第9章
電気も通ってない僻地のラーゲリである。
夜になれば真っ暗であり、もともと脱走はそう難しいものではなかった。
しかし、誰も脱走を試みなかったのは、単にラーゲリを出てこの凍土で生きてはいけないからだ。
ここがどこかも分からない、どこに街があるのかも分からない、しかも現地人に化けることもできない。
脱走したところで野垂れ死ぬだけである。
しかも、この場所がサハリン島だと気づいている者は、囚人の中では私を除いてほぼ皆無であろう。
誰に計画を打ち明けることもなかった。
密告を恐れたのである。
たった1個のおが屑パンが欲しいために、平気で密告を行う。
ここはそのような場所なのだ。
だが、サハリンは今、短い夏を迎えている。
凍土の表面も解け、花などは短い夏の日を精いっぱい浴びようと咲き誇っている。
トンネル工事が中止となり、看守の気も緩み、夜間の監視などはいい加減になってしまっている。
スターリンによる死の恐怖がなくなるというのは、こういうことなのか。
ソ連の国民の勤勉さとは恐怖がなければ成り立たないのであろう。
隠しておいたわずかながらの食糧を持って、鉄条網をくぐりラーゲリを脱走した。
ラーゲリが閉鎖されるとの噂が飛び交う中で、わざわざ脱走する者もいないと思っていたのだろう、脱走に気づき追ってくる看守もいなかった。
しかし、脱走したからといってそれで終わりではない。
日本が敷設した鉄道があるであろう旧国境までは300キロもある。
海岸沿いを南へ下ればアレクサンドロフスク、そこから内陸へ入って再び南へ下れば旧国境のはずだ。
共産主義と資本主義は異なり、職業や居住地を自由に選ぶことができない。
従って、遊牧民を除けば、流れ者などいないのである。
身を潜めながら、そして、点在する農家や漁師の納屋へ忍び込んでは食料を盗みながらの旅だ。
もともと、たくさんの道が整備されているわけではない僻地の島だ。
一本しかないような南へ向かう道を黙々と進めばよいだけであった。
アレクサンドロフスクに着いたこと自体が奇跡と言ってもいいのかもしれない。
山菜や魚を食べ、畑の作物を失敬し、時には数少ない人家の物置に忍び込み食料を盗んだ。
もはや、盗賊か乞食にでもなってしまったかのようだ。
忍び込んだ農家の納屋では、家畜の餌でさえご馳走であった。
家畜と一緒に餌を頬張りながら、「死んだ気になってやってみろ。」という小学校の担任の言葉を思い出していた。
いくら学校の教師であっても、死んだ気になって家畜の餌を食べている教え子を想像してはいまい。
異国の地で家畜の餌を食べ生きながらえた東京帝国大学卒業生は、大学創設以来、私が初めてであり、今後数世紀は出てこないのではないだろうか。
どんな状況の中でも、常に斜に構えるというか、自分を冷やかすようなところがあった。
私のそういうところを父は嫌っていて、そういう性格ゆえなのか父が期待するような仕事にも就くことができなかったのだろう。
しかし、今となっては、そういう性格であるがゆえにこうして生きながらえることができたのかもしれない。
もはや国境とは言えない北緯50度線に関所のようなものがあるわけでもなかった。
ここまでは、日本が鉄道を敷設しているに違いないという私の考えは当たっていた。
日本のインフラ整備能力とは偉大なもので、満州にも鉄道を敷き、この辺鄙な離島にも鉄道を敷いていたのである。
ロシア人は日本人と違い几帳面ではないのであろうか、それともこの島に敵という存在がいなくなったためなのか、僻地の駅は閑散としており、南へ向かう貨物列車に忍び込むこともそれほど難しいことではなかった。
南樺太最大の都市である豊原(ロシア名、ユジノサハリンスク)まではすべての列車が行くだろう。
だが、豊原に着いた後どうする。
さらに南の大泊(ロシア名、コルサコフ)まで行ったとしても、船はあるのか。
今はそんなことを考えまい、考えても仕方のないことだ。
貨物の中で眠る私にも限界が、そして、静かな終わりが訪れようとしているのかもしれない。