雲丹と白子
あのデカい部長が縮こまってるのは面白いのだが、あのキーキーとした甲高い声は耳に触る。外回りの車の中でやってくれたらいいものを何故わざわざ会社に戻ってからやるのか。。。
「昼間はあんな怒り方してごめんなさい」
席が目の前の同期がわざわざ内線をかけてふざけてくる。
「今日は寝かさないぞ」
こちらも得意な部長の物まねで返してやる。
この同期は仕事は大してできないし、卑屈だし、年下には偉ぶるしと人としてどうかと思うところばかりで、好きか嫌いかで言ったら嫌いな部類だったのだが、今はなぜか一緒に暮らしている。
何を血迷ったのかファミリータイプのマンションを買ったというものだから、部屋がどうせ余ってるだろうとなかば強引に家賃4万で住まわせてもらっている。
一緒に住み始めたらますます嫌な所が目につくのだが、家賃4万で都心の分譲マンションに住めるのはそれを補って余りあるメリットがある。
でもネクタイをリビングのドアノブにかけるのは本当に止めて欲しい。
部長は結婚していて、たしか子供も2人いるはずだ。
ザ・キャリアウーマンな専務はおそらく仕事と結婚したのだろう。でもこの二人が付き合っているのはほぼ間違いない。朝同じ社用車で出勤してくるのが何度も目撃されているし、外出する時もいつも一緒だ。
うちの会社は最終的に社長のOKがもらえないと商品化できないが、課長、部長、専務、社長と全員のOKを順番に取っていかないといけない。決して飛び級は許されない。
まずは課長に提案して、指摘された箇所を直したら、課長と一緒に部長に提案しにいく。部長に指摘された箇所を直したら、部長と課長と一緒に専務のところへ提案しにいく。専務に指摘された箇所を直したら、最後は全員で社長へ臨むのだが、社長に指摘されたところを直したら一番最初に自分の考えたプランとほぼ同じなんてことはざらにある。
なんと無駄な仕組みと思うのだが、基本的には専務と部長は一緒にいるからここの決裁はじつは基本1回で済むのだけは有難い。いつまでも仲良く付き合っていて欲しい。なんなら社長とも付き合ってしまえばいいのに。
しかし今日の専務の怒りは長い。
ほとぼり冷めたら、今日は仕方ないから別々でOKをもらいに行くかと思っていたが、まだ部長は立たされて説教くらってる。もしかしたら車の中で専務を奥さんの名前でうっかり呼んでしまったのかもしれない。以前自分も元カノの名前で読んでしまい大泣きされたことがあるがあれは確かにまずい。ただただ謝る以外には術がない。だとすると今日の決裁はもう諦めたほうがいいかもしれない。
せっかく課長の機嫌がよい時を見計らって、最小労力でOKを取り付けたので今日は勢い社長決裁まで行けるのではと思っていたがとんだ伏兵だ。
もう夜のプレイで専務の機嫌が明日よくなってくるのを祈るしかない。
「お前なんで今それやってるんだ!!」
係長が急に怒鳴ってきた。専務に当てられたのか?
私はとにかくこの係長が苦手だ。
実は専務と部長には気に入られてるので普段は関係が良好なのだが、こいつとだけは合わない。
なんで俺がいまこの仕事をやっているかと言えば、あんたに30分前にやっておけと指示を受けたからなのだが、そんな反論したところで、さらなる雷が落ちるだけなのは目に見えている。
怒りっぽい人ではあったがここまで理不尽な怒り方をする人ではなかった。どうも社長との噂が立ち始めたあたりから、おかしい。どいつもこいつも女の尻にしかれやがって腹が立つ。
私の机の引き出しにはいつもこの係長が好きなブルボンのお菓子シリーズが取り揃えられている。おべっかのためだ。普段ここまで気を遣って円満な関係を築こうとしているのにいつも訳の分からん癇癪で容易に崩される。
社長早く帰ってきてくれ。
社長が社内にいる時には至って大人しいのだ。今度録音取って社長に聞かせてやろう。
しかし、いつもならうまくやり過ごすのだが、決裁プランが崩れてがっかりしていたので少し心に余裕がなかったのだろう。感情が顔に出てしまっていたようで、係長の火に油を注いでしまった。
「これやっておけって言っただろう!!!!」
社長の愛人はそんなに偉いのだろうか、俺のブルボンさっきもむしゃむしゃ食いやがって、せめて機嫌よくなっておけ!食われ損じゃねーか!
なーんてことを心の内で悪態ついていたら、なんかもうむしゃくしゃしてきて、
「そんな指示は受けていませんし、今やっているこれをやっておけと先ほど指示受けたからやっているんです。疲れてますか?」
もうなんか日本語なのかわからない聞き取れない言葉を発しているが、この人もストレスたまってるんかなとか考えていたらちょっと面白くなってきた。
「なになに?どうしたよ?本当に仲悪いなーお前らはー」
いつの間にか専務の説教から解放されていた部長がやってきて、ふいに優しい言葉をかけてくるものだから、緊張の糸がプツンと切れてしまった。
社会人5年目にしてはじめてオフィスのど真ん中だというのに嗚咽がこみあげてきてしまった。
会議室に連れていかれ、事の一部始終を、鼻水をティッシュでかんで泣きじゃくる小学生さながらに事情聴取を受けていたら、タイミング悪いことに外出先から社長が帰ってきた。
うちの会社の会議室は出口付近に並んでいてほぼガラス張りの丸見え仕様だ。
取引先との打ち合わせなどはまた別の部屋があるのだが、この社内用会議室は出ていく人、帰ってくる人から丸見えなのだ。
「なに泣かすほど叱ってるの???」
社長が部屋に入ってきて、部長を諭す。
もう恥ずかしいったらありゃしない。部長が一生懸命事情を説明している間に嗚咽も涙も鼻水もおさまった。
「部長おさまったので、新商品プランチェックいいですか?」
明日もまだ2人が険悪だった場合を想定して、せめて今日のうちに部長のOKは取っておきたい。慰めるモードになってる今の部長ならちょちょいとOKもらえると踏んだのだ。
席に戻るとパソコンのところに『冷蔵庫にプリンあるよ』と付箋が貼ってあった。
普段はがさつなくせにこういう時はベストな選択をしてくる。
同期よ今晩はやけ酒だ。
プリンは甘くてしょっぱかった。プッチンなやつじゃなければなお良かった。
うちの会社のビルの地下には大きな駐車場があり、社用車が何台か置いてある。
社長は運転手付きでなんかいかつい車に乗っている。
車の種類は詳しくないのでよくわかっていないのだが、社員用はその色の違いでそのまま呼ばれていて、黒、紺、白、銀の4台だ。
同期が買ったマンションは、最近流行りの湾岸地帯で会社からは電車で30分くらいなのだが、最近私たちは夜遅くなった時に社用車の銀をせしめて帰るようにしている。もちろん翌朝はいつもよりちょっと早く出社しなければならないのだが、車だと半分の15分で着くので疲れている時にはついつい拝借してしまう。まだ一度もバレてはいないはずだ。
いまだ充血した目の私は、「銀、酒」と近くの課長にすら聞こえない小さな声で同期の内線を鳴らした。もちろん社用車の銀で帰り道にコンビニ酔って酒を買って帰るぞという意味だ。
「揚げ出し豆腐が食べたい」
「いやいやコンビニにはなかなかないって」
「揚げ出し豆腐がないと、今日は癒されない!」
結局3件目のコンビニでやっとこ見つけ、大量に買い込んだビールやらをテーブルに並べスーツのまま宴会をスタートさせた。
「だからそこにネクタイかけるなって」
「今日は大変でしたなー。泣くとは思わんかった」
「だからネクタイ!」
「よしよし!飲め飲め」
「くそーーーー、バカップルどもめえええ!!!!」
今日はやはり酒が進む。そして同期がいつになく優しいもんだからますます酒が進む。
「そうだ。今日プリンありがとう。せっかく泣き止んで戻ったのにまた泣いたわ」
「だろう?」
勝ち誇った顔がまた憎たらしい。
翌日はうってかわって専務の機嫌がすこぶる良かった。ナイスプレイだ部長!
午前中のうちに専務OKも取れ、午後に全員でいくつかの新商品プランを持って社長と打ち合わせをすることになった。
社長は専務の2つ年上だが、前の会社では専務が上司で社長が部下という間柄だったらしい。
独立する社長が上司だった専務に声をかけて2人で立ち上げたのがこの会社だ。
まだ10年経っていないのに今は社員数が70人超の業界では一番勢いのあるアパレルメーカーとして有名だ。
社長が主に店舗開発や店舗運営を担当し、専務が商品開発という棲み分けができている。もちろん新商品も最終決裁は社長なのだが。
私たちも商品開発担当だが、年末など書き入れ時には店舗に入り販売を手伝ったりもする。
元は大型店の店長をやっていた同期はヘルプに入るといまだ誰よりも売上をあげるものだから、常に惜しまれつつ帰ってくる。なぜ商品開発に配属になったのかいまだによくわからない。
世の中には適材適所というものがあると思うのだ。彼は間違いなく店舗が適所のはずなのだが、本人の強い希望で商品開発に異動してきた。
私はといえば店舗に異動となれば辞める覚悟ができている位には販売は苦手だ。
他人が何を考えているかなんてわかりようがないし、わかろうとも思わないし、わかろうとするのは失礼なことだと思っている。だから何も知らない他人に自社の商品であれ薦めるというのは傲慢だとすら思うのだ。
同期に以前、どうやったらそんなばかすか売れるのか、飲んでるときにさほど興味もないくせに聞いてみたことがある。
「相棒になっちゃうことだねー」
私が今にも寝てしまいそうな顔をしていたので同期が言葉を繋げる。
「要はねー、お客さんの中身を聞くことなんだよ。あれだよ!お客さんはドリルが欲しいんじゃなくて穴を開けたいだけってやつ」
たしか商品というのはあくまで何か解決したいことがあった上での手段なだけなので(ドリル)、お客さんが本当に解決したいこと(穴を開けたい)をちゃんと聞き出すことがコツというやつだ。
うちの商品であれば、パーティでモテたいのかもしれないし、人生ではじめての冠婚葬祭に臨むのに失礼がないようにしたいのかもしれないし、初デートの勝負服が欲しいのかもしれないし、、、、
このようなお客さんの中にある本当に解決したいこと(ニーズ)を聞いてあげて、じゃあこの商品で解決できると思うと提案すると、もう同じ悩みを解決しようとする相棒みたいな感じになっているので、当たり前のように買ってくれると言うのだ。
なるほどそりゃ売れそうだなとは思うが、そんなマジシャンみたいな芸当を誰もができると思わないで欲しい。そもそもよく自分の恥部のような心の話をこんないかにも口の軽そうな男に話すものだと感心してしまう。
プリンでも配ってるのかもしれない。
昼過ぎに社長が会社に戻ってきた。
パンツスタイルが多いのに今日は珍しくスカートをはいている。
同期はそれを見た瞬間駆けよって、
「社長!スカート珍しいっすね。今日は伝家の宝刀の女の武器を使ったんですね?」
お前うそだろう・・・
このご時世に女の武器という言葉もそうだが、そもそも社長相手にその言葉遣い、江戸時代なら打ち首もおかしくないのではなかろうか。
「たまに使っておかないとサビつくしねー。まだまだ有効な時があるのよー」
なぜか社長も乗ってくる。いいんですよそんな奴バッサリいっても!
「じゃああの物件契約できそうなんですか?」
「ふっふっふー。まだわからないけど行けると思うなー」
こんな対人距離ゼロメートルの会話は聞いてるだけで脈が速くなってくる。この二人はどうも同類のようで馬が合うようだ。当然私はこの社長も苦手である。
午後の社長との打ち合わせは順調に終わった。
今日はちゃんと電車でと帰り支度をしていたら
「飲み行こうか」
と社長から声がかかってしまった。
我が社の不文律の一つ、社長に誘われたら全ての業務を投げ出してでも参加すること!
マンツーマンなら死ぬと思ったが、専務も一緒のようだ。どちらにしろ死んだか。
いつもはこういう時に頼りになる同期が今日はいない。大学時代の友達との飲み会があるとかで早めに会社を出てしまっていた。
せめてあの係長がいた方がと思ったがそういえば今日は体調不良だかで朝から休みだった。まさか私を係長の代わりに・・・でもそれなら専務は同席しないか。
連れていかれたのは高級そうな寿司屋。
私は明日死ぬとなったら最後にはフグの白子を食べたいと常日頃思っているので、メニューに見つけた時はすこし顔が上気してしまったかもしれない。
専務は私と似たタイプであまり多くを語らない人だと思っていたが、社長相手だとここまでしゃべるのかと驚いた。やはり数々の困難をともにしていると打ち解け方が尋常ではないのかもしれない。
コースなのかおまかせなのか次々と色々な刺身や、つまみや、お寿司が出てきて、お酒もけっこう進んでから、好きなものあれば追加で頼んでいいと社長が言うので、遠慮せずもちろんフグの白子を注文した。
「へー珍しいわねー。私の勝手な統計によるとね。男性は雲丹が好きな人が多くて、女性は白子が好きな人が多いのよ!やっぱり雲丹は卵巣で、白子は精巣だから関係あるんだと思うのよねー。って私も雲丹の方が好きだけどー」
社長が言い終わるや否や、専務が、
「どうしたの???大丈夫???」
と、もの凄い心配した顔で私の顔を覗きこんでくる。
ここまで自分の感情が渦巻いて、表情をおさえきれなくなったのは産まれてはじめてかもしれない。後で聞いたら苦虫をかみつぶしたような、また今にも泣き出してしまいそうなそんなぐちゃぐちゃな顔をしていたようだ。
お酒に急に酔ったことにしてその場は取り繕ったつもりだったが、お開きになって帰ろうとした時に専務が家まで送るよと一緒にタクシーに乗ることになった。
「お店でのあの時、なんだったの???あれはお酒ではないと思ったから気になって・・・」
同期や社長のような図々しさではなく、本当に心配してという気持ちが伝わってきて、つい対人距離ゼロメートルを許してしまった。お酒にも酔ってたし。
「男性が雲丹、女性が白子好きが多いという話が・・・」
「え?逆だと言われたから?私も女だけど雲丹の方が好きよ」
「・・・私、女なんです」
「・・・・・・・・え・・・・??」
そうだろう。私は誰がどう見ても男だ。男の見てくれだ。なんならちょっと一般男性よりもがっしりしてる。
「そ、そうなんだ。それは驚いた。そうか!という事は何かそれを言い当てられたような気がしちゃったからだったのかー」
専務らしい、絶対に地雷を踏まないように最新の注意を払って言葉を選んでくれているのがわかる。こんな時社長や同期だったらどこまでずけずけと入ってくるのだろうと怖くなる。
「いえ、それも違うんです。」
「理解できないと思いますが、私こんななりしていますが中身は女なんです。専門的な言い方をすると性自認が女なんです。自分では女だと思っているんです。そしてここからさらにややこしくなるのですが性的指向は女性なんです。つまりレズなんです。だから自分としては女の私が同性の女性を好きになっているだけなのですが、外見がこれなので世間一般の人からすると普通に男性が女性を好きになっているとしか見えません。。。」
専務の方は見ることはできなかった。長い無言の時間が流れていった。
運転手さんは聞こえていたのかな。驚いて事故にならなくてよかった。
もうじき自宅という時になってようやく専務が口を開いた。
「思いがけずカミングアウトを促すような事をしてしまってごめんなさい。明日にでももう一度社長と一緒に時間をもらえる?社長には私から勝手に話すことは絶対にしない。でもあなたのためになると思うから」
同期はまだ帰ってきてなかった。
またこんな泣きはらした顔をみられなくてよかったと思った。
あくる日、仕事後に専務の家にお邪魔することになった。もちろん社長も一緒だ。
クビかな。なんでこれまで誰にも言わずに来たのに言っちゃったのかな。
別にそういうつもりじゃなかったけど、同期と一緒に暮らしだしてなんか知らず知らずのうちに弱くなってたのかもな。
係長も社長と噂になってから情緒不安定だし、そう考えると部長が実は一番強いのかな。なんてことをずっと考えていたら気付けば専務の家のリビングのソファに座っていた。
「で、二日連続で何の話し合いなの?」
社長が口を開いた。私と同様に何も聞かされず専務に連れられてきたようである。
「あなたのカミングアウトに対する私の精いっぱいの誠意を見せたいと思って、今日は来てもらいました。」
社長が訝しそうな顔をして私と専務の顔を交互にのぞき込んでいる。
「私ね、実は、」
「ちょっと待ってちょっと待って!」
社長が急に割って入ってきた。
「え?ちょっと待って。嘘でしょ?今話そうとしてる?」
「うん」
「なんでなんで?うそでしょ?」
「多分大丈夫だから、お願い」
「いやいやいやいや」
専務が諭すように社長の顔をじっと見つめていると、何か社長は観念したような、もうどうなっても知らないとでもいうような態度で、欧米人が両手を広げて肩をすくめる大げさなジェスチャーをした。
「私ね、実は、社長と付き合ってるの」
「ふ;ぇ??」
おそらく口ではない別の器官から声が出たと思う。
「私はねレズなの。そしてあなたの言葉を借りればこの人は性自認が男性で性的指向が女性なのよ。」
「hだあはぁぁ」
また別の器官から声が漏れた。たぶん鼻水とかも出てたと思う。
「そう言われてみるとさ、この人どこか男っぽくなーい?」
首がもげそうな程頷いていた。
社長は真っ赤な顔をして、ひどく困惑した顔で、もうどうとでもなれとソファに引っくり返った。
私は出していただいていたお茶を飲み干した勢いで、
「専務、ビールいただいてもいいですか?」
専務はにっこりと笑って、350ml缶のビールを持ってきてくれた。自分では買わない高めのやつだった。
それを一気に飲み干して意を決した私は、社長に昨晩と同じようにカミングアウトをした。
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
なんでもここまでストレートに感情を表現できたら気持ちが良いだろうなと笑ってしまう。
そこからはもう無礼講。
なぜ2人が付き合うようになったのか、お互いなんとなく察知したのか、何もカミングアウトしないまま告白をしたのか等、私の堰を切った興味は尽きることなく質問攻めを繰り返した。
自分が人と違うことを認識しだした小学校高学年から今に至るまでもちろん親にも誰にも話したことはなかった。何人か付き合ってきたけど流石に打ち明ける勇気はなかった。
27年分のたまっていた欲求を全て満たそうと話に夢中になった。
本当に人のことを知りたいと思ったらこんなに聞くことができるのだと自分で自分に驚きながら。
何度も何度も泣きながら。
「専務、社内ではもう周知の事実レベルで専務と部長が不倫関係にあると思われているのですが・・・」
「あれはねー、むしろ私たち2人の関係を隠すために良いかと言い訳せず放置してるの。する訳ないじゃん子持ちだよあの人。奥さんラブだし。」
「でもけっこう黒で一緒に出勤して来るのが目撃されていますし・・・」
「だよねー。私さー本当に朝が弱くてさ、家で1人の時は寝坊しちゃうのよ。だからたまに近所だから迎えに来てもらってるだけ。立場上遅刻とかできないじゃない?だから彼には申し訳ない事になってるなーとは思ってるんだけど、もう彼とも付き合い長いから諦めてもらってる。あ、社内では彼だけ私たちの関係は知ってるの。あとはあなたね。」
こんなに驚くことはもう死ぬまでやってこないだろうと確信できる日だった。
もう部長の声真似して茶化すのはやめよう。
係長はただイラチなだけだった。
社長と同期が馬が合う理由もわかったし。
その日は専務の家に泊まらせてもらい、翌朝3人一緒に車で出勤した。部長のお迎えの車で。
部長はいつもの5倍増しに男前に見えて眩しかった。
心の中で何度もこれまでの非礼を詫びた。同期にも詫びさせたいが流石にこの話はできないか。
ほどなくして私は異動願いを出し、店舗に異動となった。
あの日から憑き物がとれたように、人に質問ができるようになったのだ。
質問ができるようになったというか、他人への興味が尽きなくなってしまった。
見かける人、見かける人、どんな人なんだろう?朝ごはんは食べたのかな?彼氏彼女はいるかな?どんな悩みがあるのかな?と頭の中をクエスチョンが渦巻くようになってしまった。
飲んでる時に同期にそれを伝えたら、じゃあ店舗で販売やったらいいよと。
そしてお客さん達の数々のニーズを浴びに浴びて解決して解決して、それでも今の自社の商品では解決しきれないニーズがたまってきたら、商品開発に戻ってきたらいいと。
「俺はだから商品開発に異動させてもらったんだ」
そうだったのか。同居人のそんな大事な動機すら聞く気も知る気もなかったんだな自分は。自分の小ささと比べて、単なる口の軽い男と思っていた同期が急に大きく見えた。
それからというもの接客をするたびに、驚きの連続で、毎日が刺激的だった。
自分達の商品がこんなに様々な目的で購入されていたことも知らなかったし、同じ商品でもまったく違うニーズを満たすために購入されていく事も。
そして何より驚いたのは、ちゃんと興味を持って真摯な態度で聞けば、ほとんどの方がとくに嫌がることなく少しだけ隠しておきたいような自分の解決したいニーズを教えてくれることだ。
そしてかつて同期が言っていたように、お客さんのニーズを聞き出すことができるようになると驚くほど売れる。お客さんの悩みを一緒に解決する相棒になる感覚がわかってからは、もう仕事が楽しくて仕方がなかった。
しばらくは商品開発に戻る気がない私は、こういう商品があったらもっとお客さんの悩みを解決してあげられる、もっとニーズを満たしてあげることができると商品開発部へのフィードバックを繰り返した。
まあ家に帰って同期に伝えるだけなのだが。
そんな私のおかげで(笑)、同期はヒット商品を多く開発し、私は売上低迷している店舗を店長として立ち直らせるために半年周期で店舗をかわる生活になった。
同期の家には半年に一度くらい遊びにいくくらいになった。
ネクタイはたっぷりドアノブにかかっている。
ありがたいことに専務や部長からはたびたび商品開発への出戻りを打診されているが、27年間殻に閉じこもっていた私の人間への欲求はまだまだ満たされていない。
それよりも今は社長と一緒に、新店舗開発や店舗運営に関わっている方が楽しくて仕方がない。
社長と専務とはプライベートでも仲良くなり、時々、いやしょっちゅう相談を受けるようになっている。お互い相手の愚痴だ。
でも3人で決めたルールがある。
必ず3人一緒にいる時しか愚痴らないこと。個別に相談をしないこと。
社長の家か専務の家の時にしかしないこと。
もう最近は2人が愛おしくてたまらない。
性の問題をうちに抱えながら、微塵も見せず仕事に打ち込む2人が仕事中は神々しくさへある。
その反面で、3人の時だけに見せるあの甘えた仕草は、私の宝物だ。
「じゃあもう別れてしまって私と付き合いましょう!」
「いやーーー男はいやーーーーーー」
「私、中は女ですって!」
「いやーーーー、じゃあなんでそんな筋骨隆々なのよーーーーー」
最近改めて調べてみると、私や社長のような性自認が外側の性と違う場合、外側を内側に合わせにいきたくなる人の方が多いらしい。
そうなると当然大掛かりな手術やホルモン注射が必要になるわけだが、幸いなのか私は外側の男のカラダに違和感や嫌悪感を感じたことがない。
女だと思っているのだが、自分のカラダはまぎれもなく男で、なんなら筋トレは欠かさないのでその辺の男子よりもがっしりしていると思う。
当然男子のそれがついているが、なぜか嫌だと思ったことがない。
「私は男のカラダが欲しいと思うことはあるわよ」
社長は嫌悪感は抱かないが、違和感はあって、男のカラダへの憧れもあるようなので、やはり私とはまた違う。
ではお金もまあまあ持ってる社長がなぜ手術に及ばないかと言えば、専務と付き合ってるからだ。
きっと今後も手術に及ぶことはないだろう。あの2人が別れるイメージはとんと湧かない。
私にとっても、もはや大事な大事な2人なので、私が別れさせない。いくらでも愚痴を聞いてあげよう。
もう私は話の聞けない男ではないのだ。