その後の二人
馬車で学院から帰って来て、屋敷の門を抜けようとする僕の馬車の前に飛び出してきた女。
何やら叫んでいて馬車を止めようとするので、御者も困って馬の速度を落とした。女のキンキンした声を嫌がった馬が、ブルルッと鼻を鳴らす。質素と言うよりも、ボロボロな身なりと言う方が適切と思えるその服装に、物乞いかと思いきや西のはずれの修道院の修道女だった。修道着の裾はボロボロに破れ、膝辺りも転んだのか汚れ擦り切れている。髪はバサバサに乱れ、顔もげっそりとしている。
「ジェイダン様!ジェイダン様!!」
女は狂ったように馬車に向かって叫び続けている。このままでは邸の前まで付いてきそうだ。
「止めてくれ」
僕が御者に言うと、どうにか進もうとしていた馬車がぴたりと止まった。
「ジェイダン様、わたしです!リリアンヌです!」
止まった馬車の扉の前で叫び続ける女。誰だ?
僕は仕方なく馬車から降りた。すると女が勢いよく僕にしがみ付いてきて涙ながらに訴えてくる。
「あー、ジェイダン様。やっぱりあなたはわたしのことを愛していて下さったのね!!」
女は何やら訳の分からないことを言っている。
「離れたまえ!君は誰だ?」
「何を言っているの?わたし、リリアンヌです。お忘れですか?」
「リリアンヌ?すまないがそんな人は知らない。こんな所に居られては迷惑だ。さっさと帰ってくれ」
女は何日も同じ服を着て身体も清めていないのであろう、かなりの悪臭を放っていた。
「酷いです!わたしはあなたに会うためにここまで来たのに。わたし、リリアンヌです」
「だから知らないと言っているだろう」
「知らないはずがありませんわ。わたしたちはカフェでお話をしています」
「カフェ?」
カフェと言われても、女性と入ったのは最近だと、アンナとジャネットと三人で行ったくらいだ。実際、僕は学院の生徒とグループでならカフェに行くこともあったが、個人的に女性と席を共にしたことは無い。するはずもない。だから、こういった類は僕の気を引くための虚言だ。
「申し訳ないが君のことは知らない。修道女の知り合いもいない。早くこの場を立ち去らなければ憲兵を呼ぶぞ」
「そんな、なんでぇ?あ、わたしがケビンと一緒にいたことを怒っているの?」
「……ケビン?」
「それなら謝るわ。ジェイダン様がわたしのことを想っていてくれてるなんて知らなかったから」
全く話が見えない。ケビン?ケビン……。あー、あの時の令嬢か。
僕は漸く思い出して修道女の顔を見たが全く顔を思い出せない。そもそも、その時居た令嬢の顔なんて殆ど見ていないし、全く記憶に残っていない。でも、本人がそう言っているんならそうなのだろう。
「ああ、あの時の」
「もう、そんな風に怒らなくてもいいのに」
「それで、その修道女が僕になんの用?」
僕がそう言うと女は僕の背中に手を回して抱き付いたまま、一人で話し始めた。女が放つ匂いは強烈だし、髪は皮脂と汚れててゴワゴワしているし、とにかく汚い。
「もう、そんな風に言ってわたしの気を引こうとしなくてもいいのにぃ。本当にわたしが悪かったと思っているわ。あの時、初めてあなたの気持ちを知ったのよ。帰り際に熱い瞳で私を見つめていたでしょ?わたしたち、それまで接点がなかったから、話すことも出来なかったし。でも、あの日やっと気が付いたの。あなたがヤキモチを焼いているって。あんなに熱い視線を投げかけられたら、誰だって気が付くわよね。うふふふ、わたしってちょっと天然な所があって、他の女の子たちより鈍いの。だから許して?でも、その後は全然会えなかったでしょ?わたしは普通科、あなたは騎士科。学年も違うし校舎も違うわ。だからずっと会いたかったけど会えなくて。それに、いきなり婚約者が婚約破棄をするって騒いで、お父様が何だかよく分からないことを言い出して、いきなり修道院に入れたのよ。本当はあんな人と結婚なんてしたくなかったし、婚約破棄はどうでもいいんだけど。だって、本当に私が愛しているのはあなたなんだから。それでね、あなたが心配しているんじゃないかと思って、修道院を抜け出したの。もう、わたしのことを諦めちゃったんじゃないかって心配していたんだけど。……こうして、わたしを抱きしめてくれて、わたしとても幸せよ」
そう言ってさらに僕に引っ付いた。あまりに臭くて息を止めていたけど女の話が長い。
頭がお花畑のこの女を野放しにするわけにはいかないなぁ。
「ああ、とても心配したよ。ここまで歩いてきたのかい?疲れただろう?さ、馬車に乗って」
「う、うん!心配してくれて嬉しい!ここまでずっと歩いてきたし、色々酷い目に遭ったの。でも、もう安心ね。あなたが守ってくれるし。わたしを家族に紹介してくれるの?」
「いや、それはまだだよ。でも、邸まで行こう」
「もー、いじわる。でも、そうよね。いきなり結婚なんてびっくりされちゃうわよね」
「ああ、そうだよ」
僕は修道女を引き離して馬車に乗せた。そして外から鍵を掛けた。
「え?ジェイダン様は?」
「僕は歩いて行くよ、さすがに一緒に乗ったら匂いで耐えきれなくなるしね。ははは」
この馬車はもう捨てるしかないな。
僕は御者に先に邸に行くように指示をした。馬車の中から女の叫び声が聞こえる。
「坊ちゃんは?」
「ああ、僕は歩いて行くよ。すぐそこだからね。間違っても馬車の扉は開けないでよ」
「分かりました!」
御者はそう言うとすぐそこの邸の入り口までは馬車を走らせ、御者席を飛び降りると邸の中に入って行った。
「くっさ。あの修道女の匂いが付いちゃったよ。最悪だ」
女はずっと馬車の中で喚いていたけど、やって来た憲兵に馬車から引きずり降ろされて、そのまま病院に送り込まれ、二度と出てくることは出来なかった。
僕はと言うと、結局修道女の昔の顔さえ全く思い出せない。一度しか会っていないし、そもそも僕はアンナ以外に興味が無いから覚える気もないしね。
◇◇◇◇◇
ケビン様は婚約破棄をした後、領地に戻り除籍され平民になりました。でも、市井に放り出されても生きてはいけないだろうと言うことで、屋敷の庭師として雇われることになったのです。
お給金は勿論ありません。寝床は農具の仕舞われた倉庫の隅。食事は他の使用人と一緒に取ることが出来ます。ケビン様は除籍される際に一切の財産を与えられなかったので無一文。欲しい物は買えず、馬車に乗ることも出来ません。
屋敷を逃げ出しても、貴族として生活してきたケビン様が、市井でまともな生活が出来るはずもありません。なので、ケビン様は嫌でも屋敷で庭師をする以外に道はありません。
これは、わたしに会いに来たり危害を加えることが出来ないように、監視するための措置だそうです。
ケビン様は領地に帰ってもしばらくは、反抗して仕事もせずに逃げ出そうとしていました。まさか自分が使ってきた使用人たちと、同じ立場になるとは思わなかったでしょう。怒りや屈辱に肩を震わせたかもしれません。
ですが、どんなに喚いても誰にも相手にしてもらえず、働かなければ水の一滴も与えられない生活に耐えられるほど、ケビン様に強い意思はなかったようです。屋敷を追い出される寸前で漸く諦め、少しずつ仕事をするようになられました。
もし、婚約者がわたしでなかったらここまでの扱いではなかったのかもしれません。浮気は許されることではありませんが、だからと言って誰もしていないわけでもないのです。寧ろ、学生の時くらい自由に恋を楽しみたいとお思いの方も相当数いらっしゃいます。ですから、そんなお話がお好きな方々の耳を楽しませる醜聞は、あちらこちらで聞かれています。
勿論、それが原因で婚約を解消された方も、最初で最後と許された方もいらっしゃいます。とある令嬢が婚約者の浮気に耐えられず自殺未遂をして男性が廃嫡された話は、最近の一番大きな話題でした。ですが、男性は廃嫡はされたものの除籍されることはなく、浮気相手とされていた女性と正式に婚約されました。自殺未遂をされたご令嬢は、色々とお辛い目に遭われ心を病まれていたそうで、婚約を破棄された後は修道院に入り、日々祈りながら静かに余生を過ごされるそうです。
世間はその浮気男性を非難しましたが、その声も徐々に落ち着いてきています。わたしはこの話に憤りを感じましたが、それが貴族の世界ですと言われれば、何の力も無いわたしは溜息を吐くことしかできません。
では、ケビン様の罪はどれほど重いのか?と申しますと、ある子爵子息は浮気をして婚約を破棄されましたが、半年後には同じ子爵家の令嬢と婚約をし婿入りのご予定だとか。
他の人から見れば、ケビン様に対する扱いはかなり重い罰のようにも感じるでしょう。ですが、敵にした相手が不味かったのです。ただの若気の至りでは済まされない相手を敵にしたのですから。そんな中、どうにか生きていく手段を残してくれたおじさまに感謝をするべきでしょう。お母様は鉱山に行かせることを望んでいましたし。ですが、さすがにそこまでの罪ではないとお父様が説得をして、わたしに近づけないことを条件にガーネット邸で働かせることを許可したのです。
もしケビン様が屋敷を抜け出してわたしに接触するようなことがあれば、ガーネット伯爵家は没落まで追い込まれます。それくらいお母様は苛烈な方なのです。
ケビン様はと言うと、最近は大人しく仕事をしているそうです。殆ど言葉を発することも無く黙々とお仕事をして、食事をして、寝て、起きたら仕事をして。ですがそれだけではなく、剣を振っているそうです。暫く剣を握っていなかったケビン様でしたが、庭師は元は騎士だったそうで、時間のある時に教えてもらったりしているとか。
時間がどれくらいかかるか分かりませんが、いつかは立ち直って再び騎士を目指して欲しいと思います。
最初からその夢を見失わなければ、こんなことにはならなかったのに。
そう思うこともありますが、後悔をしないと気が付けないこともあるのです。それはとても残念なことですが、その後どう身を振るかで、良くも悪くもなるでしょう。
きっとケビン様は良い方に向かって行って下さると信じています。
読んで下さりありがとうございます