58 甘露の罪禍(第1部最終章・完)
ニーナはそう言って、寂しそうに笑った。ふらつきそうになったニーナを、隣のクリフォードがしっかりと支える。
「駄目だニーナ、贄になるなら私を。仮にも聖国の王太子だった身、今後はどうなるか分からないが……」
「っ、不要です!」
クリフォードの言葉を遮ったとき、ちょうどメアリを呼ぶ声があった。
「メアリさま! 見付けました、ご命令のものです!」
「受け取れメアリ、ぶん投げるぞ!!」
「シュニ、フラム!」
ふたりの大精霊たちが、メアリに向けてあるものを放り投げた。
夜会用に準備したメアリの鞄だ。天井に舞い上がった小さな鞄を見上げ、メアリは声を上げる。
「エドガルドさま! レデルニア神さまのお口を、氷魔法か何かで開けさせてください!」
「……!?」
エドガルドは胡乱げに顔を顰めたものの、すぐさまメアリの願い通りにしてくれた。
竜の口を開けるように、氷の魔法が迸る。メアリは鞄を受け止めると、その中身を取り出した。
「レデルニア神のお口にこれが入ったら、氷の解除を! いきますね、うんしょ……っ」
「待て、メア…………くそ!!」
『う、ぐ……』
物を投げるなんて初めてで、上手くいくかも自信がなかった。それでも渾身の力をもって、メアリはそれをレデルニア神の口に放り込む。
『っ、が……!!』
それと同時に、エドガルドが氷魔法を解除した。
氷が一瞬で砕け散り、竜の口が閉じる。その瞬間、レデルニア神が焼け爛れたような目を見開いた。
『…………!!』
「おい。お前が神に食わせたもの、あれはまさか……」
「はい、エドガルドさま!」
メアリの足元に散乱するのは、手のひらに乗るほどの飾り箱だ。そこから漂う甘い香りは、この夜会で悪女らしく振る舞うために鞄に入れて準備をしてきた、メアリの大好きなものだった。
「世界一美味しい、エドガルドさまお見立てのチョコレートです!!」
「…………」
夜会のホールが静まり返り、エドガルド以外の全員がぽかんとする。
エドガルドはその手で額を押さえ、深く大きな溜め息をついた。毒の影響が深刻なのか、眉間には深く皺が寄っている。
「やはり、神殺ししか手立てはないな」
「どうしてですか!? レデルニア神を殺さずに鎮めなくては、エドガルドさまを解毒する手段がなくなってしまいます!」
「鎮める方法がないだろう! 万が一こいつが回復しては、再びお前を狙……」
レデルニア神が呟いたのは、そのときのことだった。
『……あまい』
「!!」
先ほどとは違うざわめきが、ホールの中を支配する。
『あまい。……一体これは、これはなんだ……?』
「まさか……」
エドガルドが低い声で呟くも、ひび割れた声がぽつりと呟く。
『これは、甘露だ……』
「はい! レデルニア神さま」
神のお気に召したことがよく分かり、メアリはぱっと笑顔を作った。
「これはチョコレートと言いまして、とても素晴らしいお菓子なのです。美味しいでしょう?」
『菓子……?』
「ここにいらっしゃるエドガルドさまが、私に教えてくださったもの」
メアリは微笑み、エドガルドの手を自分からきゅっと握る。
「私が知る、最も甘い欲望の味です!」
「…………」
自信満々にそう告げると、エドガルドが再び溜め息をついた。
「エドガルドさま?」
「なんでもない」
そう言いながら、指を絡めるように繋ぎ返される。途端にこの状況が恥ずかしくなったが、レデルニア神はそれどころではない様子だった。
『……これは、うまいな』
「そうでしょう?」
『ああ。とてもうまい』
話している声とまなざしが、どんどん穏やかになってゆく。
『無垢で空っぽな祈りよりも。……罪に近い欲望の結晶に、こうも心が晴れるとは……』
大きな口が開いたかと思うと、あくびのような声が漏れる。レデルニア神が体を丸め、どんどん小さくなっていった。
大理石の床に残ったのは、小型で可愛らしい1匹の竜だ。
その竜がくうくうと寝息を立て、眠り始める。同時に、エドガルドの体から黒い靄のようなものが浮かび上がり、ゆらりと消えた。
「エドガルドさま! いまのはもしや、毒が……」
「……解毒されたようだな。レデルニア神が鎮まり、穢れが消えた」
「っ、よかった……!」
メアリは思わずエドガルドにしがみつき、額を彼に擦り寄せる。それを見ていたニーナとクリフォードが、呆然としながら呟いた。
「まさか……おふたりは、鎮めてしまわれたというのですか?」
「穢れた神を、殺さずになんて……」
それを聞いていた貴族たちが、安堵しきったように互いの顔を見合わせる。
「助かった、のか……?」
その事実を噛み締めた上で、彼らはわあっと歓声を上げた。
「邪神と化した神を鎮めたんだ! この国の未来の国王夫妻が、我らを守って下さった!」
「聖女メアリさま!」
「そして聖なる王太子、エドガルド殿下……!!」
「くそ。ふざけるな」
大騒ぎの中聞こえてきた言葉に、エドガルドは心底嫌そうに顔を顰める。メアリがそれを見てくすくす笑うと、エドガルドが不意に呟いた。
「この気配、兄が来る」
「お兄さまが?」
この騒ぎを聞き付けて、夜会のホールに向かっているのだろうか。エドガルドは当然のようにメアリを抱き上げると、ニーナとクリフォードに告げた。
「茶番に付き合ってやるのはここまでだ。責任を取るというのであれば、このあとの処理の方に死力を尽くせ」
「エドガルド殿下。この度は我が国の守護神が、かような騒動を引き起こしたこと……」
「ここまでだと言っただろう。謝罪も弁明も何もかも、俺にとってはどうでもいい」
「あの、お姉さま……!!」
ニーナがこちらに駆け寄ってきて、何か言おうと言葉を探す。けれどもそれは見付からなかったのか、彼女は不安げに尋ねてきた。
「……お手紙を書いても、いいでしょうか……」
「ええ、もちろん!」
「!」
メアリが迷わずに答えると、ニーナが泣きそうな顔をする。それでも嬉しそうに頷いてくれたのを見て、メアリは微笑んだ。
「またね、ニーナ。クリフォード殿下、後はよろしくお願いします」
「行くぞ。メアリ」
クリフォードの返事を待つことなく、エドガルドが居城へと転移した。
夜会の煌びやかな余韻も、凄まじい戦闘の名残もない。
そして転移先はメアリの寝室で、先日のように寝台へと投げ出されるのだった。
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第1部エピローグへ続く




