第5章
「南市街にある救護所へ医薬品を届けて欲しい。」
市内にはいくつかの救護所があるのだが、そのうちのひとつから医薬品が不足しているとの連絡があった。
その頃、ドイツ軍は市内各所で蜂起軍を鎮圧しつつあり、ワルシャワ市内の各所で蜂起軍が分断、包囲されているという有様だった。
「ドイツ軍がいる中を、どうやって南市街へ行けというんだ。」
シェリングは苦悩の表情を浮かべている。
小野寺少将が発行してくれた日本の旅券を持っているとはいえ、彼はポーランド人だ。
ドイツ軍が見逃してくれるはずもないだろう。
南市街へたどり着くのは至難の業であることは明らかであり、そこにいる誰もが躊躇している。
「私が行こう。」
その場にいたすべての者たちが私の方を振り返った。
「賢二、今なんて言った。」
「私が行くと言ったんだ。私は外見も中身も日本人だ。日本はドイツの同盟国だから、そうそう手荒なことはしないだろう。」
自分でも驚いた。
ここにいる者たちの愛国心に影響されたのか自分でも分からないのだが、傍観者のままでいたくはなかった。
「箱にありったけの医薬品を詰めてくれ。用意ができたらすぐに出発する。」
もはや一刻の猶予もない。
この救護所でも医薬品は不足しているのだが、それでも出せるだけの医薬品を箱一杯に詰めた。
今生の別れになるかもしれず、シェリング、ハルダー先生をはじめ、救護所のすべての者たちと握手を交わした。
「それじゃ行ってくる。戻ってこなかったとしても探す必要はないからな。」
医薬品を詰めた箱を背負うと救護所を出て、市内を南に向けてひた走った。
赤十字の腕章をしているが、こんなものに命を預けるとは、私もどうかしてる。
銃声や砲声があちこちから聞こえ、硝煙と火災の煙が街全体を包み込み昼間でも薄暗い。
ドイツ軍の兵士がこちらへ向かって来るのが見えた。
咄嗟に近くにある建物の中に身を隠したのだが、何か様子がおかしい。
人の気配がするような気がしてならない。
「誰かいるのか?」
「撃たないでくれ、私たちは避難民だ。」
驚いた、そこには多くの子どもや老人がいた。
市内の建物はことごとく破壊され、無人の瓦礫と化してしまったように見えるのだが、壊れた建物の中には多くの避難民が息をひそめていたのだ。
「安心してください、ドイツ兵ではありません。」
すると一人の老人がすがるような目で問いかけてきた。
「何か食べ物はないかね。」
「すまないが、今はこれしかない。」
そう言って、ひときれのパンを渡すと、受け取った老人は孫であろうか小さな子どもにそのパンを食べさせた。
「この騒ぎが収まった時、彼らのうちのどれだけの者が生き残っているのだろうか。」
もはや、彼らが頼れるのは運だけなのかもしれない。
何とか南市街にある救護所にたどり着いたのだが、届けに来たのが日本人であることに驚いていたようだ。
「こんにちは。」
一人の女性看護師が日本語で挨拶をしてきた。
「どうして日本語を…。」
その女性は、私に素敵な笑顔を見せながら話してくれた。
「挨拶だけですけどね。20年以上前、シベリアにいた私は日本によって助け出されたのです。敦賀という日本の港町を覚えていますよ。」
そうか、ロシア革命のときに日本へやって来たポーランド孤児の一人なのだな。
「日本に助けてもらうのは、これで二度目になりますね。」
彼女と私、二人とも思わず笑いが込み上げた。
戦場らしからぬ光景であった。
「女性なのに、どうしてこんな危険な場所に。」
「私の祖国だから。」
「それだけですか。」
「それってとっても大切なことよ。少なくとも私には。」
それまで考えもしなかった。
たまたま生まれた国、それが祖国。
そう考えていた。
しかし、そこには愛する家族や友人が暮らしている。
そうだ、そうなんだよ…。
医薬品を渡して帰途につく間際、そこにいる者たちが私を抱きしめてくれた。
「ありがとう、ドイツ軍に気を付けるんだぞ。」
「我々は絶対にここを離れない。」
「多分、もう会うことはないだろう。だが、死ぬなよ。絶対に。」
ここにいるすべての者が悲壮な決意を固めていることが痛いほどに感じられた。
もちろん、彼女も。
「あなたという日本人がいたことを、そして日本という国を忘れません。絶対に。」
「私の名は賢二。あなたの名は。」
「私の名はイレナ。」
「いい名前だ。」
「賢二、死んじゃ駄目よ。日本には待っている人がいるんでしょ。」
「イレナ…。あなたに会えてよかった。お元気で。」
「あなたも、必ず生きて日本へ帰るのよ。必ず。」
イレナたちに見送られ、南市街の救護所を後にした。
多分、彼らに会うことは二度とないだろう。
しかし、生きてほしい、何としても生きてほしい。
再びドイツ軍がいる地区を突破して、シェリングのもとへ向かうこととなったのだが、あと一息というところで、ドイツ軍の兵士に見つかってしまった。
「止まれ!」
指揮官であろう将校の軍帽には髑髏の紋章、軍服の襟にはSSの文字がある。
ナチスの親衛隊だ。
周りにいる兵士が銃をこちらに向けている。
「貴様、ポーランド人ではないな。何者だ。」
「日本人だ。ドイツの同盟国の者だ。」
やっかいなことになった。
よりによって親衛隊につかまってしまうとは。
この連中に道理など通じないだろう。
「ここを通してくれ。私はあなた方に敵対する気はない。」
「敵対しなくても、敵とは仲がいいんだろう。どうなんだ。」
蛇のような目で親衛隊将校は私を見ていた。
その目に恐怖を感じ、思わず走り出してしまった私に向かって親衛隊将校が叫んだ。
「止まれ、止まらんと撃つぞ!」
「ちくしょう、ここまでか!」
もう駄目だと思ったその時、上空から甲高いサイレンのような音がした。
次の瞬間、私の身体は吹き飛ばされ、一瞬だが気を失った。
「うう…、爆弾が落ちたのか…。」
顔を触ると血が流れている。
怪我を負ってしまったが、重症ではないようだ。
あたりを見回すと、親衛隊将校が倒れている。
他の兵士たちも吹き飛ばされ、生死も分からない。
上空を見ると十字の印をつけた爆撃機が飛んでいる。
ドイツ軍の爆撃機だ。
市内各所に敵味方が入り乱れているのだから、爆弾が味方の頭上に降ってきてもおかしくはない。
「助けてくれ…。」
声がする方を見ると、兵士が一人血だらけになって倒れている。
何かできないかと駆け寄ってみたのだが、明らかに助からないとわかる状態だ。
しかも、顔を見るとまだ子どもではないか。
こんな子どもまで戦争に駆り出されているのか…。
「お母さん…。」
そう言い残して、この若い兵士は目を閉じた。
「味方の爆弾でやられてしまうなんて、これも運なんだろうな。」
その後のことはあまり覚えてはいない。
どこをどう突っ切って帰ることができたのか。
イレナも親衛隊将校も、そして死んだ若い兵士も、愛するものや信じるものがあるのだろう。
それが、祖国なのか、家族なのか、はたまた思想なのか。
そういった意味では同じなのかもしれない。
これまでの自分は、何かを信じたことがあったのだろうか。
でも今の自分は…。