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第2章

「日本人の団体が、パリ見物をしていた。」


「紺色の軍服だった。セーラー服を着ている者もいた。」


 日本人学校の生徒がさかんにそのような話をしていたが、にわかには信じられなかった。

 だいいち、日本からどうやって地球の裏側のフランスまでやって来たというのだ。

 だが、よく考えると、過去にも似たような話を耳にはさんだ記憶がある。

 そうか、日本海軍の潜水艦がはるばるインド洋と大西洋を越えて、フランスへやってきたに違いない。

 もともと、それほど日本という国に愛着を感じていなかった私は、彼らと接触を図る気にもなれず、この極東からやって来た深海の使者が、実は不吉な使者でなければよいのだがという程度にしか考えていなかった。



「賢二、ちょっといいか。」


 私のアパートに突然の来客、パリの日本領事館に勤務する兄の山城正一であった。


「パリを引き払って疎開そかいする気はないか。」


 フランスがドイツに占領されて4年近くが経つ。

 日を追うごとにドイツ軍は劣勢に立たされ、連合軍の上陸も近いのではと噂される中、中立国のスイスやスペインへ疎開する日本人も出始めていた。


「もしかしたら、上陸してくるのか。」


「いや、そうとも限らないが。」


 兄は何か言いたげではあったが、表情から察してほしいという気持ちだけは伝わってきた。


「でも、あてもないのに、どこへ行けばいいんだ。まさか潜水艦で日本へ帰れなんて言うのではないだろうな。」


 私は少し皮肉めいた言い方をしたのだが、兄はいたって真剣であった。


「ストックホルムに小野寺少将という人がいる。前の勤務先で、私の上司だった人だ。その人を頼って、ストックホルムへ行く気はないか。」


 兄には幼いころから幾度も助けられた。

 ただ、不思議なことに、私というお荷物の扱いを楽しむようなところがあり、そのせいもあってか、私も兄の言うことを素直に受け入れてきた。


「必要なものはすべて用意しておくから、1週間後に領事館に来るんだ。」


 手短に話を終わらせると兄は帰っていった。

 多分、外交官という立場上、いろいろなことが耳に入ってくるのだろう。

 兄の言うことだからというわけではなく、厄介やっかいごとが嫌いだという私の性格が、兄の忠告を受け入れた一番の理由であった。



 これでパリも見納めか。

 日本とドイツが同盟を結んでから、我々日本人に対するフランス人の態度も何となくではあるが、冷たいものに変わっていた。

 そんなことを感じていたので、それほど寂しさを感じることもなかった。

 ごたごたが終わるまでストックホルムで身をひそめて、落ち着いたらまた戻って来ればいい。

 楽観的というか、怠惰たいだな性格であるがゆえ、この混沌こんとんとした時代をそれほどのストレスもなく生きられるのだろうかと思うと、おかしくもあった。



 私の上司である校長に疎開とそれに伴う辞職について相談したが、引き留められることもなくあっさりと了承された。

 同僚教師である日向ひゅうが先生に事の顛末てんまつを伝えた。


「スウェーデンへ疎開することになったのだが、校長に引き留められることもなかったよ。寂しいものだ。」


 心の内では引き留められることを期待していたのであろうが、それは自身の過大評価であったのか。


「実は、私もスイスへ疎開する予定なんだ。ほかにも何人かいる。校長の家族はとうにスイスへ疎開済みだ。校長自身だって、いついなくなってもおかしくないんだよ。」


 日向先生の言葉に驚きもしたが、校長が私を引き留めなかった理由に納得もした。

 沈みゆく船にいつまでも留まるもの好きもいないだろうが、校長がよく口にする生徒への愛情とは、愛校心とは何だったのだろうか。

 まあ、私も金を稼ぐ手段として教師をしているのだから、他人を批判できたものではないが。


「戦争が終わったら、またいつか一緒に仕事をしよう。」


 日向先生の言葉に相槌を打ちつつも、

「沈んだ船が再び浮き上がるものだろうか、潜水艦でもあるまいし。」

などと考えていた。



 翌日、パリの日本領事館を訪ねた。


「山城正一に会いたいのですが。弟の賢二です。」


 多忙を極めているのであろう領事館の受付の男は私とは目も合わせず、電話で兄を呼び出していた。

 ロビーの椅子で待つことになったのだが、行き交う人物を観察しているだけで、何時間でもつぶせそうな気になった。


「藤村さん、今晩、食事でもどうですか。」


「すまんが、すぐに、ヴィシーへ帰る。」


 そんな会話の方へ視線を向けると、明らかに日本海軍の軍服をまとった、どこか尊大めいた男がいた。

 頭を下げる領事館員の前を、ろくに挨拶もせず通り過ぎるこの男は、手柄を立てたいのか、勲章くんしょうの収集が趣味なのか、そんな考えで生きているのであろう。

 頭の中で想像をふくらませるだけで、一つの物語ができそうだった。


「賢二、待たせたな。」


 聞き慣れた兄の声だった。


「ビザ、紹介状、ほかにも必要なものはすべて用意した。」


 兄の顔には疲労とは違った影があった。

 言いたいことがたくさんあるのだろうが、全てを飲み込んだような顔だ。


「兄さんはどうするんだ。」


「私は外交官だから、ある程度の安全は保障される。でも、お前は民間人だから。」


「そうか。でも、またいつかここに戻ってくるよ。」


「そうだな。」



 日向先生との会話を思い出していた。

 他人に「またいつか。」と言われたときには、

「そんなことあるはずないだろうに。」と思いながらも、兄に対して同じ言葉を言っている私がいる。

 人間の発する言葉には、それほどの重みというものが存在しないかのようである。

 しかし、そう思わせた理由は私のこれまでの生き方なのだろうか。

 愛情を注いでくれる兄に対し、小さな裏切りをした自分が情けなかった。

 私は、見送る兄に向って振り返ることもせず、まるで父親にでも厳しく叱られた子どものように黙って下を向いて歩き去るだけだった。

 振り返ったら最後、今生の別れのような気がして、どうしても振り向くことができなかった。



 パリからリューベックまでは、いくつもの列車を乗り継いでの移動になったのだが、時刻表などあてにはならなかった。

 いつ出発するともしれない列車の座席に座り続け、1マイルでも先に早く進んでほしい、そんなことばかり考えていた。

 逼迫した食糧事情であるがゆえ、食堂などで気軽に食事をできるわけもなく、ましてや食事中に列車が出発でもしようものならと思うと、駅の外へ出る気にはなれなかった。


「大量の缶詰かんづめを持っていけと言っていた理由はこれだったのか。」


 兄に言われ、パリで集めた缶詰を食いつなぎながらの旅であったが、フランスとは違った風景を楽しんでもいた。


 アムステルダムでは、翌日の昼にならなければ列車が出ないとのことだったので、その間、市内見物でもしてみようかと思い立った。

 あてもなく市内を歩いていたのだが、何かの会社事務所が入っている建物の前を通りかかったとき、4階の窓から誰かがこちらをのぞいているような気がした。


「女の子?」


 建物の窓の方を振り返った瞬間、女の子の姿が見えたように思えたのだが、気のせいだったのだろうか。



 翌日、アムステルダムを出発した列車は、古代遺跡のような、いや、廃墟のような街に着いた。


「ハンブルクだ…。」


 そうつぶやいたきり、全ての思考が止まってしまった。

 何百年とかけて造られた都市が、空襲によりただの石と砂のかたまりになってしまったのだ。

 敵兵が攻めてこずとも、空からの贈り物だけで、人間のつくり上げた文明の全てを消し去ってしまう。

 これが、現代の戦争の形なのだ。

 パリもこうなってしまうのか、父や母のいる東京は。

 影を宿した兄の顔と廃墟となった街並みが、重なって見えた。


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