50 触れる口実
「ん……っ」
驚いて声を上げるいとまも無く、口付けが深くなる。触れている箇所は熱くて柔らかく、とてもやさしい。
甘やかされているキスであると、初めてのメアリでも分かるほどだ。
一方でエドガルドの大きな手は、メアリが逃げることを少しも許さない。
「!」
掴まれている輪郭ばかりでなく、もう一方の手で腰すら引き寄せられて、反射的にぎゅっと目を閉じた。
腰からゆっくりと背中まで上がってきた手が、メアリの髪をくしゃりと弱く握り込む。
別れの言葉を告げるための武装が、混乱によって何もかも溶けてしまいそうだった。メアリが何も言えなくなったのを汲み取ってか、エドガルドがようやくくちびるを離す。
「っ、ぷあ……!」
「…………」
永遠に重なっていたような気さえするのに、実際はほんの数秒だったのだろう。
それでも全てが限界であり、なんとか肩で呼吸をするメアリのくちびるに、エドガルドが触れる。
「……閉じなければ、無理やりに塞ぐと先に言った」
「〜〜〜〜……っ!?」
親指でくちびるを拭われて、耳まで熱くなるのを感じた。
「っ、ひどい、です……!」
「仕方がないだろう。お前が弱っているのを見ると、ひたすらに甘やかしたくなる」
今日のエドガルドがやさしすぎるのは、メアリが眠れていない所為なのだろうか。
だからといって、いまのは甘やかされたなんて言わないはずだ。メアリが真っ赤になりながら自身の口を押さえると、エドガルドは目を眇める。
「こうやってお前に触れる口実を、あまり俺に与えるなよ」
メアリの手首が捕まって、彼の方へと引き寄せられた。
エドガルドはお互いの指同士を絡めながら、メアリの手のひらに口付けを落とす。
「お前がいま想像している以上に、俺はその弱みに付け込むぞ」
「う……」
まるで一種の宣戦布告だ。そんな意地悪をされたとしても、口を閉ざす訳にはいかないのに。
「ご自身を縛り付けるような恋心など、消してしまうべき物のはずです……」
「メアリ」
エドガルドに名前を呼ばれるだけで、左胸に幸福が溢れてしまう。
自分の浅ましさに絶句した。メアリは感情を押し殺しながら、抱き締めてくれているエドガルドを見上げる。
「俺は、お前を――……」
そのときだった。
「!!」
地響きのような音と共に、空間がずれたような衝撃を感じる。凄まじい力の発生源は、この穏やかな海辺ではない。
「エドガルドさま! 夜会の会場が……」
「お前はここに居ろ」
「いいえ、行かねばなりません!」
メアリは咄嗟にエドガルドの腕へとしがみつき、彼を見上げる。
「エドガルドさまもお分かりのはず。この力は恐らく……」
「…………」
エドガルドは溜め息をついたあと、メアリを連れて踏み出した。
(災害のように大きな魔力。けれど、この中にほんの少しだけ混ざるのは――……)
周囲の景色が歪むように揺れ、浅瀬の波打ち際から夜会のホールに移り変わる。
「!」
エドガルドの腕に掴まっていたメアリは、その冷えた空気に息を呑んだ。
グラスを手にした貴族たちが、強張った顔でざわめいている。ホールに音楽をもたらす楽団も、演奏を中断していいものか戸惑った様子で、恐る恐る音楽を奏でている。
「何事だ」
「エドガルド殿下!」
エドガルドの姿を見た面々は、安堵と恐怖が半分ずつ混ざった表情を見せた。
そしてひとりの男性が、ぎこちなく一点を指差すのだ。
「あちらに聖女、ニーナさまが……」
先ほど隠し部屋で感じた強大な魔力に、異母妹のそれが混ざっていたことは分かっていた。
エドガルドとメアリの存在に気付いた貴族たちが、視界を遮らないよう左右に分かれる。ニーナに繋がる道を空けるかのように、少しずつ導線が作られていった。
開け放たれたバルコニーへの扉の前に、ひとりの少女が立っている。
音色の乱れた演奏が続く中、メアリの髪色のような紫色のドレスを纏った彼女は、満月を背に微笑んだ。
「――お姉さま」
「ニーナ……」
メアリは思わず目を見開く。
光に照らされたニーナが、美しく微笑んでいたためではない。傍らにいる元婚約者のクリフォードが、真っ青な顔色をしているからでもない。
「あなたが従えている、その精霊……」
「あら」
ドレスから剥き出しになったニーナの肩口に、どす黒い何かが纏わりついている。
「精霊だなんてひどいですわ。お姉さま」
男の上半身に竜と蛇が混ざり、それを醜く捻じ曲げたかのような、歪な異形だ。
右腕に大蛇を巻きつけ、下肢が巨大な竜のそれである存在は、背中に破れた羽を持っている。それを静かに睨んだエドガルドがメアリを抱き寄せ、守るようにマントで覆ってくれた。
「精霊なんて低次元の存在と、一緒にしては失礼です。ね? クリフォード殿下」
「……そ、それは……」
クリフォードの声が、助けを求めるかのように震えている。異形が傍にいるとはいえ、その怯え方は尋常ではない。
「エドガルドさま。あの異形の竜は……」
「……お前の想像している通りだろう」
エドガルドの腕の中で、メアリはぎゅっと眉根を寄せた。ニーナの傍にいる精霊のような異形は、次の瞬間に大きく体を捩る。
そして歪んだ咆哮を上げたかと思えば、高いホールの天井いっぱいに巨大化した。
『ああああ、あ……!!』
(っ、なんて力……!!)
エドガルドの腕に守られていても、肌の表面が痺れるほどだ。夜会の参加者である貴族たちが、シャンデリアを揺らす異形を見上げて悲鳴を上げる。
「化け物……!!」
「に、逃げろ!」
彼らは一斉に走り出した。けれども竜が長い尾を振るい、出口に向かう階段を砕く。
「うわああ、階段が!!」
「行かないでくださいませ、皆さま。歴史が変わる日には、証人が必要なものですわ」
異形の竜を連れたニーナが、可愛らしくくちびるを尖らせて拗ねた。その傍ではクリフォードが、何もかも諦めたように項垂れているのだ。
「ニーナ。あなたが連れている、その存在は」
クリフォードの様子を見たメアリは、ニーナが何をしたのか確信する。
「レデルニア聖国の、守護神なのね……?」
「……ふふ……っ!」
メアリの言葉を肯定して、ニーナは無垢な少女の微笑みを浮かべた。




