30話 ハイア王子視点
フェリアが、義妹セレスティアによって、階段から突き飛ばされた。
それを聞いた時、王子ハイアの頭は、二つの感情に支配された。
彼女を永遠に失ったらどうしよう、という深い後悔。そして悲しみ。
幸いにしてフェリアは持ち前の力を使って死ぬともなければ、傷一つ追わずに済んだ。
心から、ハイアは安どした。
フェリアの無事が彼の心を温かくした。
その時にハイアは、理解してしまった。
フェリアへ思慕の情が、思った以上に、大きかったこと。
彼女がハイアにとって、いかに大事な存在か、いかに、愛しているか……。
ハイアは事件を通して、フェリアへの思いを募らせた。
その結果、ハイアは犯人であるセレスティアに対して、激しい怒りの感情にとらわれる。
愛する女を傷つけた不届きもの、たとえ、相手が公爵家の娘だろうと、自分の婚約者だろうと、関係ない。許すつもりは、毛頭ない。
ほどなくして、セレスティアは捕らえられた。
あろうことか、パーティ会場に忍び込んでいたのだ。
樹を隠すなら森の中。
人の中に隠れて、逃げる機会をうかがっていたのだ。
そんな彼女を捕らえたのは、王国を守る最も優秀な剣士。
アルセイフ=フォン=レイホワイトだった。
彼は氷の力を使って、セレスティアの首から下を、氷漬けにした。
今にも切り殺そうとしていたが、しかし、あと一歩のところで冷静であった。
獲物を捕まえ、その処遇を、主人に委ねようと待っている。
まるで飼い主の命令を待つ、猟犬のであった。
「レイホワイト卿。よくぞ賊を捕らえた。大儀である」
ハイアがアルセイフをねぎらう。
だが彼は特にリアクションを示さない。
アルセイフの瞳は怒りで燃えていた。
愛する妻を傷つけたこの女を、八つ裂きにしたい。鬼気迫る表情で、セレスティアを見つめている。
気持ちはわかる。ハイアも、同様だったから。
「セレスティア=フォン=カーライル」
「ちがう! ちがう! ちがうのぉお! 殿下ぁ! わたし悪くないのぉ!」
この期に及んで、自己弁護。
ハイアの頭は怒りで真っ白になった。
「セレスティア! 貴様に罪状を言い渡す! しけ……」
と、死刑を宣告しようとした、まさにそのとき。
アルセイフが、氷の刃をもって、セレスティアの首をはねるより早く。
「お待ちになってください」
凛とした声が、パーティ会場に響き渡る。
その声を聴いたアルセイフは、びたっ、と剣を止める。
「フェリア!」「リア!」
フェリア=フォン=カーライルが、背筋をピンと伸ばして、こちらにやってくる。
アルセイフは本気で殺そうとしていた。
だが妻の言葉に絶対服従している。
もしも止めなければ、今頃セレスティアの首と胴体は泣き別れになっていた。
ハイアも、フェリアの登場に戸惑ったものの、しかしまだ彼の胸の内に荒れ狂う怒りの感情は収まらない。
「殿下、どうか冷静になってください」
「私は冷静だ! この者は国の宝を、殺そうとしたのだぞ!」
それは貴族の娘だから、という意味で言ったのではない。
一部の王族たちには、フェリアには精霊王の加護という、空前絶後のすさまじい加護を得ていることは承知している。
フェリアはこの国の重要人物、宝と言える。
「君が魔法を発動させなければ! 君は階段から落ちて死んでいた!」
国の事情よりも、ハイアは個人的感情を優先していた。
簡単に言えば、好きな女を殺されそうになった、だから、殺す、と。
だがそんな短絡的かつ感情的な思考を、フェリアは否定する。
「殿下、どうか怒りをお収めください。私はこうして五体満足であります。それは事実です」
「だが……!」
「一時の感情で、人を殺めるなど、獣と同じ。殿下、あなたは理性ある人間として、人の上に立つ王の血を引く者として、どうか冷静な判断を。周りの皆が、納得する形でくだしてください」
はっ、とハイアは気づかされる。
フェリアの言葉で、冷静になった。
そう、ここには帝国貴族たちが多く集まっている。
そんななかで、一時の激情に身を任せて、貴族を処刑したとなれば、国の威信にかかわる。
彼の振舞いが、国の評判を下げる。
フェリアは言外に、そうさとしてきたのだ。
(なんと冷静。なんと、聡明な女性だ……)
あわや自分が殺されそうになったというのに、彼女は実に冷静に、状況を理解し、そしてハイアをたしなめてきた。
今、彼女が止めなければ、帝国は王国を、感情をコントロールできぬ獣と認識したことだろう。それが遠因となって、戦争が起きたやも知れない。
だがフェリアが止めたことで、冷静さを取り戻した。
彼女が国の危機を救ったと言える。
自分が死にかけたというのに、自分を殺しかけた女が、目の前にいるというのに。
(なんて理知的なんだ、君は)
フェリアへの尊敬の念は、ハイアを冷静にさせ、さらに彼女への思いをさらに募らせることになる。
だが、今は仕事中だ。
「セレスティア。君への処分は協議の上、追って知らせる。今は謹慎処分としよう。レイホワイト卿、彼女を連行したまえ」
一方でアルセイフは黙ったまま、微動だにしない。
否、怒りで今にも爆発しそうになっている。
彼から発せられる怒気と、そして魔力は、周囲にいる誰もが震えてしまうほど。
「あなた。殿下が御命令なさっておられるのですよ?」
ぴしゃり、とまるで幼子をたしなめるかのよに、フェリアがアルセイフを注意して見せた。
あの、冷酷なる氷帝に、口を挟める人間など、この世には存在しないとされている。
だというのに、アルセイフは、あっさりと従った。
氷の魔法を解いて、セレスティアの腕を乱暴につかみ、会場から出ていく。
「おお、さすがカーライル公爵家の御長女さまだ!」「なんと慈悲深い!」
ギャラリーたちは皆、フェリアを絶賛していた。
彼女は自ら命を奪おうとした女を、国のために許したのだ。
その優しさ、かしこさを、誰もが認める。
さらに冷酷なる氷帝の手綱を完全に握っていたところから、妻としても優秀であることが証明された。
この場にいる全員が、セレスティアよりも、フェリアの方が人格的に、能力的に優れていると、認めていた。
ハイアもまたその一人だ。
彼は今回の件でフェリアの能力を評価し、また、己の秘めたる思いを抑えられなくなった。
……そしてセレスティアは、そんな風に称賛されている姉に、憎しみの目を向けていた。
「おぼえておきなさいよ……」
騎士に連行されて、みじめに退出する際に、うなるように、セレスティアはそうつぶやいたのだった。