婚約破棄を決意した時
まだ、わたしが悪女を目指していなかった頃。その時までは、ケビン様とリリアンヌ様の恋を漠然と捉えて、ただショックを受けているだけでした。でも、あの時あの場所での出来事で、わたしはちゃんと現実と向き合わなくてはならないと気が付いたのです。
本当にタイミングが悪いですわ。何故わたしはここに来てしまったんでしょう。
いつもだったらランチが終わってから寄るところを、今日に限って授業が終わって帰る前に寄ってしまった学院の図書館。漸くお気に入りの恋愛小説の上巻が読み終わって、いそいそと下巻を借りに来たこのタイミングで、見てはいけないお二人を見てしまいました。
試験が終わったばかりというのもあって、利用者のいない静かな図書館の二階の隅のソファ。寄り添うお二人に気が付いたのは、二列並んだ本棚の向こうから聞こえる「アンナ」と言う名前を、男性が口にしたから。
ドキンとして、そこからはわたしの心臓が早鐘を打ち、身体が熱くなり手は汗を掻き始めましたわ。
息を潜め音を立てないようにして、その場を去ろうとしましたが、足が動いてくれません。ここに居てはいけないと、頭の奧で警告音が鳴っているのに、二人が何を話しているのか知りたい気持ちもあります。
「本当に迷惑な話だよ。俺の夢を紙切れ数枚で台無しにしたんだ」
「可哀そう、ケビン」
ケビン様の夢。騎士になって、自分の力で爵位を手に入れること。そして騎士団長になること。
「それなのに、アンナは勝ち誇ったような顔をして笑ったんだ」
「ひどーい」
わたしが?
「自分と結婚するお陰で俺が爵位を手に入れるから、俺を下に見ているんだ。本当に嫌な女だよ。俺は、アンナと結婚しなくても自力で爵位を手に入れるっつーの」
「そうよね!ケビンの実力ならすぐに爵位を手に入れて騎士団長にだってなれるのに!アンナさんって本当イヤな子!」
「リリアンヌは優しいな。君だけだよ、俺のことを分かってくれるのは」
「当たり前!わたしはケビンの彼女だよ。ぜーんぶ分かってるわ」
そんな、わたしそんなつもりないわ。
今すぐ飛び出して全部勘違いだって訂正したい。わたしはそんなこと思ったことも無いし、ケビン様の夢を応援しているって伝えたい。
でも、足が震えて、勇気が出なくてその場から動けませんわ……。
「ま、いずれあいつも気が付くと思うよ。俺が、結婚してやらないと伯爵家が潰れるっていう現実にさ」
「そうよね、男の人じゃないと爵位は継げないもんね」
「そうさ、それに結婚したらあいつに偉そうな顔をさせる気はないよ」
「キャ、こわ」
「ふん、当り前さ。俺は伯爵になるんだからな。女に大きい顔をされて舐められるなんてまっぴらさ」
そうですわ。わたしでは伯爵家を継ぐことが出来ません。でもわたし、偉そうにする気も大きい顔をする気もありませんわ。
「なぁなぁ、俺が騎士団長になったら、リリアンヌはどうする?」
「うーん、ふふふふ」
リリアンヌ様だって少し年上の婚約者がいらっしゃるはず。既に子爵位を継がれた立派な婚約者が。どうすることも出来ない筈なのに、そんなことを聞くなんて。
「騎士団長が恋人とかいいかも~」
「そうだろ?」
そんな。浮気が前提ってこと?そんなの……!わたしもリリアンヌ様の婚約者と同じ位置にいるのね。
「ま、俺は伯爵になるから騎士団は諦めないといけないけどね」
「勿体なーいー。ケビンだったら絶対なれるのにー」
なれますわ。騎士団は入団試験に合格すれば入れるし、伯爵になったって実力があれば騎士団長にだってなれますのに!
きっとわたしのせいでケビン様は全部諦めてしまわれたんだわ。わたしのせいで。
「あーあ、なんか最近調子が悪いんだよな」
「どうしたの?」
「将来のことを考えたら気分が悪くなってさ、剣技の授業でちょっと上手くいかなかったんだよ」
「えー?ストレス?よくないよ、溜め込んだら」
「そうなんだけどさ、俺、将来真っ暗じゃん?」
「だよね。好きでもない相手と結婚して、騎士も諦めて」
「そうなんだよ。慰めてくれる?」
「ふふふ、いいわよ」
そう言ってお二人は唇を重ねました。わたしは這うようにしてその場から離れ、借りるつもりだった本を借りることも出来ないまま図書館を出ました。
足が、手が、身体が震えて、涙が止まりません。
お二人が密会していたことよりも、わたしがケビン様の夢や希望を台無しにしていたんだと思うと、悔しいやら情けないやら。
まさかケビン様に嫌われているとも知らずに、わたしはケビン様のお手伝いが少しでも出来ればと、領地運営の勉強や領地の視察に行くお母様について行って、勉強をしてきました。でも、間違っていたんです。
そもそも、ケビン様を縛り付けてしまったことが過ちだったのです。愚かなわたしはそんなことにも気が付かずに一人幸せに浸り、ケビン様を苦しめていました。
そして、そんなケビン様に寄り添っていらっしゃったのがリリアンヌ様です。わたしにはその傷付いたお心を癒してさしあげることは出来ません。それが出来るのはリリアンヌ様だけなのでしょう。
わたしはこの時、初めて婚約解消という言葉を思い浮かべたのです。
生徒が殆ど帰ってしまった静かな校舎を、ボロボロと涙を流しズルズルと鼻水をすすりながら歩く姿はきっととても異様であったと思います。生徒が殆ど帰っていたことは本当に幸運でした。
わたしは、ケビン様を解放して差し上げなくてはなりません。婚約を解消して、何の障害もなく騎士として、力を発揮して欲しいのです。
でも、理由もなく婚約を解消するわけにはいきません。ケビン様とリリアンヌ様の関係を誰かに知られるわけにもまいりません。
「どうしたらいいかしら……」
婚約を解消したいなんてお父様が簡単に納得して下さるわけがないわ。ケビン様のお父様、ガーネット伯爵もわたしたちの婚約を喜んで下さいましたから、わたしが解消をお願いしても納得はして下さらないわね。
どうしましょう。どうしたら、ケビン様を自由にして差し上げることが出来るのでしょうか?
鼻をすすりながら、漸く思い出してハンカチを取り出し、そっと目を押さえて涙が止まる呪文を唱えました。
泣かない、泣かない、泣いても何も解決しない。
涙が止まるまで何度も心で呟きます。そうすると、だんだん涙が止まって来るんです。心の声のお陰で余計なことを考えなくなるからでしょうか?おばあ様から小さい頃に教えて頂いた呪文が役に立ちましたわ。
わたしとケビン様が婚約を解消するには……。婚約を解消する理由が必要よ……。わたしがとんでもなく嫌な女になれば……。既に、ケビン様にとってのわたしは、嫌な女なんですけど……。
学院中の誰もが知っていてガーネット伯爵の耳にも入るくらい、悪い令嬢になれば婚約を解消する理由になるかもしれませんわ。そうよ、わたしの有責で婚約を破棄することになればいいんだわ。
わたしは急に真っ暗な視界に一筋の光を見つけた気がいたしましたわ。わたしがとんでもなく悪い女なら、婚約破棄は必然ですわ。
「…ナ、…ンナ、…アンナ!」
「え?」
わたしが間抜けな声を出して振り返ると、ジャネットが目を見開きました。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないわ。あなたこそどうしたの?……泣いたの?」
ジャネットの言葉にわたしはハッとしました。
「な、泣いていませんわ」
「嘘よ、目も、鼻も真っ赤よ」
わたしは慌てて目と鼻をハンカチで隠しましたが、もうバレバレです。
「アンナ、私に言えない事?頼りない私では、相談相手にもならない?」
「そ、そんなことありませんわ!」
「じゃ、話してくれる?私を、親友を一人で泣かせるような頼りない、愚かな人間にしないで」
「ジャネット」
「お願いよ、アンナ」
ジャネットの優しさは折角止まった涙腺を決壊させました。ジャネットに抱きしめられて、声を殺してずっと泣いて、ジャネットの馬車に乗って侯爵邸まで連れていかれ、ジャネットの部屋。
ケビン様と私のこと。ケビン様とリリアンヌ様のこと。婚約を破棄しようと思っていること。全部、まとまりのない言葉でわたしはジャネットに話しました。
ジャネットは何も言わずに、ずっと私の話を聞いていました。もう、呪文を唱えても涙は止まりません。全然止まらないんです。
わたしはその日、侯爵邸に泊まらせて頂くことになりました。お食事をジャネットの部屋に運んでもらい、二人でお喋りをしながら食べ、寝る時はジャネットのベッドに潜り込み眠たくなるまでずっとお話をしました。
とても楽しい時間は、私の暗く落ち込んだ気持ちを随分と軽くしてくれたのです。
「おはようございます、おじ様、おば様、アーノルド様、ジェイダン様」
朝食の時間。家族水入らずの時間にわたしも同席させて頂きました。随分と目を腫らしてしまって恥ずかしかったのですが、誰もそのことには触れず楽しい時間を過ごさせて頂きました。
もう、わたしは大丈夫です。ジャネットもわたしが悪い女になる計画を手伝ってくれることになりました。やり遂げてみせますわ。
読んで下さりありがとうございます