第6章
「どうして赤軍は助けに来ないんだ!」
シェリングをはじめ多くのワルシャワ市民が悔し涙を流していた。
目と鼻の先まで来ていたソ連の赤軍は、蜂起したワルシャワ市民の窮状を知っていながら、一歩も動こうとはしなかった。
無線を使い、時には伝令が危険を冒して赤軍司令部まで出向いて援軍を要請した。
しかし、ソ連赤軍は、スターリンはすべてを握りつぶした。
古来より援軍なき籠城戦は愚策中の愚策であり、赤軍の応援が期待できない以上、降伏するか最後の一人になるまで戦うしかない。
そんな時、ドイツ軍の将校が私とシェリングのもとへやってきた。
「降伏交渉を行うための連絡役ということですか。」
「そういうことだ。」
日本人とはひどく便利な存在になったものだ。
「引き受けましょう。」
答えるシェリングに対し、そのドイツ軍将校は勝ち誇ったような目を向けた。
私たちには、それ以外の選択肢は残されていなかった。
このまま蜂起軍が最後の一人まで戦ったところで何も残らない。
残るのは屍の山だけだろう。
ならば、ここは生きながらえて次の大きな波を期待するしかなかった。
蜂起軍の指導者はドイツ軍によって逮捕されるか殺され、市内の建物もことごとく破壊された。
もはや都市とも言えず、秩序や文明といったものが存在しないかのようであった。
しかし、ドイツ軍の勝利も一時のことでしかなかった。
蜂起軍が降伏してから3か月も経ってから、赤軍が動き出したのである。
ソ連はポーランドに共産党政権をつくる算段を整えており、そのため、自由主義的な指導者たちがドイツ軍によって一掃されるのを待っていたのだろう。
そのようなことは何となく誰もが気づいていたのだが、もしかしたらスターリンにも慈悲の心があるのではと淡い期待を持っていたのだ。
スターリンにすがることができるのなら、それよりも前にヒトラーにもすがることができたわけであり、まるで星でもつかむような、そんな夢を見ていただけであった。
叶うはずのない夢のために多くの市民が死んだ。
「私はここに残る。ストックホルムへは帰らない。」
シェリングの言葉にそれほど驚くこともなかった。
彼はこの地に来た時、いや来る前から、ここの土になる覚悟でいたのであろう。
「残ってどうするんだ。」
「地下に潜んでいるレジスタンスに合流する。」
「そんなことをしても、今度は赤軍が新たな支配者、新たな敵となるだけで、今と何も変わらない。ロンドンのポーランド亡命政府をソ連が認めると思うか。」
「認めるまで戦い続けるだけだ。何年かかっても。」
シェリングにとっては日本という国も利用できる駒のひとつだったのだろう。
欧州情勢は複雑怪奇と言って首相を辞めた人物が日本にいたように、どの国や勢力がどこと結びついてもおかしくない。
利用できるものは何でも利用する、それが政治。
国家に真の友人など存在しない、自国以外はすべて仮想敵国、などと言う政治家もいた。
そういう意味では、私自身もシェリングの盾として利用されただけだ。
私の日本人という血と国籍を己の盾として利用したのか。
「私もここに残る。」
薄っぺらな意地なのか誇りなのか、そのようなものが私にその言葉を吐かせた。
単に利用されて、終わったからさようなら、などと放り出されるのが我慢ならなかっただけなのだろうか。
「愚かなロマンチストが、呆れたロマンチストになってしまった。」
心の中で自分に皮肉を言いながらも、「それも悪くはない。」と答えるもう一人の自分にも気づいていた。
ソ連赤軍の進軍を前にして、ドイツ軍はさしたる抵抗もせずに撤退し、赤軍は意気揚々とワルシャワへ乗り込んできた。
しかし、皆が待ち望んだ赤鬼たちが、新たな嵐を巻き起こすことは明らかであった。
もはや赤軍は、援軍でも解放軍でもなく、新たな支配者としてドイツ軍と入れ替わった、ただそれだけだった。
廃墟となったワルシャワで、これから起こることを考えもせず手を振って赤軍を迎え入れる市民たち。
そして、ロンドンのポーランド亡命政府につながる者たちが、次々と身柄を拘束され始めた。
赤軍は寛容であり新政府の樹立に自分たちも参加できると考えていた者もいたようであるが、歴史を知らないお人よしとでもいうべきであろうか。
救護所のドアを蹴破って赤軍兵士たちが入ってきた。
将校であろう、少し身綺麗ではあるが、優美さや品の良さというものを全く感じさせない、戦争前は工事現場の監督でもやっていたような感じの男であった。
「貴様はドイツ人だな。」
立ち上がろうとしたハルダー医師を兵士たちが床に押さえつけた。
それを遮ろうとシェリングが叫び、私も立ち上がった。
「彼は民間人だ。ただの医者だ。」
「そういう貴様は何者だ。」
「私はシェリング。ロンドンのポーランド亡命政府に属している。そしてこの東洋人は日本人だ。連行するなら私だけでいいはずだ。」
将校とはいえ、およそ教養があるとは思えないこの男には、状況が理解できていないのであろう。
「ドイツ、ポーランド、日本、貴様らはどういうつながりだ。」
「友人だ!」
よどみなく答えたシェリングの言葉が私の胸に突き刺さった。
そうだ、シェリングと私は友人だ。
仕事上の付き合い、政治的な付き合い、いや、これまでともに死線を乗り越えてきた友人なのだ。
そして、彼は私にとって友人といえる唯一の存在になっていた。
だが、説明や弁明の類などが認められるはずもなく、彼らの司令部へ連行されるしかなかった。
私の前に、先ほどの現場監督よりは少しましな感じの将校が現れた。
ましといっても、現場監督がせいぜい村役場の課長に変わった程度のものでしかなかったが。
「日ソ中立条約がある以上、私は交戦国の者ではない。あなた方に私を拘束する権限はないはずだ。」
私は、恐怖に包まれた心を精いっぱいのやせ我慢で覆い隠しながら、彼らの国際的な常識とでもいうか、理性による判断を期待していた。
「条約か、そんなものもあったな。しかしな、人ひとりが消えたところで、何も起こりはせんよ。」
「日本の旅券がある。」
「ただの紙だ。ほらね。」
そう言いながら、私の旅券が音を立てて破かれた。
ロシア革命や大粛清を経験した彼らにとって、他人の権利や命には何の価値も見出さないのであろう、ただ己が生きているのかどうか、今後も生きられるのかどうか、そのことにしか関心がないのかもしれない。
「シェリングはどうなる。」
「貴様と彼は違う。彼には彼の行先がある。」
直観的にその行先というものが、黄泉の世界であることを理解した。
私とシェリングは別々の場所へ送られることになったが、彼の顔は赤く腫れあがり、明らかな暴力と拷問の痕跡があった。
「賢二、ここまで来てくれて、ありがとう!」
トラックに乗せられるシェリングが私に向って叫んでいた。
彼に対して、私も精いっぱい叫んでいた。
「私の方こそ、ここまで、あなたのおかげで、ここまで来られたんだ!」
私にとっての「ここ」とは明らかにワルシャワではなかった。
怠惰な自由主義者気取りの男が、何の生産性もなく生きてきた男が、やっとここまで来られたのだ。
愚かな、そして呆れたロマンチストだったとしてもだ。