38 悪女の望み
そんな自覚がなかったので、メアリは緩やかな瞬きを重ねた。
エドガルドが不機嫌そうに顔を歪め、柱の前で蹲り咳き込むクリフォードを見下ろす。
「お前に視線で制されていなければ、こんな男は殺しているところだ」
先ほどの雷撃は、クリフォードの結界によって防げた訳ではない。エドガルドが加減したからこそ、結界ごと砕かれて絶命せずに済んだのだ。
「貴殿が……エドガルド・ヴィル・ハンクシュタイン殿か」
床に手をつき、浅い呼吸を繰り返しながら、クリフォードが身を起こした。
「貴殿の行いは、暴挙という範疇を超えている……。筆頭聖女メアリ・ミルドレッド・メルヴィルを独占することなど、許されるはずもない……!」
「ふざけたことを」
腕の中で聞いているだけのメアリですら、背筋が凍えそうなほどの冷たい声だ。
その一方で、メアリを撫でてくれる手はやっぱりやさしい。
背中に触れて、メアリのことを落ち着かせるように、柔らかく甘やかすようにあやされる。
「メアリは俺の花嫁だ。俺が独占し、誰にも渡さぬように愛でて然るべきものだが?」
「金銭で、彼女を得ておきながら……!」
「メアリの道徳心と罪悪感を刺激し、無給で縛り付けて搾取するのと変わりはしないな」
「!」
エドガルドの言い放ったことが、クリフォードにとっては思いもよらなかったのだろう。知らない言葉を耳にしたかのように、クリフォードが呟く。
「搾取……?」
「転移の瞬間に聞こえていたぞ。大神殿に居たころの酷い扱いを、メアリが平然として話す理由がよく分かった」
「……違う。司教たちは世界中の神に繋がる者として、メアリに勤めを果たさせようと……」
「他人のためにメアリが犠牲になることを、誰もが当然だと思ってきたのだろう?」
心から憤っている口ぶりに、メアリは驚いてエドガルドを見上げた。
「誰かが手を掛けた料理を出してやれば、メアリは幸せそうにそれを頬張る。年頃らしい衣服を用意すれば目を輝かせ、意匠に喜び、生地の手触りに触れて楽しむことを知っているか?」
「エドガルドさま……」
「自分の仕事のために創意工夫を凝らそうとし、上手く行ったと思っているときは誇らしそうにして、それが失敗だと知ると分かりやすく落ち込む」
エドガルドがメアリを見詰め返し、何かを思い出したかのように目をすがめる。
「……甘いものを口に入れてやれば、蕩けるように愛らしく笑う」
「!」
チョコレートの一件を思い出し、メアリは反射的に顔が熱くなった。エドガルドは再び前を見据えると、冷ややかなまなざしでクリフォードを蔑む。
「――たったそれだけである感情の、何処が欲深いものだというんだ?」
「……っ」
クリフォードがぐっと言葉に詰まり、エドガルドをただ睨み付けた。けれどエドガルドからしてみれば、そんな視線はどうでもいいようだ。
「本当に無欲な筆頭聖女だったのではない。貴様らはメアリがそういった存在でなければ、生きることすら許さなかった」
「違う!! 私は搾取した訳じゃない。彼女が立派に勤めを果たせるよう、傍で支えて励ますのが私の役割で……!!」
「いまのメアリが抱いている望みや喜びは、どれも人間にとって当然のものだ」
先ほどからメアリが俯いている理由を、エドガルドは察してしまっているだろうか。
(そんな風に、思っていて下さったの……?)
メアリが美味しいものを食べて、美味しいと嬉しくなっているときも。
綺麗なドレスが幸せなときも、悪女を勤めるための作戦立案が楽しいと感じているときも。それが失敗してかなしいときも。けれど誰かに喜んでもらえるのを、内心で喜んでしまっているときも。
(エドガルドさまは、ずっとそれを慈しんでいて下さった)
小さな頃、温かな寝台に憧れたのを思い出す。
その憧れも忘れたあと、エドガルドの城で眠った寝台の温かさに驚いたのだ。だというのに、それよりももっと温かな腕があるなんて知らなかった。
「そういった欲を持つことが、貴様や司教どもの言う悪なのであれば」
メアリの髪を指で梳きながら、これまでで一番やさしい声が紡がれる。
「……俺には、その悪女が誰よりも愛おしい」
「……っ!」
透き通った紫色をしたエドガルドの瞳は、メアリをやさしく見下ろしてくれているのだろうか。
それを確かめることが出来ないのは、いまの顔を見せたくないからだ。
エドガルドにぎゅうっとしがみつき、涙が溢れそうになるのを堪えたかったのに、どうにも我慢出来そうにない。
(私もです)
心の中だけで懸命に、こう告げる。
(――……私も、エドガルドさまのことが愛おしい……)
こんなに何かを欲しいと思ったのは、生まれて初めてのことだと気が付いた。
(このお方に本当に恋をしているのは、私のほうなのだわ……)
そう自覚すると、なんだかとても嬉しくて、泣きたくなる。




