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第3章

 リューベックからは船に乗り、パリを出発してから1週間も経ったろうか、ようやくストックホルムへ着いた。

 やはり中立国である。

 街を歩く人々の顔にも、どことなく余裕が見られ、ともすれば、戦争などどこで行われているのだろうかという錯覚に陥ってしまう。


 日本公使館の受付で紹介状を見せると、一人の男のもとへ案内された。

 それほど背の高くない眼鏡をかけた男。


「小野寺です。山城君から連絡はもらっているよ。紅茶でも飲むかね。」


「はい、いただきます。」


 陸軍武官だと聞いていたこの男は、軍人というよりは学者そのものであった。

 どことなく型にはまっていないであろうこの男に妙な親近感を覚え、挨拶あいさつだけで済まそうかという算段はどこかへ消えてしまっていた。


「ところで、仕事はどうするのかね。生活はどうするのかね。」


 いきなり核心を突いてくるこの男にますます興味がわいてきた。


「ある程度の蓄えはあるのですが、特に決まってはおりません。」


「それならば、私のところで働きなさい。」


「外交の知識もありませんし、ましてや、官吏かんりでもありませんし。」


 そう言いながらも、どのような答えが返ってくるのかを楽しみにしている自分がいた。


「大丈夫だ、東京帝国大学を出ているんだろ。」


 どんな小さなことでも情報を集めるのが趣味のようなこの男に、これからのことを委ねてみたいような気にもなった。


「シェリングという男のもとで仕事をしてくれ。彼がいろいろと教えてくれる。」


「承知しました。」



 どうも、のんびりとは生活できそうもないが、兄の手前、引き受けたからには責任を果たさなければならない。


 小野寺少将は公使館付きの陸軍武官であり、ヨーロッパ各地の情報を集めているようだった。

 そのためか、彼は多くの外国人との付き合いがあった。

 シェリングはその中の一人であり、ポーランド人であったが、それほど驚きもしなかった。

 ロンドンのポーランド亡命政府は確か連合国の一員であったはずだが、軍人と学者を足して二で割ったような小野寺少将なら、ありえなくもない。


「ポーランドの敵はドイツです。日本はロシア革命の時にポーランド孤児こじを助けてくれましたからね。」


 人のよさそうなシェリングはそう話した。

 地理的に遠く離れた日本とポーランドが戦争をするはずもない。

 政治上のいきさつから、日本とは異なる陣営に入った、それだけのことなのだ。



 小野寺少将もシェリングも、官吏でも軍人でもない私の職務能力にはそれほど期待していないようだった。

 シェリングのもとで、文書の翻訳ほんやくや配達などを行っていたのだが、それがどう利用されるかということは、私の経験では知るべくもなかった。

 ただ、私が日本人であるということが、利用価値ではないのかとも思われた。

 だからといって、シェリングとは他人行儀(ぎょうぎ)というわけでもなかった。


 彼は私に話してくれた、祖国ポーランドのこと、今は生死も分からなくなってしまった両親のこと。

 日本人以上に義理堅ぎりがたいような男であり、それゆえに小野寺少将の信頼を勝ち得たのだろう。

 戦争が終わったらポーランドの大学で教鞭きょうべんをとりたいなどとも話していた。

 私も、日本にいる両親のこと、パリの兄のこと、もう忘れてしまいそうな恋愛の経験などを話し、一時ではあるが戦争を忘れることができた。

 私のような変わり者と話が盛り上がるところを見ると、彼も相当な変わり者だとも思えた。



 中立国ゆえの緊張感のない毎日であったが、仕事にもストックホルムの街にも慣れてきたころであったろうか、その知らせが飛び込んできた。


「連合軍がフランスのノルマンディーに上陸した。」


 ついに来たのか、やはり静かな終わりなどはなかったのか。

 そんな思いとともに、兄のことが気になったが、確かめる手段も持ち合わせていない私にはどうしようもなかった。


「私とワルシャワへ行ってくれないか。」


 シェリングからの唐突とうとつな申し出であった。

 彼は小野寺少将の手配による日本公使館発行の旅券などを用いて、スウェーデン以外の国にも行くことができるらしい。

 しかし、亡命ポーランド人が、ドイツ占領下のワルシャワでも活動できるのであろうか。

 ゲシュタポもそう簡単には見逃してはくれないだろう。

 日本人と一緒の方が安全ということなのだろうか。


「私は外交官だから、ある程度の安全は保障される。」


 兄の言葉が思い出された。

 何となく、この退屈な曇り空の下のような生活にもきてきたころなので、シェリングの申し出を引き受けた。



 ワルシャワへ向かう前に小野寺少将のもとへ挨拶に伺った。


「賢二君、すまんね。シェリングが、どうしても君に同行してもらいたいとのことなのでね。ただし、危険を感じたらすぐに帰ってくるんだよ。」


「お気遣きづかいありがとうございます。ですが、もともと、何がしたいということもないので。役立たずですが。」


「君はそんな人間ではないよ。」


 言葉少なに小野寺少将は私の手を握った。

 しかも、軍人らしい握手ではなく、私の右手を彼の両手が包んだのである。


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