2.天国と地獄地獄地獄
そよ風が頬に触れるのをくすぐったく感じながら重たい瞼をゆっくりと開ける。
そのまま天を見上げると青空の中で女神と天使がそれはもう楽しそうに微笑みあっていた。
あれ?私、もしかしてドアに挟まれて死んじゃった?
そうなると
「…ここは、天国?」
震える唇を微かに動かしてそう呟くと
「フッ、こんな最悪な天国あってたまるか。起きたのか?」
呆れたように、でも優しくそう返事が返ってきた。しかしその涼やかな声質には確かに聞き覚えがあり、ギギギギギッと油の切れた機械のように右を振り向けば、私は現実を目にした。
「なんだ、地獄か。」
思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。
でもそれも仕方ない。
だって私の休んでいるベッドの隣にピッタリと椅子をつけ楽しげに私を見つめるその美貌は、今1番見たくないものだったから。
「地獄とはなんだ、今まで俺の顔を見た女は皆必ず天にも昇る気持ちだと言うのだがな?」
私の地獄という言葉に大袈裟に目を見開いた後、本当に信じられないという表情でそう言い放つ美貌に、いやそりゃないでしょ!!とつっこみたい。
でもこの男の顔は陶器のように滑らかで、私が天国と見間違えた天井画の天使の様に、少し可愛げを残しながらしかし洗練された美しさであり、思わず何も言えずに息を呑む。
さらに甲冑を脱いで白シャツと紺色の細身のパンツスーツを着こなした美貌は、そこから見える腕も少しの胸板も足首も全てが滑らかで絹のような肌質だ。
甲冑でわからなかったが、舞台俳優のようなスタイルである。
そんな美貌の顎まで伸びた金色の前髪が不意にさらりと顔にかかる。それを顔に似合わない男らしい雑な動作でかきあげながら紫の瞳で私を見ている。
「見過ぎだ。どうした?まだ体が痛むか?」
本当に心配そうに眉間に皺をよせて瞳を揺らしてそう投げかけられた。
普通の淑女であればこんなの一眼で恋に落ちるだろう。
しかし私は普通の淑女ではない。この男からドアに挟まれて失神した淑女だ。いくらこの美貌で心配されても憎悪の方が断然勝る。
「いえ、ただあなたを殴りたいなと思って。」
私がガバッと起きながら笑顔でそう言うと
「フン、心配要らなそうだな。まぁ俺専属の医師に治療させ、アンタは3日も眠っていたんだ。そろそろ起きて仕事してもらわないとな。」
と言いながらスッと音も立てずに椅子から立つと、私の座るベッドにどかっと腰掛けた。
「は⁈な、なに⁈ていうかあなた誰⁈ここどこ⁈」
思わず防御がわりにその場にあった掛け布団を強く握り、ようやく起きてきた頭をフル回転させて当然の質問をする。
「俺はノアだ。ここは俺専用の医務室。久々に入ってみたがあんまり昔と変わらんなぁ。」
呑気にそう呟いたノアは辺りを見渡して私に擦り寄ってきた。
「ノ、ノア?あなた何が目的なの?そしてずいぶんお金持ちなのね?"あなたがドアで挟んで怪我した"踊り子をこーんなに立派な医務室で治療できるくらい。」
徐々に縮まる距離に手汗を感じながら恨み節を吐く。
私の握った布団も座っているベッドシーツもツルツルと滑らかで一等品だとすぐわかる。
「その件に関しては失礼した。あれは、まあ、事故だ。気にするな。」
「気にするな⁈」
本当にこの人勘に触ることしか言わない!!
怒りで思わずため息が出た。
なんだかあきれてきて視線をそらして周りを見渡すと、豪華な天国画に続くこの部屋の壁紙はシックな深い青で家具も全て豪華な作りで、埃ひとつついていない。
そしてとにかく部屋が広すぎだ。
この前まで壁紙すら貼ってない木目が目立つアンティークの控室でみんなでワイワイやっていたのに、なんでこんなところにいるんだろ?なんでこんなことに…。
意味がわからずに頭を抱えると身動きするたびに肌に触れる衣類の違和感にも気づいた。
自身の胸元を見遣ると、アンティークで着ていたサテンのドレスではなく、繊細な薄い紫のレースが幾重にも重なった上品なシルクのキャミソールワンピースを着ていた。
心許ない細い肩紐に肩も鎖骨も顕になった自分。
薄いレースがピッタリと張り付いたその姿は身体のラインを主張しており羞恥心を煽る。
アンティークは健全を売りにしていただけに男性の前でこんなに肌を露出したり身体のラインを見せたりしたことはない。
「な!なっ!なんっ⁈」
私は赤面しながらノアを睨むように言葉にならない訴えを投げかける。その慌てる私の姿を見て、
「ハッ、あぁー可愛い。可愛いな?舞姫。」
とノアは満足そうに美貌を歪ませた。その様子に私はまた頭が沸騰するのを感じて怒りと羞恥の目を向けた。
そんな私にノアは口角を下げながら真面目に
「わからないよな?なんでこんなことになったのか。かわいそうに。アンタは売られたんだよ。あの見世物小屋の女主人に。」
と私の肩まで伸びた髪を一筋掬うと真面目な顔で弄びながらそう言った。
「は?」
その言葉に固まった。脈が早まりガンガンと頭痛がする。
「俺が買ったんだよ。舞姫。」
そう言われた瞬間になんだか訳がわからないけれど急に泣きたくなった私は自身の右手に力を込めた。
売られた?ソフィアに?なんで???
次の瞬間ノアの美貌目掛けて思いっきり拳を振るう。この距離なら殴れる!!
パシッッ!!
静かな室内に乾いた音がこだました。
拳は宙でノアの大きな左手の中におさまっていた。
ハッとして急いで手を引こうとすると、ノアは私の右手を掴んだまま自分の方に引き寄せる。クンッと前にひっぱられて身体のバランスを崩した私はノアの胸元に顔を当てた。
ノアの厚い筋肉質の胸元に頬があたり、少し早いリズムを刻む鼓動を感じているとノアは小さく呟いた。
「殴ってどうぞ?俺に噛みつかれてもいい覚悟があるならね?」
そう言って左を向いて引き寄せた私の右腕に、自身の熱い唇を当てた。
「な、何を?!」
予想外の行動に真っ赤になりながら右腕を懸命に動かそうとするもびくともしない。
憎くて悔しくて泣きたくて目頭が熱くなる。その瞬間ー
ガリッ。
「あぁっ!!」
噛まれた痛みに思わず脱力した声を上げると、ノアは私の右腕についた歯型を愛おしむように舌で舐めながらこちらを見る。
「オトモダチの印だよ。今日から俺のオトモダチ。よろしく。俺に買われた可哀想な舞姫。」
と歪んだ笑みを見せて右手の歯型に長いキスを落とすとそう呟いた。