5.不審者
自分の服を見る。
普段着にできる物が今はこれ一着しかないので、あまり頻繁に洗濯できない。皺は寄っているしところどころに謎の染みがある。
手足の肌を見る。
薄くなってきたとはいっても火傷の跡はまだ残っていて、皮膚がポロポロ剥がれかけになっていたり、黒ずみがとれていない。
まぁ、汚くないとは言い切れない。
しかしだね、初対面の男からぶしつけに言われる筋合いは無いわけですよ。
失礼なやっちゃ。せっかくお爺さんが用意してくれた一張羅なんだぞ。中身だって本来のクロワルチェは絶世の美女だったんだぞ。さらにその中身がわたしなので台無しどころじゃないけど。
「まぁいい。行くぞ」
「は?」
強引に腕を掴まれ引っ張られた。こけそうになっても、失礼男はおかまいなしに歩を進めようとする。
え。ちょっと。なにこれ誘拐?
いかん、こいつもダメなほうの人だった。むしろさっきの脱走兵たちより厄介な手合いだ。抵抗したらわたしも飛ばされちゃうかも。
「ちょ、ま、離して! どこに行く気!?」
「決まっているだろう。父の元へ連れていく」
いきなり親御さんへご挨拶ですか。緊張しちゃうなー。
どうしようこの人アホかもしれない。しかも意思の疎通をしないタイプ。
えーいナンパか誘拐か知らんが、話を聞け!
ゴン。
引っ張られながらもどうにか片手が水瓶に届いたので、思わず失礼男の白い頭に叩きつけた。
あ、マズイ。凄くいい手応え。具体的には必殺の手応え。
殺っちまったか……?
「……なにをする」
鋳銅製のしっかりした水瓶をちょっぴり頭にめり込ませながら、男は心底鬱陶しそうな顔を浮かべた。こ、この野郎……そんな顔したいのはこっちのほうだ。
「なにじゃない! 助けてくれたのは感謝してるけど、ついていく気なんてわたしにはありません!」
「なぜだ」
「ナゼもナゾもあるかい! 知らない人についていっちゃいけませんって子供の頃に言われたでしょ!」
と言うと、男は腕を組んでしばらく考えこんだ。眉間に皺を寄せて、足元を睨んでいる。
たっぷり数秒ほど悩んでから顔を上げると、
「――記憶に無いな」
あんたの家の教育方針なぞ知らんわ。
「とにかく来い。身体は治ったんだろう」
こいつ反省してねぇ! 見りゃわかんだろまだお肌パリパリじゃい!
頭に水瓶を乗っけたまま、ぐいぐいこちらの腕を引っ張る男。攫われるーおまわりさーん!
ふと見れば、通りの角から様子を窺う何人かの人影があった。どうやらわたしと同じように水を汲みに来た人たちだ。
お、お助けぇ。全力で懇願を視線に乗せてみるが、面倒事に関わりたくないのか気の毒そうな顔を返してくるだけである。無情の街ベクステア。
だが男もそちらに気がついた。注目を集めていることがわかったのか、ひとつ舌打ちをするとあっさり手を放す。
「…………」
こいつはなにを考えているんだろう。そんな目をこちらに――だからそれはわたしがするべき顔ですよね――向けてから水瓶を押しつけてきて、
「……来る気になったら言え」
それだけ言って、すたすた歩いていってしまう。
空の水瓶を抱えたまま、茫然と見送るしかなかった。
……おっかないねベクステア。ヤベー人がいるね。
ベイモンさんが正しかったわ。これは気軽にお外へ出ちゃダメだ。可能な限り家の中でじっとしてよう。
とにかく水だけは、とそそくさ井戸から適当に汲んで、足早に帰る。先ほど覗き見していた人たちが相変わらずこちらを見ていた気がするけど、かまっていられない。
ちょっと重たくなった水瓶を運びつつ、ふと思った。
そういえばあの男、なんでわたしの身体が治ったかなんて気にしてたんだろう。
◇
ベイモンさんが帰ってきたのは、日が落ちてすぐのことだった。
外の様子をひどく気にしながら、バタバタと荷物をあれこれまとめている。
なんか嫌な予感。
「クロワルチェ様、申し訳ありません。すぐに出る準備を」
「なにかあったの?」
「……反乱軍がすぐ近くまで来ております。数刻もせず攻め入るつもりでしょう」
げげ。また逃亡生活?
もうクロワルチェもパパ伯爵もいないのに、なんでいつまでも続くのさー。もっと頑張ってよユニウス君の実家。
あ、でもわたしがここにいるんだからまだ終わってない? のか? むう。
「で、でもなんでここに? この街を攻めてもあんまり意味が無いんじゃ」
「聞き及ぶところ、連中はフラムンフェド家の仇討ちを標榜しているようで。クロワルチェ様や旦那様が公的に没されたのはここよりほど近くですから、この地を再反抗の中心とするつもりでしょうか」
はた迷惑な! そんなのいいからゆっくり眠らせてあげなさいよ! ていうかわたしがゆっくり寝たいんだよ!
「それに、ここの領主であったグウィックス・ハンゼニーは真っ先に国軍へ寝返ろうとしたことが広まっています。反乱軍としては意趣返しの意味もあるのでは」
あー、あの人ね。いたねそんな人。
反乱勢力の半数近くまで賄ってやる気満々みたいなフリしてたのに、いざ内戦が始まったらすぐ裏切ろうとした人ね。
元からクロワルチェに取り入ろうとしたり逃げたりの繰り返しだった人だし、元からそのつもりだったんだろうけどね。こっちもわかってたからあっさり暗殺して勢力そのまま丸めこんじゃったけど。
……結局、ここが荒れてるのもこれから攻め入られそうなのも、元を辿ればクロワルチェのせいでは? あっはっは、親の因果が子に報い。親でも子でもないわ。
「ともかく、彼らはもはや軍というより暴徒に近い。今この街中には呼応して非道を働く者も多いでしょう。一刻も早く離れなければ」
「って言っても、どこに?」
「クアンズ・オルメンに向かいます。念のため関をかわしますが、あの街なら入れさえすればさほど危険は無いはず」
たしか、西の海沿いにあるでっかい港町だっけ。こんな状況じゃなければちょっとした旅行気分だったろうに。ああ、お魚食べたい。
「馬車――いえ、せめて馬だけでもあればいいのですが、用意がありません。お許しください」
「え、いや、そんな全然平気ですし! ほら、足もよくなってきたし、ちょっと隣町まで歩くぐらいもうへっちゃら!」
言ってもベイモンさんは申し訳なさそうに苦笑するだけだった。
そんなにしてくれなくてもいいのにー。本当にどうしてこんなに世話を焼いてくれるんだろう。クロワルチェなんかした? いや悪いことはたくさんしたんだけども。
遠く、屋根の並びの向こうで火の手が上がった。うぎゃー、また火だ!
どうやら反乱軍の侵攻はとっくに始まっていたらしい。通りのそこら中に逃げ惑う人々の姿。それから、これ幸いの火事場泥棒の姿。たくましいわ。
人の群れに潜るようにして、被った頭巾をさらに深くする。先を行くベイモンさんと逸れないよう、可能な限り急ぐ。
正直なところ、そろそろ靴の中にちょっと血が滲みそう。慣れない靴に火傷の残った皮膚。少々ハードかもしれんのう。
でも言ってる場合じゃないからね。泣き言はまとめて後で言おう。
代わりの悲鳴は前方から聞こえた。
「ひ、人狩りだー!」
悲鳴と共に蹄の地ならしと、金属が肉を裂く嫌な音が届く。
急に流れが反対へ向いた人波に押されて、危うく倒れるところだった。こんなところで倒れたら踏んづけられちゃうよ!
ベイモンさんに支えられて顔を上げれば、四、五人の騎士が、馬上から剣や槍を振るっていた。その度に逃げ遅れた人たちが散り飛ばされる。
あぁ……どうもお久しぶりです。
騎士のような姿だけど、あれは騎士じゃない。
あの特徴的な黒い兜はクロワルチェ印の特注品だ。彼女の私設兵の中でも、特に有能で、特に彼女へ心酔していた人たちに与えられた代物。
内乱の前から各地で暗躍して、目ぼしい人間がいたら攫って洗脳することまでやってた人たちだ。いざ戦になったら対公国軍の主力になった人たちだ。
まだけっこう生き残ってたんだね。かなり減ったと思ってたんだけどなぁ。もしかしてこの戦乱が終わらないのも、彼らが頑張っているからだろうか。
『人狩り』と呼ばれる彼らは、今もまだクロワルチェのために戦っているのだろうか。
さて、そのうちのひとりがゆっくりと迫ってくる。
困った。さすがに馬の足から逃げるのは難しい。というか今のわたしでは馬でなくとも難しい。
どうしよう。
どうもこうも、たぶんあの人たちはわたしが顔を見せればすぐさま平伏する。そうなるようにした。クロワルチェが。
このままではベイモンさんも周りの人たちも殺されてしまうのだから、そうすればいいのだ。そしたら助かる。たぶん。定かではないけど、自信はある。
それからは、反乱の首魁として復活のクロワルチェをすればいい。それだけ。
でも、でもダメだ。
たとえわたしという偽物でも、あれを復活なんてさせちゃダメだ。よくない。この国の人たちにとって、よくないことにしかならない。
今、目の前で剣を振り上げるこの人たちにとっても。
あの子は、あの災厄のような娘は、燃える屋敷の中で消えるべきだった。
わたしがここまで連れてきてしまった。
ならやっぱり、ここで名も無い被害者として消えたほうがいいのでは――
そこまで考えた時。
突き飛ばされて、大きく転がった。振られた剣が空を切る。
「――お逃げください!」
ベイモンさんが叫ぶ。人狩りの矛先を引きつけている。
いや、ダメだよお爺ちゃん。危ないよ。わたしを差し出したほうがいいんだよ。死ぬにせよ顔を見られるにせよ、少なくともあなたは助かるんだよ。
強くこちらを見据える目が、それをさせない。
逃げろとその目が言っている。あるいはもしかしたら――わたしでもクロワルチェでもない誰かに向けて。それでも、わたしを庇っている。
ここでわたしが留まれば、きっと台無しになる。彼の思いはわからないけど、無下にしちゃいけない。
走る。路地裏へ飛びこむ。
背後からは、剣戟の音が続く。あぁ、ヤだなぁ。イヤだなぁ。ベイモンさんが死んじゃったらイヤだなぁ。どうかあの人も無事に逃げられますように。ほんとダメだよ。わたしなんかよりああいう良い人が生きてるほうがいいに決まってる。
足が痛い。皮が破けたかもしれない。でも止まるな。
なんだよもう。なんだよもう! なんでこんな目に遭ってんだ! それもこれもクロワルチェのせいだ! 本当にそうだから始末に負えない。
路地を抜けた先では、手に手に凶器を持って暴れる集団がいた。
反乱軍、という名の単なる暴徒。そんなふうに言ってたっけ。たしかにこの有様ではそのとおりだ。
そのうちのひとりがこちらを向いた。この中を突っ切る? 無理を言うな。
ちくしょう、せっかくベイモンさんが逃がしてくれたんだ。ただじゃ死なんぞ。
懐に忍ばせていた短剣の柄を握る。
こちらへと標的を定めた暴徒が、一、二、十、二十――うわーん! ちくしょー! ただじゃ死なんぞー!
突撃してきた集団は、ポロポロと一斉に首を落とした。
……え。
え、え? うわぁ血が。血が。
混乱する後続の中をすり抜けるようにして、誰かが目の前に。返り血のひと雫すら浴びていない。
遠くの火の手が辺りを照らして、白く染まった髪を露わにする。
「――来る気になったか?」
え。