2.脱出
左手を上げる。目の前に手のひら。
右手を上げる。目の前に手の甲。あとちょっと返り血。
おー、身体だ。自分で動かせる身体だ。
何年ぶりかな。いやー、改めて考えてみると、なかなか感動するもんだね五体満足っていうのは。
あ! そういえばわたし、呼吸ってものをしてなかった気がする! 今さら気付いたけど、ほんとどうなってたんだろ。
ともあれ、生命の神秘に思いを馳せつつ、深呼吸ー!
煙と熱風を吸いこんで死にかけた。せ、生命! 行かないで生命!
「うげぇほっ! えほっ! 熱、あぁつっ! あぎゃ、熱い!?」
バカなことやってる場合じゃない! この状況どうにかしないと!
辺りは相変わらずの火の海。煙に塗れて視界も悪い。今ちょうど天井の一角がボロっと崩れて落ちてきたし、壁の向こうでなにか――たぶん柱――が倒れた盛大な音がしたし、着ていたドレスの裾は焦げてグズグズになっている。
茫然としていると、着実に着実に炎の舌は這い寄ってきていた。
お? やっぱ死ぬんじゃねこれ? 逃げ場ないぞ?
「く、クロワルチェ~……」
な、なんでこんなタイミングで。よりによってこんなタイミングで、なんでわたしが動けてるの!?
あの子は、クロワルチェはどこに行った。まさか本当はいつでもいなくなることができて、熱いの嫌だからってこっちに押しつけていったんじゃ。あいつならできそう!
いやそんなこと考えるのも後。とにかく、焼け死ぬなんてわたしだってイヤだ。どうにか、どうにか脱出を――
天井の穴から炎をはらんだ熱気の渦が流れこんできて、顔の皮膚がちょっとパリって鳴った。
うぎゃー! 熱い! あつぅい! イヤじゃー! 死にたくねー!
しかしおかげで、部屋の中央を隔てていた火柱が煽られわずかに割れる。
ちゃ、チャンス? ここで飛びこまないとあとは火に巻かれながら崩れる屋敷に潰されるだけな気がする。
気がするだけ。行くも死、留まるも死。
行くしかねぇ!
「行きたくねぇ~……」
口から本音が垂れ流れるのを抑えられないけど、それでもやらなきゃここでジエンドなのは理解している。
だから足元に落ちていた剣で、足にまとわりついて邪魔なドレスの裾を裂いた。うわぁちょっとミニスカになり過ぎた。どうでもいい。
できればもっと布量が欲しいけど、カーテンなんかはすっかり燃え上がっちゃってるし、使える物がこれしかなかった。仕方ない。
頼りなさすぎるドレスの切れ端を両手に巻いて、せめて顔を守る。
火勢がほんのちょっと小さくなった場所を目掛けて、ダッシュ! これで焼けたらもうどうしようもない! 神とクロワルチェを恨んで死んでやる!
駆け抜けながら、視界の端の端に黒く焦げて丸まった何かがあることに気付く。
パパさん……わたしは正直、ぜんぜん思い入れも無かったし、いろんな事の元凶のひとりだったような気もするけど、いくらなんでも哀れだなぁ。成仏してね。
よそ見してたら壁に激突した。部屋の外の廊下の壁。
よっしゃあ突破! 生きてる! 燃えてない! 目の前は燃えてる! だよね!
廊下も当然のように火の海、どころかもはや所々の床も天井も崩れ始めていて、地獄の入口かな? という有様だった。
ここは二階の奥。無事に逃れようと思うなら、少なくとも一階に下りてからさらに外まで辿り着かなければならない。
ならない。とか言っているうちに足元がメキメキ鳴りだした。
迷ってる暇が無ーい! どうか崩れないで廊下! まだ落ちないで天井! こっちに来ないでファイヤー! 煙もイヤー!
クロワルチェはある意味で非常に勤勉な女性だった。
貴族の令嬢が剣や武芸の稽古などすることがあるのか、わたしは知らない。知らないし、少なくとも聞いたためしは無かった。
しかし彼女は普通の令嬢ではない。計略と策謀でもって国を混乱に陥れたが、結局のところ最後に用いる手段は暴力だ。であるならば、己にも直接的な暴力の行使を可能とすることを望んだ。
具体的に言うと、けっこう鍛えてた。
わっほーい階段の上から飛び降りてもぜんぜん平気ー。足くじくかと思ったんだけどなー。いや階段が燃え落ちてなかったらこんなことしなくてよかったんだけどさ。
わたしこんな運動神経よかったっけ? 他人の身体だから遠慮が無くなってるのかなー。とにかく床が抜けなくてよかったー。
そこまで考えて、ちらと腰を見る。無理やり括って持ち出してきた、豪華な装飾の鞘に包まれた剣。剣と言うにはちょっと短い。ナイフよりは長い。
公子を刺して、パパ伯爵を殺すのに使われた短剣。
そりゃドレス姿の女の子がいきなり座頭市みたいな動きで斬りつけに来るとは思わないよね……
案の定、刃は鋭く砥がれたものに差し替わっていた。これもクロワルチェの仕込みだったっけ。色々やってたもんだから覚えてないよもう。
ユニウス君、無事かなぁ。思いっきりぶっ刺さってたもんな。なんとか助かってくれないかな。シルウィールちゃんも心配。
なんて考えてると後頭部の辺りをチリチリ炙られた。あ、すんません熱いっす。そっすねまだ絶賛炎上中ですね。ぼうっとしました。
さて、一階には降りられたし階段は玄関ホールの目の前なので、相変わらず炎に囲まれてはいるものの出口はすぐそこである。
ただもっと大きな問題が。
このお屋敷、包囲されてたんだよね。公子の率いてきた兵隊さんたちに。
こんなことになって向こうも大混乱だとは思うけど、まだいるよね多分。ていうか割れた窓からちらっと見えたしね松明がチラホラ並んでるの。
火と煙のおかげでこちらが玄関先をウロチョロしてるのは気付かれていないと思う。
だからっていやー参った参ったなんて言いながらノコノコ出ていったらどうなるか。
お縄だーうぎゃーギロチン。いやその場で首切られるなきっと。
逃げねば。
さあ思い出せ! クロワルチェの記憶を手繰れ! この屋敷、どこにどう繋がってたっけ!? 周辺の地理は!?
えーとえーと、裏口、みたいなのは無かったっけ。無いとしたら、どうにか窓からでも――わぁ、完全に火と煙と熱風の出口になってる。他! 他にせめてもう少し大きな脱出路! ていうかいよいよ息苦しくなってきた! 酸欠!? 酸欠!
裏口、裏口――勝手口! キッチンの奥に通用路みたいなものがあったはず! 屋敷の裏手は小さな森だか山だか。どうせ包囲の薄い側に出なきゃならないんだ、そっちに飛びこんで見つからないことを祈るしかない!
キッチンは――こっち! まだ廊下も焼け落ちてない! 行ける!
勢いよくそこへ続く扉を――扉、無くない?
扉はなんかもうすっかり燃えてた。跡形も無かった。
キッチンのね、火の勢いがね、こう、ね。凄いの。ここまでが火の海だったとしたらね、これはね、火の宇宙。宇宙開闢は爆発から始まったらしいね。吹き出す煙の奥で何かが爆発したから間違いない。
料理に使う油や薪なんかも沢山あっただろうし、そりゃそうだ。燃える物たくさんあるよ。
泣きそうになっていると背後で天井がメキメキ音を立てて崩れ、燃える瓦礫の山ができる。そうですか。戻ることもできませんか。
深呼吸がしたかった。きっと肺が焼けるので我慢する。
代わりに、キッチンの入口近くに置かれていた水瓶を、炎や煙を避けてどうにか引き寄せる。
中の水もすっかり温まり、ちょっと熱めのお風呂くらいの温度になっている。でもまだ時間が経たないうちでよかった。熱湯だとさすがに辛い。
勝手口は、キッチンを真っ直ぐ横切ればそこにあるはず。そしてこの火勢があまりこちらに吹いていないということは、火はそちらに逃げている。
きっと開いている。
頭から水――お湯――を被る。熱い。熱いけどぬるい。もしかしたらもう周囲の空気はこのお湯よりも温度が高くなっていたのかもしれない。
立ち止まっている猶予は、一切残されてなかったんだ。
小さく小さく、口の周りに残った酸素だけを集めるように息を吸い、止めた。
行くぞー!
水気が失せたら死! 焼けたら死! 息吸っても死! 床が抜けてても死! 爆発しても死! 瓦礫に潰されても死! 迷っても死! 通れなくても死! 脱出できても待ち伏せされてたら死!
もう全部だいたい死じゃん! じゃあそれ以外なら生だ! バカやろうお前わたしは生きるぞお前!
駆ける。暗い煙の中、炎の渦に飛びこむように。
目もほとんど開けていられない。そもそも布を巻いた腕を翳しているし頭を伏せているから、前など見ていない。
床なんだか炭なんだかわからない足元が、踏みしめる度にシュウと鳴る感触を伝える。一秒も触れていないように忙しなく両足をバタつかせるが、きっととっくに火傷をしている。
左手のほうでなにか爆ぜた。どうやら鍋かなにかの取っ手が飛んできて、危うく身体を貫かれるところだったけど、腰の剣に当たって跳ね返った。
勝手口まで、大股で十歩やそこら。
そのはずなのに、遠い。出口に、出口に着かない。まさか、方向を間違えた? 次の瞬間には壁に激突して、いよいよ場所がわからなくなって、そのまま――
「――――っ!」
うおー! 息を吐きださないように、口の中だけで叫んだ。
死んでたまるかー! なんでこんなところにいるのかも、自分がどうなってしまったのかもわからないけど、このまま死ねるかー!
生き残って、生き残って――
このクロワルチェとかいう滅茶苦茶なヤツに文句言ってやるんじゃー!
ぶわりと後ろから熱風に煽られた。お尻! お尻あっつい!
ぐし、と半ば溶けたヒールが石床を噛む。
目の前には半端に開いた勝手口。向こうからわずかに夜闇が覗いている。
という景色。景色が見える。視界が晴れている。
煙が少ない。肌を焼いていた熱気も収まっている。
背後ではまだゴウゴウと炎が鳴き声を上げているのに、どうしたことだろう。やっぱわたし死んだ?
振り向いて、そして見上げてみれば、崩れた天井の穴が火や煙を辺りの空気ごと吸い上げているらしい。そこでちょうど、炎の波が遮断されていた。
……抜けた。助かった。生きてる。生きてる!
髪やドレスどころか身体中がえらいことになっている気がするけど、生きてるったら生きてる! やったー! どんなもんだクロワルチェー!
万歳をしたと同時、天井がさらに崩れて、熱された梁が落ちてきた。
あっ。
◇
黒い滑らかな、濡れ羽のような髪。
氷の彫刻を思わせる、美麗に整った相貌。
愉快そうに、かすかに持ち上がった下瞼。
黒い瞳。その反対には、薄っすら灰色がかった瞳。
女が見ている。こちらを見ている。
わたしを見ている。
なんだよ。
なんか言いたいなら言いなさいよ。
こっちだって言いたいこといっぱいあるんだから。
ぎちり、と亀裂が入るように、彼女の口が笑みの形に歪んだ。
知ってるぞ。わたしは知ってんだからね。
そうやって嗤うときは、人のことバカにしてるときだ。
いつだって、そんな嗤い方しかしないんだ。
くそー、ひっぱたいてやりたい。
文句のひとつも言いたいのに、いくら頑張っても口が動かない。
そのうち、彼女の姿がだんだん薄れていって――
あー、ズルーい! 自分だけなんかそれっぽい感じ出してー!
ちくしょー今に見てろー!
◇
気絶したのは一瞬。たぶん一秒も無いくらい。
だってそれ以上だったらもっと酷いことになってたもん。なにせおでこがジュッて焦げる感触で起きたから。
あー! ヤバイこれ絶対ヤバイ! 熱いっていうか激痛だったはずなのに今はもうあんまり感覚が無いってのが間違いなくヤバイ! 触りたくない!
幸いに――本当に幸いなことに――屋敷の裏手に兵隊はいなかった。表にはまだ集まっていたあたり、やはりこの火災やユニウス君が倒れたことで指揮が混乱したのだろうか。
とにかく森へ潜りこんで、そのままフラフラ彷徨っている。
い、いかん。脱出だけを考えてたけど、これからどうすればいいんだろう。月は出てるけど、やっぱり森の中は暗いよー。
たしかそれほど広い森じゃないし、しばらく行けば街が見えるはずだけど……熊とか出たらどうしよう。お逃げなさいって言ってくれないかな。逃げてきたところだけど。
それよりも喉が渇いた。
渇いたどころじゃない。乾いてる。なんか舌がパリパリ言ってる。
あんな火と煙の中にずっといたらね。クロワルチェのスモークいっちょあがりってね。
水ー! 水をー! 死んじゃう、やっぱり死んじゃう! 森の中で野垂れ死にするのも熊に食われるのも同じじゃー!
あ、小さい川があった。
一も二もなく飛びこむ。顔から突っこむ。うひーピリピリする。冷たい。効いてる。めっちゃ効いてる。春先でよかった。秋や冬だったらこれはこれで凍死コースだったよ。どんだけデッドエンドルート多いのわたし。
飲み干す勢いで喉に水を流しこむ。流れてきた葉っぱが口の中に引っかかったところでようやく落ち着いた。
べちゃべちゃのまま川から上がると、ちょうどここは木の合い間から月明かりが差しこんでいることに気付いた。
ああ、奇麗。
ほんと何やってるんだろわたし。なんでこんなことになってるんだろ。
泣きそうになって視線を落とすと、ちょうど地面にできた水溜りを月が照らし、鏡のようにわたしの顔を映した。
「……うへぇ」
絵画の中の美女。クロワルチェはそんな美貌を持っていた。
水溜りに映る顔。
頬や首元に浮いた痕はおそらく皮膚が焼けて割れている。髪は半ばが焦げて散らばり、幽鬼のような有様だ。
最も目立つのは――あーもー、やっぱり。どうも左目が開けにくいと思った――額から左瞼にかけて大きく広がった生々しい火傷。
ついでに声がザラザラになってた。
……い、生きてる、から、セーフ……?