幕間(2)オルグと魔法
この世界には魔法がある。
そう認識して数ヶ月。オルグはベビーベッドを卒業し、はいはいが出来るようになった。
「うー、あうー」
上下左右に首を振る送風機にはいはいで近付くと手を伸ばす。
「あー、うー」
送風機は首が動くたびに、きらきらと緑の光が流れる。
その光の粒子を掴みたい衝動を堪えきれない。
「あら、オルグ。何か、面白いものでも見つけたの?」
「うー、あうー!」
(これは何ですか、かあさま!)
まだ習得していない言葉の代わりに、目を輝かせて緑の光を追いかける。
そんなオルグの様子に小さく笑うと、母はオルグを抱き上げてベッドに座る。膝の上にオルグを下ろした。
「オルグには、これが見えるのね」
母はそう言うと指先でそっと空中をなぞって、魔法陣を描く。少し魔力を込めれば、きらきらとした緑の光が溢れて、ふわりと風が吹いた。
風はオルグの頭を優しく撫で、すっと消えていく。
「これは『妖精の通り道』。魔法を発動すると、こうして魔力が溢れてきらきら流れるの。その様子が、妖精が通った跡に似ているらしくて、そう呼ばれるようになったそうよ」
「あー! うー!」
目の前で発動した魔法に興奮するオルグの頭を今度は母の手が撫でる。
「ふふ。オルグは魔法が好きなのね」
「あい!」
頷くオルグに、母はにこやかに目を細める。
その後も母はオルグに色々なことを教えてくれた。この家のこと、街のこと、国のこと。そして、魔法について。
母の話はまるでかつて読んでいた物語の世界のようで。見聞きする全て、体感する全てにうきうきと胸が高鳴った。
魔法への期待はそのままに、オルグは母親や祖父が手配した家庭教師たちから多くのことを学びながら、すくすくと成長していった。
オルグは身体的な成長は一般的だったものの、言語の理解は早かった。
一歳ですらすらと言葉を話し、二歳では文字の読み書きもマスターした。
大抵のことは少し教われば、すぐに理解するオルグに祖父も期待し、早くから後継者教育も始められた。
その中でも特にオルグが熱心に学んだのは魔法の授業だ。ただ、まだ授業でも、こっそり裏庭で行っている自主練習でもうまく出来た試しはない。
「うーん、何が違うんだろう」
地面に描かれた二つの魔法陣の前にしゃがみ込み、オルグは首を傾げる。
屋敷の訓練場で行われていた魔法の授業。魔法教師が地面に描いた魔法陣に魔力を込めると、きらきらとした青い光が溢れて虹が出現した。
しかしオルグが模写した魔法陣には、なんの反応もない。
「オルグ様の描かれた魔法陣は円の丸み、文字の配列共に完璧です」
魔法教師はオルグの魔法陣をじっくり見て、大きく頷く。
「じゃあ、なんで魔法が発動しないんですか?」
純粋な疑問に、教師は困ったように眉を下げる。
「オルグ様はまだ四歳になったばかりですからね。五歳で魔法の属性判定式を受けてから、覚醒する方がほとんどですから」
「それでも僕は早く、母様や先生みたいに魔法を使ってみたいです」
母がかつて見せてくれたのは、風の魔法だった。指先で空中に魔法陣を描くと、たちまちに緑色の光の残滓と共に優しいそよ風が吹き、オルグの頭を撫でた。
それまでも魔法道具によって魔法の存在は認識していた。でも初めて実際に目にした魔法に、感動したのを今でも覚えている。
「まだまだ時間はありますから。ゆっくり一つずつ覚えていきましょう」
「はい!」
その後もオルグはほかの勉強の合間に、魔法の教師や屋敷の書庫にある魔導書から魔法の知識を蓄えていった。
一度も魔法を成功させたことがないオルグだったが、トライアンドエラーを繰り返して、数多の魔法陣を覚えていく中である法則性を発見する。それが分かるようになると、少しずつ魔法の成功率も上がっていった。
拙いながらも風魔法や水魔法だけでなく、様々な属性の魔法を使ってみせたオルグに周囲の期待も高まり、神童と持て囃された。
そして迎えた、五歳の誕生日。オルグの生活が一変することになる。
(これは一体、どういうことだろう)
教会の神父に差し出された、薄く水の張ったお盆を前にオルグは頭を悩ませた。
今日は仕事で忙しい父、二年前に産まれた弟の世話がある母に代わり、祖父母と共に教会で魔法の属性判定式を受けに来ていた。
神父に言われるまま、自分の名を告げて、お盆の水に自らの血を一滴垂らしたところまでは良かった。ただ、その後の反応に、神父や神官たちも俄かにざわついている。
「いや、そんな……。でも、まさか……」
お盆の水を見て、戸惑いながら神父が呟く。
「いや、でも、そんなことが?」
「おい、神父よ。一体、何事だというのだ?」
ぶつぶつと自問自答を繰り返す神父の様子に耐えかねて、高圧的に祖父が声をかける。
はっとして顔を上げた神父は、困惑気味に眉を寄せる。
「申し訳ありません。私どもも、このような結果は初めて見るものでして……」
「どういうことだ?」
「こちらの水は特殊な魔力を練り込んであります。それにより、お孫様の血液と反応して、対応する属性の色に変わるはずなのですが」
オルグの血が混ざり、少し濁った水は強い光を放っている。ただ、それ以外なんの反応も示さない。色も変わらず、無色透明なままだった。
「それで、これはどういった結果だ?」
「ええっと、誠に申し上げにくいのですが……。お孫様は魔力の量はそれなりに多いようですが、その血と結びつく属性がないようです」
「つまり、どういうことです?」
神父の言葉に今度は祖母が尋ねる。
「お孫様は適正属性なし、となります」
神父が言い切ると、祖母は訝しげに眉を顰める。
「何かの間違いでは? この子は拙いながらも多種多様な魔法が使えるのですよ?」
「いや、しかし、この反応を鑑みるに、そうとしか……」
「そんな……」
額の汗を拭いながら返す神父に、祖母は言葉をなくしてオルグを見下ろした。
オルグは真っ直ぐに神父を見る。
「属性なし、とは、どういうことでしょうか?」
「本来、魔法は自身の持つ魔力と親和性の高い属性の魔法元素を取り込むことで、発動されます。属性は地水火風、雷のほか、特殊なものとして光と闇がございます。オルグ様の持つ魔力はどうやら、そのどれにも属さないようです」
「つまり、僕は本来、魔法は使えない、ということになるのでしょうか」
眉を寄せてオルグが聞くと、神父は困り顔で頷く。
「はい。その通りでございます。もし、今、仮に魔法が使えるとしても、それ以上の発展性はないでしょう」
(じゃあ、僕の使う魔法ってなんなんだろう。確かに、アプローチの仕方はちょっと違うかもしれないけれど……)
オルグがここ一年の間で使えるようになったのは、初級魔法よりも一歩手前の、現象そのものを起こすだけの魔法だ。水や火、風や土をその場に出現させることができる。
最近、日頃の研究の成果もあり、雷の魔法も使えるようになった。
首を傾げるオルグは、不意に冷たい視線を感じて顔を上げる。
「お祖父様?」
オルグを鋭く睨む祖父と目が合う。その瞳には、蔑みの色が滲んでいる。
「よもや貴様が、こんな無能だとは」
祖父の静かな口調の中には、確かな怒りが込められていた。
初めて祖父から向けられた感情に、オルグは驚いて目を見開く。
「我が侯爵家の面汚しが」
祖父は吐き捨てるようにそう言うと、踵を返して教会を出ていく。
オルグは慌てて神父にお辞儀をすると、祖母と二人で祖父を追いかける。祖父が乗った侯爵家の馬車は、オルグが乗り込む前に閉じられてしまう。
「バルカン! あの子はまだ、子供なのですよ!」
「あのような痴れ者など知らん」
その時は、どうにか祖母の説得もあり馬車に乗ることはできた。しかし、その日から、侯爵家の中でオルグの存在はないものとなる。
それまで使っていた本邸の部屋は弟に明け渡されて、庭の外れにある離れに押し込まれた。屋敷の外に出ることは許されず、家族との食事も取れなくなる。
オルグの世話をするものも外され、屋敷の者たちは皆一様に、オルグなどいないかのように振る舞う。
家庭教師たちも任を解かれ、弟に挿げ替えられた。祖父の差配で行われていた後継者教育も打ち切られる。
そうして五歳にして突然、オルグの離れでの一人暮らしが始まった。しかし、前世を覚えていたおかげか、生活面では幸い、苦労することはなかった。
時々、ささやかな食事や食材も離れの軒先に置かれていて、最低限の食べ物も確保できた。
今までの環境から一変したものの、それでも母と祖母の態度は変わらなかった。
母は時折、弟も連れてふらっと顔を覗きに来てくれた。その一方で、祖母は祖父の手前、表立っての手助けはしてこなかった。
それでも二人が祖父に掛け合ったことで、屋敷の書庫だけは今まで通りオルグも使えるようになった。
家庭教師たちの授業がなくなり、ぽっかりと時間の空いたオルグはそれまで以上に書庫に閉じこもるようになる。
書庫に保管してあった魔導書や魔法関連の本を読み漁り、一年も経たない間に全てを読み尽くした。
魔法について、周りを気にせず実験できる自由な立場は、オルグにとっても悪いものではない。
本で知識を吸収しながら実践を繰り返し、検証をしていく。
オルグは大好きな魔法のことだけ考えて、のんびりと日々を過ごしていった。