19.呪い 4
「それじゃワタシは荷物とってくるからネー。バイバーイ」
あっさりそう言って、ニエンシャは開け放たれたままになっている屋敷の扉の中へ消えていった。向こうから「アラーオジーチャン大丈夫ー?」とか言っているのが聞こえてくる。
わたしたちは、そちらに用があるわけではない。
屋敷の敷地、離れの手前に誰かが這いつくばっていた。
マルコフ領主だ。髪の色が変わっているから一見ではわからなかった。胸だろうか喉だろうか、苦しそうに抑えている。
無視して横切るつもりだった。彼にも用は無い。
足首を掴まれた。まぁ素直に見逃してはくれないよね。
「き、貴様ら……なぜここに……」
わたしたちが妖魔を――主にジギエッタとニエンシャが、だけど――退治してしまったのは伝わってるかな。案内役の人がここまで辿り着いてたし、知っていると見ていいかな。
そしてこのタイミングにこの惨状。彼らからすると、わたしたちのせいで呪いがえらいことになったと考えそうな流れだけど――
「やめろ……ど、どこへ行くつもりだ……違うのだ、あの子は、違う」
ふむ。
弱々しく足を掴む手を、優しく外す。
マルコフは苦悶の表情のままなんとか立ち上がり、離れの前に立ちはだかった。とはいえ、今にも倒れそうだ。
「ジギエッタ」
「なんだ」
「お願いした時にさ、山にいる妖魔だけか? って言ったよね」
「そんなようなことは言った」
「だけ、ってことは他にも何かあったんでしょ」
「あったな」
「ここのこと?」
「そうだ。術式の核がある」
「……そういうことは早めに言いなさいね」
「すまん」
こいつに関しては言ってもしょうがない。ちゃんと確認しなかったわたしが悪いと思おう。「だからそれがわかるこいつは何者なんだよ……」とパテリコが呟いているけど、今は些細なことだ。
一歩踏み出すと、マルコフは下がりかけてフラつき、膝を折った。剣の鞘を杖代わりに支えているけど、抜く余裕も無いらしい。
「入りますね」
「やめろ、やめてくれ……なぜだ、あの子は――妹は、もう足さえ動かせないんだぞ……これ以上、あの子から何を奪おうというんだ……たのむ、やめてくれ……」
どうも彼は、わたしたちがメイリーンを害するつもりだと考えている。
そういうわけではないんだけどね。厳密には――決めていない。そうなるかもしれない。そうならないかもしれない。
なにせこの現象について、わたしたちは未だにわかってないんだから。様子を見るかぎり、マルコフはある程度の因果関係を把握しているんだろうけど、そんなこと関係なくここに来たんだから。
そして、それを聞いている暇ももう無い。
彼を支えている剣先を、コツンとパテリコが払った。それだけで倒れてしまう。
「メイリーンッ!」
悲痛な叫びを後ろに、離れの扉を開ける。
たしか、彼女がいたのは左手奥の部屋。遠慮せずに進む。
なんだか静かだ。マルコフの声も届かなくなってしまった。窓から差しこむ明かりが廊下を照らしているのに、陰は妙に暗い。
誰もいない。でも、なにかが這い回っているような気もする。気のせいなんだけど、そんな気がする。
「おい、なんか、なんだこの嫌な空気は」
しきりに辺りを見回しながらパテリコが言う。ジギエッタの背中を掴みながらおっかなびっくりついてきているけど、よくよく考えたらなんで彼女までいるんだろうか。なんだかんだ付き合い良いなぁ。
と思いながらそちらを見て、気付いた。
「あ」
「な、なんだっ」
「パテリコ、髪」
指差して言う。
訝しげな顔で彼女は自分の髪をひと房、摘まんで目の前に。
マロンブラウンの髪先が、うっすら黒く染まりだしている。
それを見た彼女は「え゜ゃ」と小さく呻いて硬直した。どう出したのその声。
しかしそうか。わたしたちまで影響が出ちゃってるかぁ。
こりゃ参った。
というわけで、ドアノブに手を伸ばす。
こういうのはね、迷ったら負けなんだよ。ガンガン行ったほうがいいんだよ。
その先に何があったってね。
「――クロワルチェ様」
先日に見た時は、頬がこけて骨の浮いたその相貌を老婆のようだと思った。
でも、小さく微笑む顔はかつての面影を残している。
メイリーンはベッドの上で、半身を起こしてわたしを待っていた。
雨上がりの陽光に照らされて、ともすれば美しくさえ映る。その姿が大きく変わったわけでもないのに。なんだかちぐはぐだな、と感じた。
髪は黒い。わたしの髪と同じ色。
「わたしはクロワルチェじゃないよ」
「存じていますわ。ええ、とてもよく。雰囲気がぜんぜん違うもの。あの方には似ても似つかない」
「あんな性悪っぷりはやろうと思っても無理かなぁ」
「あら、ひどいことを言うのね。よくないわ。でもね貴女、私にはひと目でわかったの。その隠されたお顔の下は、きっとそっくり。見間違えるものですか」
そりゃ本人ですもの。
クスクスと笑う口元を指先で隠すメイリーン。傍から見れば、療養中の旧友を見舞っての歓談といった風情だ。
でもわかる。部屋の中は、重力さえ増しているのではと思えるほど空気が淀んでいる。
「だから――きっと貴女は、あの方が遣わせた死神なのね。ずっと待っていたわ」
真っ直ぐにこちらを見据えて、彼女はそう言った。
それから、背後でガタンと音。振り返ると、部屋の入口から顔だけ覗かせていたパテリコがくずおれている。
「な、なんか息苦しくなってきた……死んじゃう」
「そちらは?」
「えーと、これは……なんだろう。パテリコです」
「死神さんのお友達なんて、おかしいのね」
メイリーンはやはり薄く微笑む。特に疑問を持ったわけでもないらしい。あるいは、どうでもいいことと思っているのか。
パテリコはそれどころじゃないという顔をしているが、そう言われてもどうしようもない。勝手についてきた自分を恨みなさい。
「――きっともう時間が無いの。このままでは、お兄様まで手遅れになってしまうでしょう。死神さん、どうか、早く」
ベッドの上で、彼女は手元に視線を落とす。折れてしまいそうなほど細い指。
早く。
この呪いを、早く止めて。
クロワルチェの呪いなんかではない。これは、
「メイリーンの呪いだったんだね」
「……私は、いったい誰を呪っていたのでしょう。クロワルチェ様? それともシルウィール? あるいは、私を弄んだあの者たち? もしかしたら、クロワルチェ様を裏切ったお父様を? そうね、お父様は死んでしまった」
窓の外へ目をやって、小さく息を吐くメイリーン。
「他に何人も死にました。きっと私は、誰も彼もが憎いのだわ。なにもかも滅んでしまえばいいと思って――いざそうなってみると、恐ろしくて仕方がないの」
身を捩る。こちらへ近寄ろうとしたのだろうか。毛布の下にある足は少しも動いていない。
「私のせいよ。お父様も、村の人たちも――私が殺した。わからないの。私はそんなことを望んだ? わからない。けど止まらないの。恐ろしい、恐ろしいのに、私は私を止めることさえできない」
手を伸ばそうとして、彼女はベッドから落ちかけた。
思わず駆け寄って支える。軽いなぁ。寝巻の裾から覗いた彼女の腕には、傷跡が何筋も残っている。シンドイなぁ。
ボロボロと涙を零しながら、メイリーンはわたしの腕を掴んだ。
「私はまだ揺れているの……自分が、どこにいるのかもわからないまま」
鼻が触れるほど近くに、彼女の顔がある。
「お願い、私を殺して」
彼女はわたしのことを死神と呼んだ。
本当は、誰でもよかったのかもしれない。自分を止めてくれる者であれば、誰でも。
それがただ、クロワルチェの顔をした何者かであっただけだ。
でもね、メイリーン。わたしはどうすればいいのかわからないんだよ。
いや、嘘だ。どうするべきかはわかっている。
彼女が呪いの元であるなら――
「どうする?」
いつの間にか、横にはジギエッタ。
頼めば、きっと今すぐどうにかしてしまう。どうにか。
こんなことなら、パテリコの言うとおり見ないふりして逃げたほうがよかったかなぁ。でもなぁ。なんかそれも嫌だなぁ。
村はべつにどうでもいいんだよ。領主のお兄さんだって知ったこっちゃないよ。この際、パテリコもほうっといていいよ。
この子だけでもなんとかならんかなぁ。
「……どうにかなんない?」
「どれをだ?」
「だから、こう、なんていうか――この呪いだけ止めるような」
「核がこの女だ。難しい。施術者がいれば方法もあるが」
「そんなぁ」
ジギエッタでも無理かぁ。こいつで無理ならわたしが他に思いつけるような方法など無い。
そしてなにより――メイリーン自身が、終わることを望んでいる。
わたしが決めなければならない。
結局のところ、クロワルチェたるわたしが彼女に引導を渡すことになる。なんとも皮肉な話だ。
なるほど、やっぱりこれはクロワルチェの呪いだったのかもしれない。
……い、イヤじゃー! そんな都合のいい話があるか! なんでそんなお誂えみたいな話に従わなきゃならんのじゃ!
なんかないのなんか!? こう、うまい方法が! いい感じの落としどころがどっかからポロッと落ちてこないの!?
「アラー、まだやってたのネー?」
気の抜けたような声が、背後から届いた。