4.汚物
「――これは戻らぬやもしれません。処置が遅かった」
「ですよねー……」
わたしの額に手を当てながら、お爺さんは渋い顔をした。
手早く磨り潰した薬草を布に含ませ、火傷に当てる。上から包帯を巻けば左目はすっかり隠れてしまうけど、こればかりはどうしようもない。
でも手足や頬に残っていた罅割れのような染みのような細かい火傷はずいぶん薄まってくれたし、喉も――声はなかなか戻らないけど――かなり回復してきた。ここまで良くしてもらったんだから、文句なんてひとつも無いよ。
一か月が経った。
わたしは、あのとき見つかったこのベイモンお爺さんに匿ってもらっている。
お爺さんって言ってもパパ伯爵よりちょっと上くらいなんだろうけど、老けて見えるんだよなー。頭もモジャモジャの髭も殆ど白髪だらけなんだもん。苦労したのかなぁ。苦労したんだろうなぁ。
この人はかつてフラムンフェド家のお抱え医師だった人。よーく記憶を思い返してみれば、たしかに見たことあったかも。
ただ、かなり前にクビになった。ずーっとクロワルチェは病気じゃないかって疑ってたからね。あの子にそんなこと言い続けたらまぁ追い出されますわ。
各地を回って、最終的にこのベクステアで小さな診療所を開いて暮らしてたんだってさ。
おかげでボロボロだった身体を治療してもらうことができた。というか最初の三日くらいはほぼ気絶してたし、気付いたら包帯でグルグル巻きだった。
なによりありがたいのは屋根の下でベッドに入って眠れることだよ……あとご飯はやっぱり温かいものがいいよ……ああ、わたしの中で生活のハードルが下がっている。
とりあえず、野生動物のように怯えながら夜を過ごさなくてよくなった。
ただベイモンさん、なんで助けてくれたんだろう。彼もクロワルチェから理不尽な目に遭わされた人のひとりのはず。助けるよりも復讐する対象だよね。
……もしや自分の手元に置いて、じっくりたっぷりいたぶるつもりでは。今はちょっと小突いたら死ぬレベルで弱ってるし、少し回復させてから。
アホな想像はともかく、クロワルチェの所業はもはや国内に広まっている。ベイモンさんが知らないわけはないのだ。そのうち彼の報せを受けた公国軍が身柄を押さえに来てもおかしくない。
油断はできない。のだけど――
「クロワルチェ様。ようやく寸法の合いそうな靴が見つかりました。みすぼらしい代物で申し訳ありませんが」
「あの、ベイモンさん」
「……追われた御身とはいえ、身分は変わりません。呼び捨てで結構。ふむ、問題なく履けそうだ。くるぶしは当たりませんか? 傷に障らぬよう、なるべく慣らしていきましょう。歩く体力を戻さなければ」
優しいんだよなぁ。超優しい。
今わたしが来ている服も、彼が外からどうにか見繕ってきてくれた物だ。染めも無い簡素な貫頭衣とショールをガードルでまとめているだけだけど、少なくとも焦げて穴だらけのドレスやボロ布なんかよりはるかにマシ。
そして、この街の現状でそれを用意してくるのがどれだけ大変かは、わたしにだってわかる。
思惑がありそうなわけでもないし、クロワルチェを恐れているというふうでもない。純粋に優しくしてくれてる気がするんだよなー。
でもときどき、わたしの向こうに誰かを見ているような……うーん?
まぁ優しい蜘蛛さんがいたくらいだし、優しい人がいたっていいよね。せめて身体が痛むうちくらいは甘えよう。
あースープおいしい。豆がちょっぴり入ってるくらいだけど、卵の殻だけシャリシャリ齧ることに比べたらご馳走だよ。
「明日、私はしばらく外出いたします。薬が減ってきたもので。クロワルチェ様はどうかこのまま身を潜めておいでください。最近、反乱勢力がこの街に近づいてきているという噂もありますので」
困ったことに、クロワルチェ及びフラムンフェド家という反乱の首謀者が没しても内戦は終わっていなかった。
どうも残党が各地でまだゲリラ的に活動を続けており、完全な鎮圧に至っていないのだという。
よくないなぁ……これもしかして、わたしが出てって参りましたとか言ったら止まるのかな。いやここまで来たらそれだけで済むような話じゃなくなってそう。
「ねぇベイモンさ――ベイモン。ちょっと外に出たりっていうのは」
「危険です。気持ちはわかりますが、堪えていただくよりありません」
「そうだよね……」
しばらくふたりでモソモソ食事を続けた。
ベイモンさんは口数が少ない、というわけではないが、必要以上のことはあまり話さない。
だからやっぱり、どういうつもりで匿ってくれているのかわからないのだ。
「――噂って」
「はい」
「その、反乱勢力って、もしかしなくてもわたし側なわけで……そこに逃げこもうとか、考えちゃったりするかも、とか、なんかそういうのは……」
「……そうすると仰るならば、お止めはいたしません」
「え。そ、そうなの?」
「ですが――そうはしない気がしています」
「……なんで?」
「貴女が私の知るクロワルチェ様だからです。いや、町娘のような話し方をなさる人ではありませんでしたが――少なくとも、悪鬼のような所業をされる子などではなかった」
あ、喋り方。ヤベ、ぜんぜん気にしてなかった。なんかもうちょっとお貴族ご令嬢みたいにやったほうがいいかな。おほほとか言ったほうがよかった?
それはともかく、そういえばわたしが入る前のクロワルチェってどんな子だったんだろう。わたしの知ってるのは嫌がらせで人を追いこんで弱みを握るのが好きで兵法書や呪術所を読むのが趣味のクロワルチェだもんな。
……もし人が変わったようになったのなら、そりゃ病気と思うよなぁ。ん? まさかと思うけど、それわたしが入ったタイミング?
あれ? 病気ってわたし?
「悪しきものは去った――と、私は信じております」
すいません、バリバリ入れ替わってます。
◇
そこそこ体力が戻ってくると、家の中でじっとしてるのはやっぱり暇だね。
使わせてもらっている部屋のひとつでぼんやりしていると、喉が渇いてきた。まだ万全ではないので、渇きを覚えたらすぐに水を飲むようにと言われている。
おトイレ近くなっちゃうのが困るんだよねー、なんて思いながら土間にある水瓶までやってくると、中が空に近い。
ありゃ。汲んでこなきゃ。
水道が無いって本当に不便。薄っすら茶色でちょっぴりボウフラが浮いてるくらいもうなんとも思わなくなったけど、運ぶのが大変なのよお水って。
と、少し考える。
水を汲むとなると、少し歩いた先の共同井戸まで行かなければならない。
外に出るのは止められている。
…………
まぁでも、水は飲まないとね。喉がイガイガするしね。これは不可抗力だよ。
というわけで、コソーっと外の様子を伺い、コソーっと出て、コソーっと通りの周辺を覗く。よし人影は無い!
楽勝楽勝と思っていたら抱えた水瓶がなにかに当たってゴワンと鳴った。なんでこうわたしは注意力が続かないんだ。
とりあえずさっさと水を入れて退散しよう。
井戸車の扱いに四苦八苦していると、
「おい、女だぞ」
振り向けば、なんだか見覚えのある服装の男が三人ほど。
どこで見たっけ――あ、そうそう。街に着いてすぐの頃に襲いに来た人たちだ。武装してるからどうしようもなくて結局ひと晩中逃げたんだよね。
革鎧の刻印を見る限り、たぶんフラムンフェド領が集めた兵隊さん。脱走兵かなにかだと思う。
「待て、こいつあの病持ちじゃないか?」
「あぁ? あんな物乞いがなんでこんな身綺麗にしてんだよ」
「いやでも、あの頭の包帯……」
「おいおい、肌は汚ぇが、着飾りゃそれなりじゃねぇか」
うん。どう考えても大ピンチ。フラグってあるんだなぁ。
あ、短剣も置いてきちゃった。逃げ――井戸の先ってたしか行き止まりだっけ。
……お、お爺ちゃーん! たすけてー!
男のひとりがこちらに手を伸ばしてきた。ぎゃー! お嫁に行けなくなる!
伸びてきた手は、そのまま天を向いた。
肘でも手首でもなく、その中間で曲がっている。
「へ?」
「へ?」
わたしと男の声がハモった。
気付けばわたしの隣に、今度は本当に見知らぬ長身の男の人が立っている。
「な、なんだおま」
脱走兵のひとりは言い終わらないうちに飛んでいった。実際に飛んだ。横に。
殴られた――のかなぁ? よくわからなかったけど、ズンって重い音がしたからなにかしたんだとは思うんだけど。
腕の折れた兵が悲鳴を上げながら逃げていって、残った最後のひとりも飛ばされた人を抱えて逃げていく。
た、助かった。ていうか、助けてくれた? のかな?
「あの、あ、ありがとう」
逃げ去る兵たちを見送る顔は、わたしの頭もうひとつ分は上にある。背ぇたっかいなー。
ともかくお礼を言うと、その顔がこちらを向いた。
なにを考えてるのかわからない、ぼんやりした――細いというか眠そうというか不機嫌そうというか――目。鼻も頬も顎も細い。
なんか、こう……陰気な人だな。半端に伸びた髪も整えようという意思が感じられない。でも白髪、ってわけでもないし銀、ってわけでもない濃い白の髪色のおかげでそこだけちょっと明るいね。
「…………」
めっちゃ見てる。目が合って、なにか言うのかと思えば黙っている。
「…………」
え。なにこれ。
なんか言って。
「…………」
合っていた視線が逸れた。
どうも足先まで眺めて、またこちらの顔まで目線が戻ってくる。そんなあからさまに舐め回すような見方しないでよ。セクハラですよ。
「……汚いな」
ひどくない?