第4章
ストックホルムから海路でリューベックへ向かい、そこでドイツ入国となるのだが、入国管理官はシェリングの旅券を何度も見ていた。
当然だろう、明らかに東洋人ではないこの男が、なぜ日本の旅券を持っているのか。
しかし、教条主義とでもいおうか、規則に忠実なドイツ人らしく、規則に従って発行されたものは最後には認めてしまうのである。
しかも、私と言う正真正銘の日本人も一緒であるのだから。
私と二人で行動するのは、こういうことなのかと合点がいく。
ワルシャワでは、小野寺少将の築いた情報網とでもいうべきものがあるのか、シェリングは頻繁に誰かと会っていた。
ただし、決して一人では行動せず、私を連れまわした。
いたるところにドイツ兵がおり、しかも我々は、常にゲシュタポに尾行されていたのである。
いくら世情に疎い私ではあっても、シェリングがどのような情報を集め報告しているのかは想像ができた。
欧州の西側では上陸した連合軍がドイツへ向け進軍中であり、フランスのレジスタンスも勢いを増している。
そうなれば、欧州の東側でも何かが起きるのではないかと思うのは当然だろう。
実際にソ連の赤軍は近くまで進軍してきており、ワルシャワ市民が何かを期待しているような雰囲気が、街のあちこちからする。
「もしかしたら、赤軍に呼応して、ドイツ軍を相手に何かをやらかそうということなのか。」
「まあ、そう考える者もいるだろうな。」
「でも、シェリング、あなたは情報を集めるのが仕事だ。それ以上のことはやらないだろうな。」
「ここは、私の祖国だから。」
静かな言葉だったが、その言葉に彼の強い決意が隠されていることは私にも分かった。
日本の旅券を持っていても、彼はポーランド人なのだ。
嵐が来る前の静けさとでもいおうか、静寂の中にも、爆発寸前のエネルギーのようなものがワルシャワの街の中に充満しているのが感じ取られた。
私は、それを感じ取りながらも、何も起こらないでほしい、ただただじっとしていれば、静かな終わりがやってくるかもしれない、との淡い期待を抱いていた。
そして、1944年8月1日の夕方、市内に激しい銃撃の音が鳴り響いた。
ナチスドイツから祖国を解放するため、ワルシャワ市民が武器を取り蜂起したのだ。
赤軍がすぐに助けに来てくれると信じて、その一点に自分たちのすべてを賭けて。
いつの間に武器を集めていたのか、それともドイツ軍から武器を奪ったのか、彼らは市の中心部を占拠し、その勢いを増していた。
「賢二、君は小野寺少将のところへ帰りなさい。」
シェリングの言葉は予想されたものであった。
「あなたも一緒に帰るんだろうな。」
「私は…、私は、今、ここを離れるわけにはいかない。」
一言一言を絞り出すように、シェリングは答えた。
「はじめから、そのつもりだったんだな。」
「そうだ。」
無理もないだろう、自分が生まれ、身内や友人が住むこの国のために何かをしたいと思って当然だ。
私もそんな彼の考えに気づきながらここまで付いてきたのだ。
断ろうと思えば断ることができたのに。
「私も、もう少しここにいるよ。時代の変わり目をこの目で見てみたい。」
何とも愚かなロマンチストとでもいうべき台詞が、私の口から飛び出した。
そんな自分に感心しながらも、「ああ、やってしまったよ。」という気持ちが湧いてきたのも事実である。
子どもが強がった後に感じるような後悔とどことなく似ていた。
ただ、我々は軍人でも兵士でもないので、蜂起そのものに加わるわけではなかった。
そして市民全員が蜂起に参加したわけでもなかった。
無関係の市民の保護や戦闘に巻き込まれた負傷者の治療など、敵味方の双方を行き交うことができる者であるからこそ必要とされる場もあったのである。
蜂起軍に対するドイツ軍の怒りはすさまじく、武装SSカミンスキー旅団などは、盗賊と化してしまったかと思えるような略奪や暴行を行っている。
私とシェリングが苦心して開設した救護所も安全とは言えなかった。
「ここに、蜂起軍の者が潜んでいるようだが。」
「戦闘に無関係の市民を保護するためのものであり、ここに兵士はいない。」
こんなやりとりが、ドイツ軍の連中と日に何度も行われたが、日本人であることを示すことで、不思議と彼らはそれ以上の追及はしてこなかった。
「兄の言っていた、ある程度の安全の保障か、それとも三国同盟のおかげか。結局は自分の力ではないのだが。」などということを考えていた。
救護所といっても充分な人数の医者がいるわけではなく、戦闘の巻き添えになった市民が運び込まれても、見様見真似の治療ともいえないような処置を行うしかなかった。
そんなときだった、一人の医師がやってきたのは。
「私は、医者のハルダーだ。避難民の治療にあたりたい。」
あきらかにドイツ人であろう話し方だ。
「ドイツ人がワルシャワ市民の治療をするのですか。」
シェリングの問いに対し、
「医者と患者に国籍は関係ない。」
ただその一言だけを返し、彼は治療を始めたのである。
そんなドイツ人医師をドイツ軍将校が見逃すはずもなかった。
「貴様、ドイツ人だな。敵国人の治療を行うのか。」
「私の記憶では、ポーランドは5年前にドイツに降伏しているはずだ。それに、市民すべてが蜂起軍の一員というわけではないと思うがね。」
理にはかなっているなと感心する私の横を、理に逆らえないドイツ人の性なのだろうか、苦々しい顔をしながらも将校は歩き去っていった。
「先生、大丈夫なのですか、こんなことをして。」
なぜか笑顔で問いかける私に対し、ハルダー医師もまた笑顔で答えたのであった。
「私はオーストリア人でね。祖国はドイツに吞み込まれてしまってもう存在しない。もはや自分がどこの国の人間かも、分からなくなってしまったよ。しいていえば、医師というものが私の国籍かな。」
あちこちで、銃声や砲声が響き渡る中で、自分だけが静寂の中に取り残されたようだった。
強い愛国心もなく、怠惰に生きてきた者が、流されるように、そして興味本位でここまで来たのだ。
愛国心にあふれた者たちに囲まれながら、どことなく自分が異質なものに思え、それであるがゆえ一層の孤独を感じていた。
昔、これに似たようなことがあったな。
大学生の時に教室を間違ってしまった時だったか。
それと気づかず、教室に入り席に着き、講師も周りの学生も異物を見るような目で私を見ていたな。
あわてて赤面しながら退室したのだ。
でもまあ、蜂起軍と赤軍が合流したあかつきには、今回も無事に退室できるのかな、などと考えていた。
その時までは…。