13.誰何
「おい、なにかいるぞ」
いまだにぶっすり不満顔のパテリコがどこかを指さす。
わたしたちは岸沿いに北上しながらちゃぷちゃぷ浮かんでいる。クアンズ・オルメンの様子はもう見えない。
ちょっと油断してぼーっとしていたところ、穏やかな波が着実に船を沖へ運び危うく漂流しかけたので必死で戻ってきた。陸から付かず離れずの辺りをのんびり漂っている。
目を凝らすと、波打ち際に佇んでいる白くひょろ長い姿。
「あ、ジギエッタだ」
こちらを見ているので、気付いてはいる。だが彼はなぜかその場でまごまごしていた。あいつだったらこっちまでピョーンと跳んできてもおかしくなさそうなんだけどな。
波に翻弄されながら近づいてみると、やっぱりジギエッタだった。
「なにしてんの」
「どうしたものか悩んでいた」
「とりあえず乗ってよ。あとひとりふたりくらいは大丈夫だから」
「…………」
「なに」
「海は怖い」
そういえば浮かぶんだっけ。沈むならともかく浮かぶから怖いってどういうことなんだろう。
しばらく逡巡してから、彼は意を決したように船の上へ飛び乗った。器用に身体を折り畳み膝を抱えて収まる。パテリコが鬱陶しそうにしていた。
ふたたび陸から離れた。まだ追手が近くにいるかもしれないし、もう少し進まないと安心できない。
「後から考えたのだが」
「うん?」
「俺はもしかして置いていかれたのだろうか」
「……ソンナコトナイヨ」
「そうか」
「おいもっと疑え。都合よく扱われてるだけだぞ」
無用な知恵をつけさせようとするのはやめたまえ。
「ともかく無事でよかった。どうやって合流するか決めてなかったもんね」
「やっぱり考え無し……」
「ところで、あの人たちは――」
改めてよく見れば、ジギエッタの身体や顔にはところどころ傷がついている。出血だとかは無いようだけど、刃筋や叩かれたような痕がいくつも残っていた。
「逃げられた」
「そっか。まぁしゃーない」
「待て待て待て待てちょっと待て。『人狩り』相手に生き延びている上に、逃げてきたじゃなくて逃げられた、だと? こいつは何者だ?」
パテリコが腰を浮かせて聞いてくるので、少し考える。
こいつは――そういえば、なんなんだろこいつ。
「ジギエッタです」
「俺はジギエッタウィズだ」
「名前はどうでもいいんだよ」
「そう言われてもなー。あんたなんなの?」
「俺はジギエッタウィズだ」
「だそうです」
「……ここまで話が通じない連中に会ったのは初めてだ」
考えてみればこの男がなんでわたしを助けてくれるのか、いまだに聞いていなかった。わかっているのはどこだかに連れていこうとしてるということだけだ。山越えの最中も必死でそれどころじゃなかったしなー。
なんか異常に強いというか不思議パワーを持っているのはわかるんだけどね。でも聞いても要領を得なさそうなんだよこいつ。
「俺も少し驚いた。技術の進歩というものは恐ろしい」
頬に刻まれた刃傷を指でなぞりながらジギエッタがしみじみと言う。指を放した時には、もう傷跡は消えていた。
「イスカハならあの人たちの中でも一番くらいだったし、あんなの他にはそうそういないと思うよ」
「そうなのか。それはそれで少し残念だ」
え、なんで。ジギエッタったら意外と戦闘狂なのかしら。
「なぁ」
ポツリ、とパテリコ。半眼になっている。
「先も言っていたが、それは『人狩り』の名前か」
「そうそう。イスカハ君。たぶんクロワル――わたし推しの第一人者だと思うよ。ファンクラブとかあったら会長やってるねきっと」
「意味が分からんが」
なにせ貧民街で餓死しかけてたところを拾って以来、クロワルチェを神のように慕っていた子である。吹けば飛びそうだったのに、いつの間にやらひとりで十人分の暗躍ができるスーパーマンになってしまった。
できればもうちょっと明るくなってほしかったけど、飼い主が飼い主だし仕事が仕事だったからしょうがないね。
「後から出てきた大きいのはダズー君かな。脱走奴隷なんだけど、舌を切られちゃってるから喋れないんだよね。でも人の言うことよく聞くいい子だよ。インコ飼ってるし」
「お前は偽物のはずだよな」
「だから偽物じゃないってば。偽みたいなもんだけど」
「偽物のくせして『人狩り』にずいぶん詳しいじゃないか」
そりゃそうよ。ずっとクロワルチェと一緒だったんだから。
「それにあの、あれは――ジョシュをやったあれはなんだ? 毒なんかであんな死に方はしないぞ。呪法でも使ったのか」
「あれはパテリコが」
「私にあんな真似ができてたまるか!」
そんなこと言われてもわたしのせいでもないし。断じて。そうったらそうなんだもん。
「何かしたのか?」
ジギエッタがぼんやりとした顔で口を挟んできたので改めて弁明する。
わたしはただパテリコが危ないなぁ彼女がやられると次は自分が危ないなぁと思ったのでちょっと相手の肩をチクっと突っついただけです。殺意は無かったのです事故ですわたしわるくない。
というようなことを短剣を見せながら言った。
彼は黙ってそれを受け取ると、鞘から抜いた。
そして、やはり黙ったまま自らの手の甲を少し切る。
途端、傷口からぶわりと黒い靄が湧いた。おわー、なんだこれ。
「ふむ」
「ぎゃー!? 邪霊! 邪霊が! 死ぬぅ!」
特に慌ててもいないジギエッタと、狭い小船の端まで後ずさるパテリコ。落ちかけている。傾くからやめて。
人ひとりを包みこみそうなほど噴き出した靄はふわりと風に運ばれると、そのまま宙へ散っていく。朝の海原に溶けていくようだった。
ジギエッタは何事も無かったように短剣を鞘に納めて返してきた。普通に返すんだ。さすがにちょっとビビるよわたしも。
「で、どゆこと?」
「概念化しているな」
「うーん。どゆこと?」
手の甲をさすりながら彼はうーむと首を傾げる。うまく伝える言葉が浮かんでこないのかもしれない。
そして眉を寄せてまた手の甲を見た。傷が消えていない。こすこすこすこす。消えない。こすこすこすこす。消えた。
「呪いのようなものだ」
ちょっぴりほっとしたような顔をしてそう言った。
呪い。呪いの剣、的な?
「普通は百年単位の認知蓄積がいるんだが。興味深いな」
へー。よくわからんけど。
顔の前に短剣を翳して眺めてみる。なんだか怪しい気配が漂っているような気がした。気がするだけ。
呪いかー。パパ伯爵の怨念かな? 成仏して。
……もしかしてとんでもない代物になっちゃったのでは。どうしよう。海に沈めたらダメかな。帰ってきそうで怖い。
とりあえずまた懐に戻す。今のところ自分に害は無いし。教会かどこかでお祓いとかしてくれないだろうか。
「……なんだか知らんが、何かおかしいのはわかったぞ」
船の縁にしがみつくようにしてパテリコが呻いた。危ないってば。
「クロワルチェ・フラムンフェドの顔をして、『人狩り』の内情にまで詳しくて、あげくの果てに呪具まで持ってて……結局、お前は何なんだ。影武者か何かか」
「いやだから、わたしがクロワルチェだってば」
「偽物判定で殺されかけたくせにまだ言うか。騙りはもういいんだよ」
本当なのになー。少なくともこの身体は本物なんだけどなー。
しかし説明して納得いただけるわけもないし。クロワルチェに憑りついた幽霊です。乗っ取りました。ええ加減にせぇよって言われそうだ。
そもそも自分がなぜこうなっているのかもわからないしなー。どう言ったらいいんだろ。
「お前は誰だ」
「だからその、えーと、わたしは……クロ――」
「クロワルチェはもういいっちゅーんだ」
「いや違くて、えと、だから、クロ……クロ、えー」
「クロエ? クローエ? 名前まで似てるとか言うつもりか」
「あ、うん。なんかそんな感じで」
「本当にわけがわからん奴だな……まぁいいや、もう私は考えないことにする」
あ、誤魔化されてくれた。違うなこれ、疲れただけか。
正直わたしもちょっと疲れた。
「ところで、この船で海を渡るのか?」
ジギエッタはどこか遠くを眺めながら、なんでもないことのように言う。
うん。目的地がどれほど遠いか知らないけど絶対無理だね。漂流確実だね。
「なわけないでしょ。なるべく離れるけど、どこかで上陸してちゃんとした船を手に入れる算段をつけなきゃ」
「そうなのか」
「なら私はそこでオサラバさせてもらう」
「え、どこ行くの?」
「お前たちのいないところだよ一緒に来るのが当然みたいな顔するな!」
「いやだって当たり前みたいな顔してついてきたし」
「誰のせいだと思ってる……!」
プルプル震えて顔を赤くするパテリコ。あんまり怒るとまた疲れるよ。
しかし残念。またイスカハ君たちに見つかったらいい感じの囮になってくれそうだったんだけどな。まぁしょうがない。
「もうひとつ聞いていいか」
「はいはいなんでしょうジギエッタくん」
「陸地が見えなくなっているようだが、どこに行くんだ?」
ぐるりと見回す。海、海、海。上には太陽。いい天気。
ぎゃーまた流されてる!? 陸! 陸地! オリッセンネリー島はどっち!?
パテリコとふたりがかりで必死こいて櫂を回した。どうにか岸の近くまで戻ってきたけれど、オリッセンネリーのどの辺りなのかまったくわからない。
また流されても嫌だし、ちょうどいい場所があればさっさと上陸しちゃおう。
そういえば名前。名前ね。
ちょうどいいや、今度から聞かれたら『クロエ』って名乗ろう。クロワルチェなんて名前、気軽に出せないし。
誰お前って言われてもね。ホント、どう答えたらいいんだか。わたしってなんなんだろう。
ていうかそもそも――私って誰だっけ。んん?