60 祈りと懇願
「……っ」
メアリは自身の手の甲を目元に押し付け、ふるふると無言で首を横に振る。
エドガルドはそれを見て、少し拗ねたような声音で言った。
「居ろと言っている」
もう一度首を横に振った。我ながら駄々を捏ねる子供のようだが、言葉を発したら声を上げて泣いてしまいそうだ。
「メアリ」
「っ、駄目、です。私は」
「……頼むから」
両方の手首が捕まって、隠していた双眸を暴かれた。
睫毛までぐずぐずに濡れたメアリの瞳を見つめ、エドガルドが真摯な声で言う。
「傍に居てくれ」
「――……!」
祈りにも似た懇願に、驚いて思わず息を呑んだ。けれどもエドガルドがそう願うことすら、それはメアリが強いたことだ。
「……いけ、ません」
メアリは泣きじゃくりたいのを堪えながら、エドガルドの頬に両手を伸ばす。
「それは、魅了魔法によるものです。どうかエドガルドさまの本当の御心を、大切に……」
言い聞かせる言葉を遮ったのは、エドガルドの思わぬ言葉だった。
「――魔法じゃない」
「え……?」
瞬きをして首を傾げると、エドガルドは変わらずにメアリの涙を拭ってくれながらこう言った。
「以前から違和感を覚えていたが、俺の疑念は正しかった。そもそも魔法が効かない俺に、お前の魅了魔法だけが効くはずもないんだ」
「ですが、エドガルドさまは確かに私に恋をなさって……」
戸惑いながら尋ねると、エドガルドがふっと目を眇める。
「そうだな」
「……っ」
そのやさしいまなざしに、メアリの心臓がどきりと跳ねた。
「お前を見ると、目が眩む」
「エドガルドさま……?」
「その声を、いつまでも聴いていたいと感じる。強く抱き寄せて、そのまま二度と離してやるものかという要求が湧く」
彼の頬に触れていたメアリの手は、エドガルドと指を絡めるようにして繋がれた。
両手をメアリの顔の横、シーツの上に押し付けられる。
無防備にエドガルドを見つめ、自由を奪われたまま状況を甘受しているメアリを眺めて、彼は目を眇めるのだ。
「――こうして触れているはずなのに、尚もお前が恋しい」
「……っ!!」
初めてエドガルドに出会った直後にも、まったく同じ言葉を告げられたのだと思い出した。
「お前が俺から離れると口にしたときに、自分の感情を鑑みて確信した。この恋慕が魅了魔法によるものではないと、俺自身が断言する」
「確信、とは……」
状況を飲み込めないままなのに、心臓が早鐘を打ち続ける。
「魅了魔法になど、掛かっていない」
メアリの瞼にキスをして、エドガルドがやさしく笑った。こんな表情で微笑む彼のことを、メアリは知らない。
「――最初から、狂おしいまでの一目惚れだ」
「……っ!」
そうしてエドガルドは、再びメアリに口付ける。
先ほどと同様すぐに離れたそれは、泣いているメアリを甘やかすかのような、そんなやさしいキスだった。
(魔法では、ないの?)
魅了の所為なのだからと言い聞かせて、エドガルドの傍にいるのを自制しようとした。彼にやさしくさせてしまうのも、全部自分の罪だと思っていた。
けれども他ならぬエドガルドが、そのことをすべて否定してくれている。
現実味のない感覚の中で、エドガルドの声だけがはっきりとメアリの耳に触れた。
「神にすら渡さなかった、俺の花嫁だぞ。……何処にもやらない」
拘束するように両手を繋がれているのは、逃がさないという意思の表れなのだろうか。
それなのにメアリを見つめる瞳も、囁く声音も、ただただ大切なものを愛しむかのような熱を帯びている。
「あとはただ、お前が頷くだけだ」
エドガルドが願うその声が、メアリの左胸を柔らかく締め付ける。
「俺の妃として、傍に居てくれ」
「……っ」
その祈りに、メアリが抗えるはずもない。
どうしようもなく嬉しくて、浅ましいと分かっているのに抑えられない。
「……はい」
必死の思いで頷いたら、大粒の涙が再び溢れた。
「一緒に、居させてください。エドガルドさま……」
「……当たり前だ」
そう言って、エドガルドは満足そうに目を眇める。
メアリの愛おしい人は、いつも冷酷で不機嫌そうな顔をしている。けれども本当はこんな風に、やさしい顔をして笑うのだ。
その表情に見惚れたら、もう一度口付けを交わしてくれた。
メアリはやっぱり上手く出来なかったものの、せめてそうされることが嬉しいのだと伝わるよう、懸命にエドガルドを抱き締める。
そうするとエドガルドは、深く溜め息をついたあとに、「この悪女め」と揶揄うように呟いたのだった。
***
第1部・最終話へ続く




