56 悪女の願い
メアリはさらなる魔力を結界に注ぎ、光の層を厚くする。エドガルドが辞めさせようと手を伸ばしてくるも、それを防ぐように竜の尾が翳された。
彼は舌打ちをして魔法を放ち、目前まで迫り来る竜の尾を切り落としながら言う。
「無欲で居るのも大概にしろ。俺はお前に、自己犠牲など望んでいない」
「自己犠牲ではありません……!」
エドガルドの戦う傍らで、メアリは懸命に結界を押し広げた。穢れた魔力が触れる度に眩暈がしたが、必死に踏ん張ってそこに立つ。
「エドガルドさまは、私を無欲だと仰いました。けれど」
「……っ」
エドガルドの魔力が迸り、それが大弓と矢の形を成した。三本同時につがえて引くエドガルドの額から汗が伝い、首を射抜かれたレデルニア神の頭がぼとりと床に落ちる。
『ぎあっ、あ、寄越せ、聖女を……!!』
「メアリ!」
落ちた頭が飛び上がり、エドガルドに噛み付くのを結界で防いだ。
こんな痛みくらいどうということはない。メアリが魔法によってようやく耐えられている毒を、エドガルドはすべてまともに受けているのだ。
「私の本質は、無欲などと呼ばれるべきものではありません……!」
レデルニア神の首から、粘着質な音を立てて頭が再生する。落ちてくる瓦礫と千切れた蛇を結界で押し留めつつ、メアリは声を上げた。
「私はただ、空っぽだったのです」
「……?」
こうして誰かの命令に背き続けるのも、メアリにとっては初めてのことだ。
「一時間だけでも眠れれば幸せで、一口でも食べられれば嬉しい。そんな風に自分に言い聞かせながら、ただ茫洋と生きていました」
「……メアリ」
「長年なにも強く望むものはなく、漠然とただ外の世界に憧れ、けれども行動することはないままに。大神殿で過ごしていた私は、願いがなくて空っぽのまま……!」
妹のニーナはメアリの前で、自分は人形だったと泣いた。メアリもそれと同様だ。
「どなたかに『死んでくれ』と願われても、容易く受け入れていたかもしれません。『今日まで生きられたのだから、それで充分に幸せな人生だった』と受け入れて……」
「…………っ」
忌々しそうに顔を顰めたエドガルドが、再び弓を引き絞った。
「けれどもいまは、違います」
ぎりぎりと軋む音を立てて、凄まじい勢いで矢が放たれる。エドガルドの怒りが込められたその矢は、メアリの結界を砕こうとした神の腕を射落とした。
「エドガルドさまに寝かせていただいた寝台でまどろむ怠惰も、お友達が作ってくれたドレスを自慢する傲慢さも。エドガルドさまの使い魔さんたちと仲良くしたくなる強欲も、幸せなチョコレートをたくさん食べる暴食も……!」
震える手で結界を更に広げる。ここでエドガルドを守れるならば、何が起きても構わないと感じていた。
「働くことに対しての対価がいただける充実感や、皆さまの笑ってくださる顔。エドガルドさまが、私が喜んでいると満たされると、そう仰って下さったこと……」
それらを与えられたときのことを、メアリはきっと忘れないだろう。
「大神殿にいたころの私は、無欲だったのではありません」
必死に結界を張りながらも、メアリはエドガルドのことを見上げた。
(愛おしくて、大切な人。私は)
守るために戦ってくれるエドガルドの瞳を見据え、泣きそうになりながらメアリは微笑む。
「――ずっとこれが欲しかったのだと、気付くことすら出来ませんでした」
「……メアリ」
強い目眩に苛まれるが、結界の力が強くなっているのを自身でも感じた。エドガルドもそれを察してか、驚いたように目を見張る。
「欲のない聖女が強いのであれば、私はこれからどんどん力を失っていくのでしょう。それなのにどうしてか、確信があるのです」
「確信……?」
浅く息を吐き出したエドガルドに、大きく頷く。
「エドガルドさまのお傍にいる私は、どんな私よりも強いのだと――!」
「!」
『ぎ……っ!?』
メアリの放った祈りの魔法が、レデルニア神を怯ませた。
目を見張ったエドガルドが、それでも瞬時に雷撃を放つ。雷によって右腕と頭を同時に焼き切られ、レデルニア神がますます苦しんで声を上げた。
「……いまのは」
「エドガルドさま、手を……」
ひどい目眩に苛まれ、メアリは無意識にエドガルドに懇願していた。
「手を、繋ぎたいです……」
「…………っ」
すぐさまぎゅっと引き寄せられ、互いの指同士を絡めてもらえた。メアリはそれにほっとして笑い、何度も肩で息をしながら口にする。
「レデルニア神さまも、思い違いをなさっています。……あなたがご存知なのは、大神殿にいたころの、空っぽな私の魔力だけ……」
神が無欲なものを好むのであれば、もはやメアリには当て嵌まらない。だって悪女であるメアリはもう、欲しいものがたくさんの欲だらけだ。
「いまの私を召し上がっても、美味しくなんてないですよ」
『聖女……! 聖女よ、ここに、こちらにおいで。どうして、どうして私を望まない……』
「いりません。いまの私は欲に満ちた大罪人ですので、神さまなんてものはいらないのです」
メアリが欲しいものは、そこには無かった。我が儘を聞いて手を繋ぎ、守るように抱き寄せてくれる人の隣こそが、望む場所だ。
「魅了魔法を解いて、このお方を私から解放しなくてはいけないと分かっていても。……心の中に眠る私の本当の願いは、そうではなくて」
「……メアリ」
「ごめんなさいエドガルドさま。これは、悪女の浅ましい願いです」
メアリはエドガルドの手を両手でくるみ、泣きたいような気持ちで目を閉じた。
「……エドガルドさまのお傍に、ずっと居たい……」




