月が広大な荒地を照らし、涼やかな大気の中、一人と一匹の影が動いていく。
(了)
〈付記〉
螺鈿紫檀五弦琵琶一面 亀甲鈿捍撥(「国家珍宝帳」より)
2019年(令和元年)に東京国立博物館で開催された「御即位記念特別展 正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」で展示された大陸由来の楽器(輸入物の超々高級品)。