幕間(1) 父、転生す
ふわ、とした浮遊感の後に訪れたのは、窮屈な閉塞感。
(娘は、瑠花は無事か?)
最後に見た娘の姿が頭に浮かぶ。
確認しようにも、身体は自由に動かない。目を開けることも出来なかった。
ただ、周囲が真っ暗であることだけは、何となく分かる。
狭くて暗い空間が、ただひたすらに続いている。
(ここは、どこだ?)
不意にぼんやり広がる暗闇の先に、明るい光が見えた気がした。
それが何か考える暇もないまま、ずるりと外に引き摺り出された。
◆◆◆
薄暗い山道を一台の軽自動車が走っていく。
慎重にハンドルを操作して峠道を下っていく男性の隣で、少女は携帯ゲーム機でゲームをしていた。
その視界を、時折、ふ、と対向車線の車の明かりが掠めていく。
「瑠花。見てごらん。凄い夜景だよ」
何度目かのカーブを過ぎた後で、男性が少女——瑠花に話しかける。
その声に、瑠花も顔を上げる。
「……わあ、ほんとだ。きれい!」
不意に飛び込んだ山間の景色は、天の川の朧げな光の下、ちかちかと街明かりが瞬いている。
「あ、お父さん。見て見て。こっちも、すっごいよ!」
一瞬木々に隠されて、また覗いた夜景に瑠花ははしゃいだ声をあげる。
「ああ、本当だ。とても綺麗だね」
瑠花の様子に小さく笑って、窓の向こうに広がる風景をちらりと見る。
すぐに視線を前に戻すと、ゆっくりカーブを下っていく。
娘の瑠花と二人だけの家族旅行。いつからか妻の命日に行くようになった、その帰り道。
男性はブレーキを軽く踏み込んだまま、丁寧にハンドルを動かしていく。
ルームミラー越しに瑠花を見れば、いつの間にかゲームを再開していた。
「こんな中でゲームをして、気持ち悪くならないかい?」
「うん。大丈夫」
心配になって男性が声をかけると、瑠花はゲーム画面から視線を離さないまま返す。
(それなら車が大きく揺れないよう、このまま安全運転を心がけていこう)
ハンドルを握り直し、そう決意した直後。道路脇から何かが飛び出してきた。
「! うわっ」
咄嗟にハンドルを切ると、車が大きく横揺れする。
弓なりに流れるヘッドライトが照らした先。ちらっと見えたのは、驚いて立ち止まる一匹の鹿。
「お父さん! 前!」
慌てた様子の瑠花の声に顔を向ける。飛び込んできたのは、トラックの白いヘッドライト。
男性は急いで反対方向にハンドルを切る。
キイィッ
甲高いブレーキ音が響く中、ずどん、と車体の横から衝撃を受ける。
その直後に、ぼふん、と開くエアバッグ。がしゃん、とフロントガラスが飛び散る。
じくりと燃え上がるように、身体中が一気に熱くなる。上手く呼吸ができず、息が苦しい。
(まずは、瑠花を、外に出さないと……)
男性は首を巡らせると、痛む体に鞭を打って助手席の方に身を捩る。
車から漏れたガソリンに引火して、発火する可能性もある。
ひとまずは瑠花を助け出そうと、シートベルトに手をかける。しかし、その手は少しも動かせない。
それならせめて声だけでもかけようと口を開く。
どろりと赤い血が吐き出されただけで、肝心の声が出ない。
ぬろりとした感触が、口元や腕だけでなく、全身を伝い落ちていく。
車内には、ガソリンと鉄臭い匂いが充満していく。
(瑠花……)
急速に視界が狭まっていく。いつの間にか、息苦しさも感じなくなった。
身体中が麻痺したように動かない。もはや、熱いのか、痛いのかさえも分からない。
(瑠花……瑠花は無事か?)
霞がかっていく視界の中で、必死に瑠花の姿を捉える。
頭から血を流して、ぐったりと眠るように目を閉じている。
(せめて、瑠花だけでも……)
世界が白く染まり、瑠花の姿も見えなくなる。
ああ、でもどうか。娘だけは無事でありますように。
『————』
瞬間。大きな何かに、掬い上げられたような気がした。
◆◆◆
ふ、と目を開くと、見慣れないアイボリーの天井がぼんやりと視界に入る。
天井近くでは、ポップな傘の下、きらきらとした粒子を振り撒くカラフルな星がくるくると回っている。
空中に浮かぶ色とりどりの星には、星同士を繋ぐ糸も、天井からぶら下がる紐もない。
暗闇から引き摺り出された先にあったのは、どこか知らない世界。
そこで男性はどうやら、何者かに生まれ変わったらしい。
(……これが、異世界転生というやつか)
空中で動いているおもちゃの原理も動力も分からず、これが魔法か、と結論付けたのは昨晩のこと。
異世界転生系の話は、小説も漫画もアニメもひと通り嗜んではいるが、まさか自分が体験するとは思わなかった。
(異世界転生なんて、本当にあるんだな)
どこかアンニュイな気分を感じながら、男性(0歳)はくるくる回る星を眺める。
先程からどうも背中に冷たさを感じて、寝返りを打とうとしたが上手くいかなかった。
狭い暗闇を抜けて、この世界に転生してからは、満足に体を動かすことさえも出来ていない。
目を開けることができたのも、ようやく昨日になってからだ。
前世を覚えているからといっても、体の成長スピードはそう変わりはないらしい。
「うー、あうー」
どうにか、ひんやりと湿っぽい背中の不快感を伝えようと声を上げる。
「ぎゃあ、おぎゃあ!」
それはすぐに自分の泣き声に変わった。
「あら、どうしたの? オルグ」
ぼやけた視界の先に、ブロンドの髪とグリーンの瞳の女性が飛び込む。柔らかな女性の声に、オルグはなぜかひどく安堵した。
「あー、うー」
女性が指を差し出してきたので、反射的にぱっと掴む。ふわりと、女性に抱き上げられる。
「あら。おしょんしょんしちゃったのね」
ゆらゆら身体を揺らしながら、女性が笑いかけてくる。
「奥様! そのようなことは、私どもがやりますから!」
「オルグは私の子供よ? 自分の子供の世話くらい、自分でやらせてちょうだい」
慌てて駆け寄る乳母を女性が制止する。
乳母に構わず、女性はオルグを抱いたままベッドの側に移動する。その振動が心地よく、次第に眠くなってくる。
(瑠花は、無事だろうか)
妙に安心感のある女性の腕の中で、かつて手を伸ばそうとも出来なかった、娘の姿を思い出す。
(それとも、僕と同じように、どこかに転生しているのだろうか)
女性にオムツを変えてもらいながらそんなことを考えていると、自然と瞼が落ちてくる。
(ああ、でも、どちらにしても。瑠花が、幸せであれば……)
どうにも抗いがたい眠気に身を任せるまま、オルグはそっと目を閉じた。