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母の城

作者: くまいくまきち


時として、すすんで危地に赴いてみたくなるのだ。


おのれの度胸と武運をためしてみたくなる。 神仏の加護など信じてはいない。武運尽き死なばそれまでのこと、そう思っている。

といっても日ごろは専ら用心を心掛けている。家中のだれをも、心から信じてはいない。近習に背中から斬りつけられるかも知れないし、朝餉の汁に毒を盛られるかも知れない。宿直の小姓とて油断はならない。いつ寝首を掻かれぬとも限らない。


 死は、恐ろしかった。


おのれもいつかは首台に載せられ、もとどりをつかまれて恭しく敵将の実検に供されることがあるやも知れぬと考えるだけで、眠れぬ夜すらあった。今まだ命があるのは、ただ死なぬために闘い、知恵を絞ってきた結果に過ぎぬといっても間違いではない。

しかし、風が吹くのだ。心の真ん中をひゅう、とばかりに吹き抜けてゆく。

そうすると血潮が騒ぎたち、矢も楯もたまらず気が付くと、馬腹を蹴り疾風のごとく走りだしている。

 それはいつも突然であった。

命の危険すら斟酌せぬ主人の行動は、近習どもには、


――お狂いあそばされた……


とすら思えた。そして彼らは慌てて主人の後を追うのだ。

この地へもそうしてやって来た。

目前に小高い丘が広がっている。中腹には土塁に上げた矢倉が見えた。二の丸である。その左手はさらに高くなっていて本丸があるのだが、ここからは土塁の上に巡らせた柵や樹木などの蔀の間から、わずかにこけら葺の茶色い屋根がのぞいているだけであった。主殿であろうか。


 そしてこの平山城の周辺を土塁と柵がくるりと囲み、その外周に深い空堀が巡っていた。 若い主人を囲むように従うは三騎。河尻与兵衛、滝川久助、前田又左衛門である。

与兵衛と久助は三十路を幾つか過ぎ、若い又左衛門はようやく二十歳になったところであった。

日差しを避けるようにすっと伸びた椋の大木の影に佇み、主従はしばしその城を見上げた。

 城は、主人の父がこの地に築いた。金気くさい血の臭いがたち込める戦さ場と、陰惨な謀りごとに明け暮れた父の人生を象徴するように、城にはまるで抜き身の刃のような剥き出しの戦意が感じられた。

春はもう過ぎ行き、青葉の季節である。

 城の回りには水田が広がっている。田植えが終わったばかりと見え、まだ背の低い苗が柔らかな風に揺れている。透明な水を張った田は、鏡面のように青い空を映していた。

二月に改元があり永禄元年(一五五八)となったこの年、織田上総介信長は二十五歳であった。

信長の父、弾正忠信秀はこの末盛の城(名古屋市千種区城山町)で身罷ってもう七年になる。いらい戦塵を幾度となく往来し陰謀を重ねて来た信長は、いまようやく父から受け継いだ身代を回復しつつあった。


家督は嫡男の信長が継いだが、信秀の居城であった末盛の城は同腹の弟、勘十郎に与えられた。勘十郎はその母、土田御前とともにこの城で暮らしている。

信長には二十四人の兄弟姉妹がいたと伝えられるが、同腹は勘十郎ひとりである。

 信長から見た勘十郎は、


――周囲の望むようになる男

であった。


 周囲の望むようになる男はつまり、望むようにしかならぬ男でもある。人の本性を見抜く天性の目を持った信長は、この表面穏やかな同腹の弟の器量を見切っていた。

しかし周囲は、信秀の重臣や一族のものたちは激しい気性の信長を嫌い、温厚な勘十郎に期待をかけた。


 母の土田御前もまた、そのひとりであった。 信長は、母のあの火を含んだような目で見つめられると、いまだに肌があわ立つ思いがした。幼い日、母に疎まれた記憶は、この男の心の奥に澱のように沈んでいる。


信長にとってこの末盛の城は弟勘十郎の城というより、母の城であった。

信長は平絹の白っぽい唐織物の小袖を重ねている。下にした小袖の朱色が襟と袖から覗いていた。足くびのあたりを絞ったカルサン風の袴を履き、これも朱色の鞘の古風な太刀を佩いている。

袖を破り捨てた湯帷子に半袴を履き、腰には荒縄で巻いた火打ち袋や瓢箪をいくつもぶら下げていたという無頼の徒のごときいでたちは、さすがに近ごろは謹むようになった。


「お屋形さま、ほんに行くんかいのう」

 滝川久助が言った。そしてつぶやくように「儂ゃ殺されに行くようなものじゃと思うがのう」と付け加えた。

信長はこたえない。かわって与兵衛が、

「だまれ、久助」

とたしなめた。この男、近江は甲賀の出で信長の側近く仕え、忍び仕事をよくする。後の左近将監一益である。


一陣の風がわたった。

水田の苗が緑の波となって騒ぎ立つ。信長の白い小袖に落ちていた椋の濃い影が揺れる。信長の騎乗する白い肥馬が小さく嘶いた。それが合図であったかのように、信長の馬は駆け出した。三騎が追う。

 空堀を、ようやく馬一頭が渡れるほど細く埋めた土橋がありその先に二階建ての渡り矢倉門があった。

 空堀は深さ三間ほどあり、乱杭が尖った切っ先を天に向けて埋め込んである。まるでそこへ人が落ち込むのを息をひそめて待っているように思えた。


門は閉ざされていた。

騎乗の三人は一瞬顔を見合わせる。一番年下の又左衛門が目顔で「儂が行く」と言った。とことこと一騎で土橋を渡る。大きく息を吸い込むと大音声にこう呼ばわった。

「清洲のお屋形さまじゃ。開門。かいもーん」 矢倉の上から土塁の頂きへと門番の足軽が二、三人ばらばらとこぼれ出る。その者どもきっと睨みつけ、又左衛門はさらに怒鳴った。唾が飛沫となって散る。


「門を開けよ。信長さまじゃ」


 破れ帷子を纏った足軽は門前に信長の姿をみとめると、あっと驚いたように口を開き、そのまま土塁の向こう側へ転がり落ちるようにして消えた。

 物頭に知らせに走ったのであろう。ほどなく小袖を纏い髷を茶筅に結った士分とおぼしき男が土塁の上から顔を覗かせた。その男も信長主従の姿を見て驚いた様子であったが、さすがに士分らしく油断なくあたり見渡して、本当に供が三騎だけであることを確かめた。 閂が外される気配がして、ぎい、と鈍い音とともに戸が内側へ開かれた。


又左衛門がまず門をくぐり、続いて久助、信長、最後に与兵衛が曲輪へ入った。

くだんの士分の男が茶筅を揺らし、主従に先だって本丸へ続く坂道を駆けていく。やがて男は迫り出した二の丸の土塁の蔭に消えた。坂道は右に大きく湾曲している。

又左衛門を先頭に主従はゆるゆると切り立った狭い坂を登った。右は二の丸、左は本丸である。そのいずれも元々の地なりを利用した高台にあり周囲を土塁が囲んでいる。土塁の上には土塀が立ち、そのあちこちには狭間が穿ってある。城攻めとなればその狭間から矢や鉄砲が寄せ手に撃ちかけられるのだ。

どこかで馬が嘶く。普請をしているらしく、槌を打つ音や人足どもの立ち働く様がうかがえる。


「信長さまじゃあ、信長さまがおいでなされた」

くだんの男が叫ぶ。矢倉や土塁の蔭から男たちが顔を出す。人々の声がざわめきとなって広がっていく。


信長の表情は変わらない。

主人に従う三人の男たちは緊張した面持ちで、抜け目なく周囲をうかがっている。

又左衛門はしきりに鼻をくんくんと犬のように鳴らした。火縄は燃える時に独特の臭いを放つ。

「又左よ」

 信長が声をかける。

「はっ」


「そうしていると汝はほんに犬のようじゃの」 信長の口元に笑みが浮かぶ。薄い口ひげが揺れた。前田又左衛門、幼名は犬千代である。

 一同、笑った。ことに若い又左衛門は大口を開け、がらがらと笑う。どうだ、儂は恐ろしゅうないぞ、と言わんばかりに。


昨夜、舎弟勘十郎が岩倉城主織田伊勢守信賢と謀り、春日井郡の信長直轄地を横領せんと企てていることを、信長は密書によって知らされた。密書を送ったのは柴田権六勝家である。権六は信秀の死後、末盛城を受け継いだ勘十郎に付けられた宿老であった。

岩倉の織田伊勢守家は尾張上四郡を領する守護代で、下四郡の守護代清洲の織田大和守家とともに本来の守護職である斯波氏の力の衰えた尾張を支配してきた。信秀の弾正忠家は清洲織田家の三奉行のひとりにすぎなかったが次第に頭角をあらわし、やがては主家を凌ぐ実力を持つに至ったのである。

一時、信秀は尾張国中の軍勢を率いて隣国美濃や三河へ攻め入るほどの勢力を誇ったが、権力の基盤がいまだ脆弱であったためその死によって織田弾正忠家の屋台骨は揺らぎ、まさに危機的状況に陥った。家督を継いだ信長がしなければならなかったのは、反旗を翻した親族連枝や宿老どもと時に干戈を交え、時に結んで機をうかがい、少しずつおのれの力を扶植していくことだった。


やがて叔父孫三郎信光を取り込んで、清洲城主織田彦五郎信友を謀殺し、清洲城を我がものとする。尾張下四郡を叔父と分け取りするのだが、すぐに叔父をも巧みな陰謀によって殺害する。こうしてようやく尾張半国をその血塗られた手でつかみ取ったのが信長二十一歳の時。しかしその後も一族家臣の離反は絶えない。


 とりわけ大きな危機が、弘治二年(一五五六)の夏に訪れた。

 勘十郎を擁立すべく那古野城将の林秀貞と弟美作守そして柴田権六勝家が挙兵したのだ。 挙兵の前、勘十郎は名を信勝から達成と改めている。達成の達は、清洲大和守家の織田達定、達勝の名乗りに通じ、これは守護代家の跡目を襲おうという勘十郎の明確な意図を現している。また官名も祖父、父と同じであり相伝ともいうべき弾正忠を私称し、さらには清洲城に近い広済寺に安堵状を発給するなど、勘十郎は兄信長を逆なでするような所業を重ねていたのである。


勘十郎は信秀の葬儀にあっては、兄の破天荒な振る舞いとは対照的に、折り目正しい礼にかなった態度で臨んだことが後世にも伝えられている。温厚で荒々しい振る舞いのなかった勘十郎は母の土田御前にも愛されて育ち、家臣らの信望も厚かった。


柴田・林方の兵が千七百。一方信長が率いた兵は半ばにも満たない七百であった。両軍は尾張稲生(名古屋市西区)において干戈を交える。一時は信長方が押されたがすぐに盛り返し、最後には信長自身が敵将の林美作守を討つなどして勝利した。


 この時期の信長は七百ほどの親衛隊ともいうべき兵たちを率い数層倍の敵に幾度か挑み勝利している。この兵たちは信長がいまだ若年のころ、川遊びや印地打ち(石合戦)に明け暮れ、ともに肩をくみ柿や瓜や餅までもかぶり食い町中を無頼のように歩いたという者たちの、その延長線上にある言える。


時には身分の垣根を超えて家来どもの中へ飛び込んでいく。ともに食い、笑い、踊る。(信長は下戸であるので飲む、はない)そして戦さ場では鬼神のごとき大将ぶりで、軍勢を統率し勝利に導く。信長に接した者はみな、その器量の大きさと機知に富み情に厚い男ぶりに惹かれる。馬上の侍はもちろんのこと、足軽や小者の果てまで、この主人のためには命は惜しまなかった。


 稲生における戦さにおいても、禅門という名の下人の活躍や、小者のぐちう杉若が奮戦し後に士分に取り立てられ杉左衛門尉と名乗ったことが伝えられている。信長は働きのある者ならば、門地や身分にこだわらず公平に評価し、取り立てた。信長にみとめられようと、兵たちは死力を尽くして戦ったのである。


後にみずからを神格化しこの国に超然と君臨しようとしたその片鱗を、この時期の信長に見いだすのは難しいのではないだろうか? さて、稲生における戦さの後、土田御前からの申し出もあり信長は勘十郎、林、柴田らを宥した。だが、その勘十郎がまたぞろ蠢動を始めたのである。


 二の丸の矢倉門が見える。坂の勾配は急にきつくなり、路はそこでぐっと左に折れている。馬が喘ぐ。急坂をようやく登り切るとそこは平らに開けていて、この平山城の頂きである。湾曲した分厚い土塁が視界を遮っている。丸馬出しである。合戦になれば城方の騎馬がこの丸馬出しを據として闘うのだ。

そして馬出しの向こうには内堀を経て本丸南の虎口がある。


――大手門から虎口まで、いったいどれほどの家来どもが殺されようか。この城は親父どのが心血を注いで築いた城じゃ。力攻めは無駄に家来どもを死なせるようなものだわ。

 信長は考える。本丸の北にも虎口があるが、こちらには三日月堀という半月形の丸馬出しがある。いずれも攻めるは容易でない。


――末盛の者どもを敵にしてはならない……。


稲生の戦さで信長方が討ち取った首級は四百以上であった。信長はあの折の無念を思う。尾張者どうし、しかも同じ家中にありながら無駄に命を奪いあってしまった。


 尾張の敵は尾張にはおらぬ。もっと遠くにいるのだ。

信長はこの時、岩倉城主織田信賢を攻める覚悟を固めていた。尾張上四郡を領する信賢を討滅すれば、尾張一国は信長のもとにまとまるのだ。それでようやく、本当の敵を迎え討つための道筋が定まる。


権六の密告に、信長は苦悩した。

 時期が悪すぎた。いま勘十郎と末盛の者どもに背かれては尾張一国どころか、おのれの立場も危うい。美濃の斎藤義龍を後ろ盾に岩倉と手を結び清洲へ攻め掛かられてはたまらない。


――まず、勘十郎めを岩倉攻めの戦さに引き出さねばならぬわ。

 ではいったいどうすればよいのか?

信長は懸命に思慮を巡らす。

攻城の策を考えつつも、勘十郎を戦さ場に連れ出す算段に思いを巡らす。信長は一度にいくつもの事柄を考えることができた。これは父の信秀から教えられたことである。


「一度に四つや五つの事をおんなじように考られる頭がのうては、大将はつとまらんでや」

まだ吉法師と呼ばれた幼い信長を膝に乗せ、信秀は珍しく上機嫌であった。信長は、よく顎が張り力に満ち溢れた父の顔をまぶしげに見上げた。信秀は肉親に愛情を表すことの少ない人であったから、信長はこの時の事をよく記憶していた。


だが特に真似ようとしたわけではない。後年、戦さの算段や謀に思いを巡らしている折、ふと気づくと父と同じことができるようになっていたのである。

主従は丸馬出しを避けて進む。虎口の大木戸がちょうど開いたところであった。小者どもぱらぱらと零れ出る。馬のくつわを取るためであった。


「これはこれは清洲のお屋形さま。突然のお越しで、驚きまいた」


肩衣すがたの小柄な男が信長の前へ進み出る。色白で顎が細く切れ長でやや吊り上がった目が、狐を想起させる。この男、津々木蔵人という。勘十郎の近習のひとりであったが、家中での台頭著しく、近ごろは家宰として家内の多くを取り仕切っているという。勘十郎とは衆道(男色)の関係にあった。そうしたことを信長は久助から聞いている。

馬上から信長は津々木をきっと見据えた。鋭い眼光に射貫かれたように津々木はわずかによろめいたが、その動揺を隠すように信長に笑みを返した。

信長は馬を下りる。三騎の者どもも従う。彼は意味なく笑う男が嫌いであったので、津々木には声も掛けずに行き過ぎた。


虎口を抜ける。いよいよ末盛城の本丸である。城内の男どもが列を作って出迎えている。信長はひとわたり見渡して、満足そうに頷いた。男どもが頭を垂れる。むろん彼らは信長の直臣ではないが、まるで久々に帰還した城主を出迎えるかのような安堵感とほどよい緊張があった。


彼らとて主人勘十郎の逆心を知るよしもない。だがかつて謀反を起こし今だ家中に隠然たる影響力を持つ舎弟の持ち城に、わずかな供を従えたのみで現れた信長を驚きと畏敬のまなざしで見つめた。

それたは信長の意図するところでもある。 彼は城兵どもにおのれの度胸と器量を見せつけようとしたのだ。


それは勘十郎を失ったのち、この城の者たちがすんなりとわが配下へ組み入れられるようにするための、布石でもあった。


本丸はこの平山城の頂上に位置する。中央に主殿、左右に武者溜、弓場、厩などが配されている。土塁の隅々に上げた矢倉の他、すべてが平屋づくりである。この頃の城にはまだ天守閣というものはない。

主殿をめがけて歩きながら、信長はまた別のことを考えていた。それは椋の木陰からこの城を見上げていた時から、いやもっと以前から考えていたことなのかも知れない。


――さて、母者は儂を殺すであろうか。


城内あがり口から主殿へあがる。主従は同朋衆に先導されて狭い回廊を歩いた。いつ戸板を踏み破って城方の者どもが襲いかかってくるかも知れない。

信長の心の中に風が吹き抜ける。

 血潮が騒ぎたつ。


――母者よ。殺すなら殺すがよい。母より生まれ、母に殺されるなら儂も本望だわ。


そう思うとまるで鉄心でも呑んだように、腹が座った。

幾重にも曲がる回廊を経て、主従は会所へと案内された。

会所は中庭に面した板張りの部屋でかなりの広さがある。両辺の半蔀が軒から釣られて採光がなされている。


そのために風通しがよい。数寄屋風に造られた池が見えた。

蔀戸の蔭で勘十郎の近習どもが息を潜めているような気配はなかった。

信長が前に座り、三人の男たちはそのすぐ後ろに控えた。むろん事が起こればみな斬り死にの覚悟である。三人には緊張と興奮が見てとれるが、信長の表情は変わらない。

そのころ、血相を変えて奥御殿へ走る男がいた。ほかならぬ柴田権六勝家である。東の空堀をさらに深くする普請の指図をしていたが、信長来城の声にあわてて本丸の土塁を駆け登ったのである。数人の供を連れただけの信長の姿を見た権六は仰天して、言葉を失った。


――あの時とおんなじじゃ。


そう思ったとたん、泥だらけのまま権六はもう駆け出していた。

あの時、とは稲生の合戦の直前のこと。信長は那古野城を弟の阿波守秀俊を連れただけで訪れたのである。かねてより逆心を噂された城将の林秀貞とその弟美作守はまたとない好機とばかり信長を仕物にかけようとしたが、結局は信長の気迫に呑まれたのであろう。三代続いた主君を討つはおそれ多し、と信長をそのまま帰してしまったのである。


これは止めねばならぬ、と権六は思った。


「思慮の軽い津々木めのこと、勘十郎さまに信長さまをお討ちなさるよう進言するに決まっとるわ」

権六が奥御殿の勘十郎の居間にころげるようにして入った時、案の定津々木蔵人が白いきつね顔に笑みを湛え、勘十郎と土田御前に何やら言上しているところであった。

権六が居間に入ると勘十郎は白けた様子で冷たい視線を向けた。稲生で半分にも満たぬ兵しか持たぬ信長を討てなかったのは総大将の権六が腑抜けであったからだと、勘十郎は思っている。みずからが母の言いつけを固く守って出陣しなかったことの責任は、この男の中できれいに抜け落ちているのだ。


「何用じゃ、権六」

兄に似てかん高い声であるが、覇気が感じられない。

権六は這いつくばったまま、顔を上げずに応える。


「信長さまがおいでなされたと聞きましたゆえ」

それがどうしたというのだ、とでも言いかけるところを土田御前が制した。


「権六とて宿老のひとり、勘十郎どのの大事を謀るにおって悪いことはなかろう」

権六は主人の母子に向かってもう一度深く頭を下げ、部屋の一隅に端座した。

土田御前は権六を見やる。その顔つきに厳しさはなかったが、哀れみにも似た感情が浮き出ている。土田御前は権六が武骨である中に時として、優しい気遣いをする男であることを知っていて、憎からず思っていたのである。


「霜台さま」

津々木蔵人は話を続ける。

勘十郎は仰々しく頷いた。霜台とは弾正忠の唐名である。

しかし稲生の戦さの後、勘十郎は信長に対し憚りある弾正忠の私称をやめ、名も信成と改めている。官名も武蔵守を称しているが、そこへわざわざ気取って「霜台さま」などと呼びかけるところに、津々木の阿諛がある。


「信長さまをお討ちなされませ。さすれば簡単に尾張半国が手に入るのでございます。その上で岩倉と連衡して一国を治めていけばよろしゅうございましょう。なに、いざとなれば霜台さまには美濃の――」

勘十郎が目顔で勝家の存在を示した。津々木は傍らの権六をちらと見やる。虫ほどにも気に掛けぬとばかり、すぐに勘十郎に目線を戻して続ける。権六の腹中に怒りの炎がちりちりとくすぶる。


「――後ろ盾がおわしますゆえ、岩倉などひとひねりに潰してもよろしゅうござましょう。さすれば駿河衆も容易に尾張の土は踏めますまい」

 勘十郎は美濃の斎藤義龍とも、誼みを通じていたのである。


「お指し図を……」

 と、津々木は白い歯を見せて言ったあと、額を床に擦りつけるようにかしこまって見せた。

勘十郎は黙っている。考えているのだ。勘十郎は諸事に決断が遅い。何も決断せず、結局近臣や母の意見に従うことが多い。

決断が速く、余人に意見を問うことがほとんどない信長とは対照的であった。

とそのとき、

「おそれながら……」

権六が膝行しつつ母子の前へ進み出た。気づいた津々木は「権六は下がりおれ。張り子の鬼には用はないわ」となじる。鬼柴田と異名をとったことを踏まえての揶揄である。権六は津々木をきっと睨みつける。

 

 津々木はそれ以上なにも言えなくなる。権六は深く一礼した後に顔を上げた。

権六は六尺豊かな肥大漢で髭面、そして顔が巨大で特に眼が大きい。そのぎょろ目で睨まれると大抵の者は胆を潰してしまう。


「この末盛の城は亡き桃厳院さま(信秀)が居城とされ、亡くなられた城でございます。この城にてご嫡男信長さまを仕物にかけるは、桃厳院さまの御霊に対し不忠ではごさいませぬか」

権六はそこでやや間をおき、勘十郎と土田御前の顔を交互に見やる。

「信長さまをお討ちなさるなら、戦さ場にて堂々討ち果たされればよろしゅうございます。勘十郎さまじきじきご出馬とあれば勇気百倍、この権六、こたびは必ず信長さまの素っ首、討ち取ってご覧にいれまする」

と言って、権六は土田御前を見る。


 所詮勘十郎はこの母の言いなりなのだ。いま信長さまを討ったとて、この器量ではその首は一年とつながってはいまい、と権六はいま更ながらに思った。寵を失ったことで、権六は主人の器量を公平な目で見ることができるようになったのだ。

一方、信長主従はもう半時(一時間)ほども待たされていた。

従う三人は勘十郎の逆心を知っていたから、仕物に掛けるか否かを迷っているのであろうことは容易に想像がついた。だが、もう待つことにいささか飽いて「もういずれでもよいから早ようせい」という心持ちになっていた。この時代の男どもは「命ばなれがよい」のである。いったん腹を決めたらばもう迷わない。

信長は腕組みをし、じっと瞑目していた。もうあれこれ算段はやめて、無心であった。「……もしこの切所を無事に抜けれましたら、久助はお屋形さまにおねだりをしとうございまする」


 滝川久助が言う。久助の口調はどことなくふんわりとした印象があり、常に怒鳴っているような又左衛門とは対照的であった。だが久助には徳のようなものがあって、この男が口を切るとその場の張りつめた緊張がほぐれる。

 信長がゆっくりと目を開ける。

「何じゃ久助」

「……まだ申しませんわ。無事抜けてから申します」


信長は笑って「勝手にせい」と言った。

夜陰に乗じては猿のごとき忍び働き、戦さ場にては鬼神のごとき鑓働きの滝川久助も、十近くも年下の主人には妙な茶目っ気を見せることがある。また久助にはねだり癖があり、甲州武田征伐で先陣となり武功を挙げた折り、信長秘蔵の「珠光小茄子の茶入れ」を所望し、「茶の湯など汝にはまだ早いわ」

と、一笑に付されるのであるが、それはずっと後年のこと。ちなみに滝川一益、このときもう六十に手が届こうという大爺じい。しかも五十万石の大々名である。

 それでも「まだ早いわ」などと言われ、ひどく気落ちしたという。


床板を踏む音が響いた。

 主従は一斉に音のする方を見やる。開いた半蔀の向こう、奥御殿と続く渡り廊下を歩いて来る者たちがあった。音だけで姿はまだ見えない。

与兵衛たち三人は咄嗟に傍らの佩刀を掴みかける。

 が、程なく同朋衆と近習に先導された勘十郎と土田御前の母子であることが知れた。

三人は佩刀から手を離し、居住まいを正した。ひとり信長だけが胡座を組んだまま変わらず、ゆっくりと母と弟を見上げた。

会所には津々木蔵人と勘十郎、土田御前とそして柴田権六が入りそれぞれ着座した。近習どもは会所のあがり口や中庭に油断なく控えている。

津々木は赤子を抱きかかえていた。赤子は男児と見え、当歳のようであった。


「嫡男、坊丸にございまする」


 と、まず勘十郎が口を開いた。信長は赤子を見る。すると赤子は信長と目を合わせて、きゃきゃと笑った。信長は満足げに頷くといかなる根拠があったのか、


「よき武将になるであろうよ」

 と言った。


「さても三郎(信長)どのには、ほんにいつにても驚かされることばかりにて。突然のお越し、今日はいかなる趣向じゃ」


土田御前の切れ長の目が信長を見つめた。

御前はこのころ四十代の半ば。女ざかりは過ぎたものの、細く通った鼻梁と白い肌は美貌の名残をとどめている。


 彼女のふたりの息子のうち、母の容貌を多く受け継いだのは嫡男の信長であった。信長は色白く、細面で切れ長の目を持っている。大きな鼻梁だけが父譲りである。一方勘十郎は色浅黒く、丈夫な顎と福々しい丸顔を持ち、それらは父信秀を彷彿とさせた。


しかし性質はまったく逆であった。信長は粗暴で荒々しく、幼時から性は非常に狷介で身内であっても容易に心を開くことがなかった。御前にとって、それはまるで夫信秀そのものに思えた。

土田御前は尾張海東郡土田郷の土豪土田下総守政久の娘である。美人のほまれ高く、請われて信秀の正室となった。嫁いでしばらくは夫婦仲睦まじかったが、勘十郎を産んだころから次第に疎遠となった。

彼女は夫のまるで野人のような振る舞いが嫌いであった。信秀はこのころの貴人にあるまじく大汗をかき、あたり憚らず褌ひとつの裸になった。優しい言葉ひとつかけるわけでもなく、妻を見やる眼差しも心なしか冷たく感じられた。

土田御前が信長を疎んじたのは、信長という入れ物の中に、夫信秀そのものの姿を見い出したからであった。


勘十郎は幼時から聞き分け行儀がよく、上品であった。土田御前は勘十郎をおのれの分身のように感じ、深く愛したのである。

しかしそのことが結果として勘十郎の、人としての成長を妨げてしまったことに土田御前は気づかない。


信長はいきなり本題を切り出した。岩倉の織田信賢と一戦交えるには末盛の加勢がどうしても必要であった。


「追って陣触れいたすが、岩倉の信賢とは手切れとなったで、左様お心得願いたい」

信長は勘十郎の目を見る。勘十郎は兄の力のこもった視線に合うと堪らずに目を伏せた。権六の密告を疑うわけではなかったが、信長は勘十郎逆心の確かな心証を得た思いがした。勘十郎は何事か起こっても、表情を変えずにはいられない。

 信長は幼時から、どうすれば心の動きを相手に察知されないか?ということに常に腐心してきた。


「……しかし信長さま」

 津々木蔵人は頭も下げずに口を開く。そうしていると津々木は臣ではなく、この母子兄弟の仲にあってほとんど対等のように見える。坊丸を抱いてきたのはそのためであったか、と小知恵が回る津々木を小憎らしく思った。


 だが、今はそれどころではない。

「信賢さまは先代(父・信安)さまを放逐され、いまや日の出の勢いと聞いております。一朝、陣触れあらば馳せ参ずるは五千はくだるまいと……」


津々木蔵人の口元が嘲り笑いを含んで、醜く歪んで見える。勝てるのか?と訊いているのだ。信長は手元の佩刀で津々木を脳天から幹竹割りにしたい衝動が沸き起こる、がそれをようやくのことで堪えた。そしてまったく表情を変えずに昂然と津々木を見やった。


「犬山の十郎左(織田信清)どのがお味方いたすことと相成った」


犬山城主織田信清には信長の姉が室となっているが、無論それだけで味方につくほど甘くはない。さらにはこの時点でまだ犬山の調略は済んではいなかった。信清はその旗幟を明らかにはしていない。いわばハッタリであった。


津々木は「ほう」という表情をした。

信清は信長の従兄弟であったが、先代の信康のころから独自の立場を保ち、信秀ですら何度か干戈を交えるなど扱いに苦慮していた。 津々木は上目づかいに何やら考えている様子であった。彼我の兵力を計算しているのだろう。五千といったが、信賢が動かせる兵はせいぜい三千がいいところ。犬山が千と踏めば、兵力は互角かそれ以上……まして信長は寡兵をもってよく戦うことで知られている。岩倉の信賢に勝ち目がないことは津々木にも容易に考えがついた。


信長は少し間をとった。津々木に考える時間を与えたのだ。

岩倉を討滅したのち美濃の斎藤義龍を尾張に引き入れて信長を討てばよいではないか……そう津々木が結論すればよい。信長はそう思っている。


信長は津々木を見据えている。津々木にはその目線を跳ね返すだけの気迫はない。やがて津々木は恐れをなし、信長との戦さをできるだけ先へ延ばそうとするだろう。

 津々木を見据えながら、信長はまた別のことも考えている。


――こやつ、勘十郎と衆道の仲というが、いざとなれば命惜しみをし、主人のために死ぬる気はあるまいて。


信長にとって衆道とは、主従の絆をより強めるためにも存在した。たとえばいまも従う前田又左衛門はかつて寵童であったが、信長のためならば嬉々として死に向かう男である。 津々木は考えがまとまったらしく、何度か小さく頷いている。信長を見返すことはしない。所在なさげに目線を遊ばせている。信長に見られているのが、耐えられないのだ。

津々木の対抗しようとする気力が萎えたことを察知し、信長は目線を外す。そして次に勘十郎を見た。


――こ奴には餌を投げてやらねばならぬわ。


「信賢めを討ち取った後、岩倉にはそなたが入るがよい。国割りのことは改めて合議せねばならぬ。十郎左どのもおるゆえしかとは申せぬが、四つのうち二つはそなたに任せようと思うておる」

尾張上四郡のうち二郡をやろうというのだ。条件としては良すぎるぐらいである。が、あまり良すぎる餌は警戒される。

――こ奴の胆心をば、掴んでやるわ。


「勘十郎、そなたと儂とで早ようこの尾張をまとめねばならぬ。知っておろう、この国の回りには敵が多い。そなたとふたり、手に手を取って」

 信長は素早く膝を進め、勘十郎の手を握った。

「――この尾張を守り抜くことこそ、亡き親父どのご遺志にかなうことぞ」

最後にぐっと手に力を込めてから、信長は勘十郎の目をのぞき込む。弟の真摯な眼差しが真っすぐ注がれている。大きく頷いて、信長は手を離した。掴んだ、と思った。

次に土田御前を見る。ここで信長は最後のとどめを刺そうとする。


「弾正忠は勘十郎が名乗りに使うがよい。儂は上総介でよいわ」

 父祖相伝の官名を弟に譲ると言ったのだ。 その瞬間母の顔色が、まるで朱をさしたようにぱっと変わったことを、信長は見逃さない。


――これでよい。どうせいずれ心変わりするだろうが、こ奴らは目先の欲に釣られて岩倉攻めまでは味方しよるじゃろう。

と思いつつも、信長は胸の奥にちりちりとかすかな痛みを感じていた。弟かわいさのあまり欲に釣られる母も業が深いが、釣るおのれとて同じことだと思った。

末盛からの帰途、信長の脳裏はまた別の思案で埋まっていた。

犬山の信清をどう説得するか?岩倉攻めの陣立てをどう組み立てるか?

 そして……。信長の思案はついにそこへ行き着く。

 岩倉を打ち破った後、勘十郎の始末をどうつけるか?

それから夏が過ぎ、秋も深まり木枯らしが吹くようになったころ、信長は清洲城の奥御殿に籠もっていた。もう三月ばかりもそうしている。


 清洲の織田上総介重篤の報は喇叭どもによって国内に撒き散らされた。その虚をついて、清洲に攻めかかるような敵対勢力はいまのところ尾張国内には存在しない。


七月には岩倉城の西、尾張浮野(愛知県一宮市)において犬山城主織田信清の援軍を得て信長勢三千は織田信賢の軍勢同じく三千を迎え撃った。


結果は信長勢の圧勝であった。清洲での首実検では、その数千二百五十級に上ったという。岩倉勢はたった一日の戦さでその半数近い者どもが討ち取られたことになる。


 信賢は岩倉城に逃げのびたが、信長は深追いせずに兵を引いた。

信長は勝ちに驕った無理な追撃はしない。大きな打撃を加えた後、熟柿が落ちるように敵が内部崩壊するのを待つのである。これは信長がその生涯を通じて一貫した戦略で、たとえば設楽が原(愛知県新城市)の戦さにおいて武田勢を完膚なきまでに打ち破ったにもかかわらず、余勢を駆って一気に甲斐へ侵入しようとする重臣どもの進言を聞かずに兵を引いている。その後、武田家という熟柿が落ちるまで、信長は七年を過ごしている。


岩倉の信賢には当面軍勢を起こすだけの力は残ってはいない。だが、そうのんびり構えてもいられない事情が信長にはあった。


 駿河・遠江・三河を分国とする今川治部大輔義元の動きであった。義元は尾張東部にも力を扶植しつつあり、また隣国の武田、北条とも同盟し、その視野が西を向いていることは明らかであった。

岩倉は早急に押し潰し、尾張一国を平定する必要があった。

だがその前に、なさねばならぬことが残っていたのである。


「――承知つかまつりました」


 滝川久助が一礼をし、主人の御前を辞そうとする、その背中に信長は言った。

「久助、そう言えばそなた儂にねだりごとをすると言うておったのう」

 清洲城奥御殿にある城主の寝所である。延べた夜具の上で信長は白絹の夜着を纏い、あぐらを組んで座っている。三月のあいだ、信長はこの寝所をほとんど出ていない。仮病であることを知るのは近習のみである。城内の者どもも信長重篤を信じている。いつもながら、やることが徹底しているのだ。

 久助は俯いたまま、ゆっくり信長を返り見る。


「忘れまいた……。お屋形さまにはこの先さらにご身代を大きゅうしていただいて、いずれ国のひとつも頂戴しまする」


「国とな、それは大きゅう出たの」

信長は笑う。彼は景気のよいほら話が好きであった。


滝川一益は後に勝家、光秀、秀吉と並び織田家臣団の最高位である方面軍司令官とも言うべき地位を手にすることになる。その領国は北伊勢、上野、信濃の二郡に及んだ。


信長はゆっくりと頷く。目顔で、行くがよいと言った。

久助の姿は信長の視界から静かに消えてゆく。城外へ出る。暗い夜である。夜空の一隅には眠り猫の目のように細い月がかかっていた。


 清洲から末盛まで、常人であれば半日はかかる距離であるが、鍛練を積んだ忍者であれば一時半(三時間)もあれば十分であった。 真夜中であった。

久助は末盛城の空堀を乗り越え、土塁をいもりのようにへばり付いて登る。土塀と土塁の境目の犬走りをはしった。警備の手薄なあたりをみはからって土塀を乗り越え曲輪の中へと侵入した。


久助は呼吸を浅くしている。からだの代謝を不活発にすることにより汗や体臭を防ぐのだ。夜間、曲輪には犬が放し飼いにされている。

闇の中を闇と一体になり、久助は進む。視野の端に神経を集中させる。闇でも視野の端はわずかな光りを捕らえることができるのだ。

二の丸の土塁に取り付く。一気に土塀を飛び越えて久助は二の丸の曲輪に侵入した。


勝家の寝所は二の丸にある。大まかな間取りは予め調べてあった。

久助は警護の間隙を突いて武者溜まりのあがり口から中へ入る。気配を消し、影のようにすっと忍び入った。


すぐに梁へ昇る。梁を伝って奥へと進み、権六の寝所の襖の前に音もなく降り立つ。

襖を引く。身体を素早く入れ、後ろ手に襖を閉めた。

権六は寝首を掻かれるのを恐れるように、夜具を壁に沿って延べ横たわっている。だがその用心も無駄に思えるほど熟睡していた。しかも大酒を食らったのか、鼾もかいている。 閉ざされた蔀戸の透き間から、ほんのわずかな月光が差し込んでいる。


 久助は滑るように権六に近づいていく。権六の顔を覗き込む位置まで来て、しゃがみこんだ。

権六は気づかない。

久助が揺り起こそうと夜着の襟に手をかけようしたその時、権六が大きな目をぎょろりと剥いた。

ほんの短い刹那、ふたりの男は目を見合わせた。

権六が夜具の下に忍ばせてあった打刀を鞘ごとぶん回す、と同時に久助が飛びのいた。ほんのわずか久助が早かったため、彼は頭を割られずにすんだ。権六の打刀の鞘には鉄鐶が嵌めてあり、頭に当たれば頭蓋が割れる。


「――ま、待て」

 久助は手のひらを向けて制止する。大声は出せない。

権六は鞘を払い、抜き身をほぼ正眼に構えている。


「儂じゃ、滝川久助じゃよ」

 権六は大目玉を剥き、久助を睨む。

 と……次の瞬間権六は「はっ」という気合もろともに打刀を久助の脳天めがけて繰り出した。

間一髪、久助は逆に相手の間合いに飛び込んで権六の刀を躱した。ぶん、という刃風が久助の耳もとで聞こえた。

久助は権六の腕に取り付く。刀の切っ先が床板に食い込んで、抜けない。


「――信長さまの使いじゃ」

権六は歯を食いしばり、刀を抜こうとしている。それを押し戻そうとする久助、抜ければ、今度は斬られてしまう。


「嘘こけ、勘十郎さまの討っ手であろう」

「違うて。わからん奴やな、滝川や。何度か会うとるやろ」

「おのれ、儂の首に手をかけ絞め殺そうとしておったろうが」

「阿呆ぬかせ。おのれの素っ首掻っ斬るんやったらここへ入った途端にやっとるわ。儂ァ甲賀の忍びゆえ」

権六の手力が弱まる。

「……滝川久助か?」

「――そう言うとるやないか」

 権六は顔を近づける。「よう見えんわ」と言った。


「――痛っ」

 久助の頬に激痛が走る。権六がしたたかに抓ったのだ。

「はは、その面皮の厚さはまさしく滝川久助」「何をするんや、おのれは」

権六は急に脱力したように、夜具の上にすとんと腰をおろした。

「そっちこそ何だ、こんな夜中に。驚いたわ」「忍び仕事が昼間にできるかい」

 権六は、はあと大きく息を吐いた。

「……ご舎弟さま逆心をお知らせしてからはや半年。そのままに合い変わらず出仕するようにとの申し付けの後、これまで何のご沙汰もなく、聞けば信長さまご重篤とのとこ……。儂はいつご舎弟さまに仕物に掛けられるかと、夜も寝られず」


 おのれは大いびきで寝とったやろが、と言いかけて久助は思いとどまった。これ以上権六と揉めるとお役目に差し支えると思った。 このふたり、互いに嫌っている訳でもないが、どうも呼吸が合わない。

 このふたりの偉大なる主人が本能寺に横死した後、権六と久助は連衡して羽柴秀吉と対峙するのだがやはり今ひとつ呼吸が合わず、結局それぞれ個別に料理されることになる。「そのことよ。信長さまのお指図を伝える」


 おお、と権六は大きな目玉をさらに大きくひん剥いた。

「信長さまのお指図とな……」

 権六は信長と聞いて急に威儀を糺す。まるで坊主を拝む一向門徒のような意気込みである。

久助はもっともらしく頷いてみせる。

「明日、清洲より使者が参る。使者の口上はこうじゃ。――信長さまにあっては病篤く平癒の見込みも失せたゆえ、ついてはご家督をご舎弟勘十郎さまにお譲りする」

 権六は髭だらけの口をあんぐりと開け、両の目玉が零れんばかり開かれる。


「――信長さまがご家督を……」


「話を最後まで聞きなされ。――お譲りするゆえ清洲までおいで願いたいと、これが使者の口上じゃ。だが疑い深い津々木やお袋さまがご舎弟を引き留めるであろう。これはご舎弟さまをおびき寄せる謀であろう、などと申してな」

 権六は頷く。頷いてから、はっとしたように「謀なのか?では信長さまは?」と尋いた。

 久助も頷く。

「ああ、お健やかにあらせられる」

権六は安堵の嘆息を漏らした。張っていた肩の力を抜くように「よかった……」と言った。


「さて、ここで権六どのの出番じゃ」

 権六は「えっ?」というように久助を見やる。


「ご舎弟さまを清洲へ出向くよう説得申せ、というのが信長さまのご下命じゃ」

 権六は小さく「あっ」と言った。久助を見やる。

「無理じゃ無理じゃ。勘十郎さまは儂の申すことなど聞く耳持たぬわ。説得できる道理がない」

久助の口元に笑みが浮かぶ。


「信長さまはそこまで見通しておられるわ。勘十郎さまが無理ならばお袋さまを清洲へ参られるよう説得申し上げよ、と申されておる。それならばできるであろう」

権六は土田御前の臈たけた白い面差しを頭に描いた。何度か首を縦に振る。が、はっとして「まさかお袋さまを仕物に……」と言った。


「な、何ちゅうことを言うんじゃ。お袋さまを仕物にかけてどうする。まずお袋さまが信長さまを見舞われ、その後勘十郎さまをお袋さまがお呼びになればよい」

 権六は頷いた。 

「……しかし、信長さまはお健やかなのであろう、どうしてお袋さまの目を欺くのだ?」

「そこまでは知らぬ。信長さまにお考えがあるであろう。その後の指図は清洲で受ければよい」

「清洲で?儂も行くのか」

「権六どのが命に代えて守ると言えばお袋さまも安堵して参るであろう、と信長さまが申されていた」

足音がする。宿直の小姓が物音を聞き付けたのだろうか。


「――では確かに申し伝えましたぞ。これにて御免」

久助はすうっと闇の中へ溶けていった。

権六は夜具の上で胡座を組んで座っている。

足音が近づき、襖の前で止まった。権六付きの小姓のひとりであることは、足の運びで知れた。


「何じゃ!」

権六は襖越しに怒鳴った。

「――何やら人の声がしたようで」

「儂の寝言じゃ、下がれ」

小姓の足音が遠ざかっていく。

 権六はしばし熟考して、ようやく事の重大さが飲み込めてきた。

これは主命なのだ……。

勘十郎かお袋さまを清洲へ連れていかねば、申し訳に死なねばならぬ。また、もし謀が勘十郎に露見するようなことがあれば、生きてこの城は出られまい。


「ご苦労であったのう、権六」

信長は上機嫌で権六をねぎらった。

 清洲城の奥御殿、信長の寝所である。例によって信長は白絹の夜着のまま、敷き延べた夜具の上に胡座を組んですわっている。


権六は大きな身体を窮屈そうに折り曲げて、床に額を擦りつけんばかりに平伏している。

つい今し方、権六は土田御前の供をして末盛から清洲へ到着したのだった。御前と侍女たちは表の会所へ通してある。権六だけが呼ばれて、信長に目通りを許されたのである。

権六は信長の壮健な姿を見て心底から安堵した。土田御前を清洲へ連れて来るという難事もなし遂げ、もう末盛へ戻ることもあるまい、と思っていた。

この日の朝、まだ暗い卯の刻(午前六時)ごろにに清洲の使者は末盛城の大手門を叩いた。

津々木蔵人は「謀に間違いなし」と決めつけ

「信長さまには岩倉城を陥とせず信賢さまも討てず、結局むだな戦さでござった。返すがえすも口惜しきは信長さま来城の折り、仕物に掛けておれば……」と傍らに控える権六を睨みつけた。

だが信長重篤の風聞は勘十郎母子や津々木にもきこえており、あながち使者の口上が嘘である、とも言いきれない。

例によって勘十郎は迷う。

 もし信長重篤が真実であって、使者の口上に背いて清洲へ行かなければ、勘十郎は家督を放棄したととられても仕方がない。尾張半国が向こうから懐へ転がり込む機会をみすみす逃してしまうのは、惜しい。

だがもしすべてが謀であれば……勘十郎の命はないのである。

一同の思案が膠着したところで、権六が「恐れながら……」と進み出た。

「まずは御前さまが清洲へ行かれて信長さまのご病状を確かめられるのが上策と存じまする」

津々木は狐面の目尻をさらに吊り上げて言う。

「おのれ御前さまにもしものことあらばどうするつもりじゃ」

津々木には目をくれず、権六は土田御前を見た。

「この権六が供をして参ります。御前さまのお身の上、この権六が命かけてお守り申しまする」


土田御前は権六の大きな目を見ている。彼女は武骨ひと筋の権六が、顔色ひとつ変えることなく主人に嘘がつけるような男だとは思ってはいない。権六に逆心あれば必ずその顔色に現れるはず、と思っている。男の嘘に女人が鋭い感覚と看破する自信を持っているのは、今も昔も同じである。


権六は土田御前を見かえしている。もう、必死であった。少しでも目線を逸らしたり、目に曇りを生じれば見破られてしまう。

御前の切れ長の目が、まるで射るような視線を権六に向けている。ほんの短い時間なのだが、権六にはもう三日もそうしているかに感じられた。

もう駄目だ……と思った時、

「兄者もまさか母上を生害いたすようなこともすまいて」

と、勘十郎が言った。

土田御前はその言葉に引きずられるように、権六から目線を外した。

助かった……と権六は思った。

 

こうして権六は首尾よく土田御前を伴って清洲城へ入ったのである。

信長が大きく手を打った。

すると前髪の小姓がひとり襖を開けて寝所に入ってくる。三方を捧げ持ち、それを恭しく信長の前へ据えた。権六が見ると三方には折り畳まれた杉原紙が載っており、書状のようであった。


てっきり褒美を貰えると思った権六は、拍子抜けがした。が、事態は権六の思ってもみない方向へ進む。

「これをな、持って末盛へ戻るのじゃ」

余りのことに権六は言葉を失う。ぎょろ目を剥いて、信長と三方の上の杉原紙を交互に見比べている。


「こ、これは……」

と、ようやくのことで尋ねた。

「書状だ。母上のな」

「えっ?いつの間に……」

権六は仰天する。

「阿呆め」と言って、信長は大声で笑った。

「偽書だ。母上の文を盗み出して右筆方に手を真似させたのじゃ」

 なるほどそうであったかと権六は思い、杉原紙をまじまじと見る。黒々とした墨痕が透けてみえる。

「この書状を勘十郎に読ませ、今度はあやつをこの城へ連れて来るのだ」

「げえ……」

権六は思わず後ろへひっくり返りそうになる。

「そんなことはできませぬ」と言いたいのだが、声が出ない。

 信長は素早く三方から杉原紙を取ると、押し付けるように権六の小袖の襟にほうり込んだ。そして、うって変わって厳しい表情になり、

「これは主命であるぞ」

 と、言った。


切れ長の目がきっと権六を見据えている。権六は見返すことすらできず、信長の威光に気圧されて杉原紙を押しいただくような格好となり、その場に平伏してしまった。

ようやく重荷を降ろしたと思った権六は、結局もっと重い荷物を背負わされて追われるように清洲城を後にすることとなったのである。


だが見方を変えれば、これが後に柴田修理亮勝家として常に織田家臣団の頂点に位置する希有な侍大将となるための、一歩であったのかもしれない。信長は無能な男は重用しない。佐久間信盛(本願寺包囲戦の無策をけん責されて天正八年所領没収のうえ高野山へ追放された)のように長年の功績と重臣という地位があったとしても、弊履のごとく捨てられてしまう。常に尻に火を付けるようにして働かせ、よりよい成果を主人に与え続けられる者だけが生き残れたのである。

今まで末盛城で勘十郎というおのれにも家臣にも甘い主人に仕え言わばぬるま湯に浸かっていた権六は、ここで信長によって熱湯ぶろにほうり込まれることとなった。

必死に馬を飛ばし権六が末盛へ戻り着いたのは、冬の低い太陽がその軌道の頂上にさしかかった頃。


「陽が落ちるまでには必ず勘十郎を連れて参るのだぞ」


非情なる主人は権六の去り際、その背中をどんと押すように、そう言った。

権六は曲輪の本丸へ続く坂道を脚の鈍った疲馬を捨てて駆け登る。そのまま一気に勘十郎の居る奥御殿へ走り込んだ。

慌てふためいた権六の様子に勘十郎は血相を変えた。

「母上に何かあったか?」

 権六は息が上がってしまい、答えられない。「どうした権六。霜台さまがご下問じゃ。早々に答えぬか」

例によって津々木は寵を嵩に威高に振る舞う。いつもなら癪にさわる津々木の態度も今となってはどうでもよい。

権六は息を整える。ごくりと唾の飲み込んだ。が、これは顔色を読まれまいとする権六の詐略であった。


「……ご使者の口上は誠でございました。信長さまには病篤く、もはやまともに口も聞けぬ有り様にて……。清洲では織田家ご家門衆ご家来衆みなご舎弟さまのお越しを待っておりまする」

「権六が口上だけではのう……」


津々木が憎々しげにつぶやいた。

勘十郎は、黙っている。判断がつかない。 その時、権六は懐から例の杉原紙を取り出し、勘十郎に捧げ持った。

勘十郎と津々木が目顔で、これは?と訊く。

すかさず権六は、


「御前さまよりの書状でございまする」


と言った。

先に出しては怪しまれると思ったのだ。


「書状があるならなぜ先に出さんのだ」

 そう言って津々木が権六の手からひったくるようにして杉原紙を奪い、勘十郎に渡した。 勘十郎は書状を開く。そう長いものではない。文字を目で追う。追いながら、


「これは間違いなく母上が手じゃ」


 と言った。

書状には、信長重篤はまことゆえ至急に清洲へ赴くようにという内容が記されている。 すぐに読み終え、勘十郎は津々木に書状を渡した。津々木は土田御前の筆跡など知るよしもなかったが、神妙に読み終えてから「いかにも」ともっともらしく呟いた。

 しかし立ち上がる素振りは見せない。


「明朝、出立するか……」


 と勘十郎が言うと、津々木が頷く。この主従、判断も遅ければ行動に移るのも遅い。

これでは主命は果たせぬ。時間をおいてはまた気が変わるかも知れない。

 こんなこともあろうかと、権六は道すがら必死に考えた台詞を吐いた。


「それでは間に合いませぬ。信長さまのご病状は明朝まで保つかどうか知れませぬぞ。なにとぞすぐにもご出立くださいませ」 


むう、とばかり勘十郎は腕組みをする。判断がつかない。

権六はさらに追い打ちをかける。


「犬山の信清さまが追っ付け清洲へ参られるそうでございますぞ」


 権六はそう言って、大目玉を剥いて勘十郎をじっと見た。

勘十郎と津々木は顔を見合わせる。

犬山城主織田信清は岩倉との戦さを信長と連衡して戦い、今となっては唯一残った織田一族の実力者であった。勘十郎の到着まえに信清に引っ掻きまわされては、家督のこともすんなりとは行かぬようになるかも知れない。 勘十郎はそう考える。が、無論これも権六の詐略であった。

 勘十郎主従、ほぼ同時に権六を見やる。ふたりとも同じことを思ったのだろう。すべてが寄せ木細工のようにうまく組み上がっていて疑念の余地もないように思えるが、それが却って怪しく感じられないこともない。


 零れんばかりの大きな目玉がじっと見ている。権六が、ゆっくりと頷いた。

勘十郎も津々木も、猪武者の柴田権六がこんなに芸の細かい嘘がつけようとは思ってはいない。その意味において今回の役回りは権六が適任であった、というよりこれは権六以外にはできぬ芸当であった。そのあたりを心得た人選の妙と、人を追い込んでいく手管は、信長の一種天才的な直感力、感性によるものとしか言いようがない。


そしてよい結果をもたらす者を、信長は必ず重く用いる。こうして信長の家臣たちはおのれの実力よりもさらに大きな力を、時として発揮することになるのである。

勘十郎は権六の目をみる。心の乱れを見ようとする。おのれの命が掛かっているのだ。勘十郎とて必死である。が、権六の心はもう乱れない。

勘十郎は頷いた。そして口を開いた。勘十郎の運命が切り取られ、逆に柴田権六勝家の運命が開ける瞬間であった。


「わかったわ権六。今すぐ発とう」


勘十郎が津々木蔵人、柴田権六のほかわずかな供を連れて清洲城へ入ったのは、冬の陽が西の空を朱に染めて今しも地平に消え入ろうとするところであった。

清洲城の城門には明々と篝火が焚かれ、何やら人の動きも慌ただしく尋常と違った雰囲気がある。これは河尻与兵衛はじめ近習たちの詐略であったが、勘十郎主従には主の死を前に城の者どもが右往左往しているように見えた。

清洲城は末盛城と違い平地に築かれた城である。攻城戦となればこの城は守るに難で攻めるに易い。だが城郭は大きく、城下の殷賑は末盛の比ではない。元々が由緒ある尾張守護代の城である。

大手門を潜り本丸へ向かいながら、勘十郎はようやくこの城を手に入れようとする感慨に浸っていた。かつて信勝から達成へ名を改めたのも、尾張守護代織田大和守家を襲う、つまりはこの城の主となることを願ってのことであった。


本丸御殿の玄関門を潜り、勘十郎の一行は城内へ入った。

同朋衆に導かれて、勘十郎は奥御殿へと進む。城内の者どもは慌ただしく行き来をし、勘十郎に礼を取る者もいればそのまま行き過ぎる者もいた。城内の者どもの多くが信長の重篤を信じていたので、勘十郎の姿を目にして「ああ、いよいよ信長さまもご臨終か……」と思った。

使者の間で従者どもは勘十郎を待つこととなった。そこから奥へ進めるのは勘十郎と家宰の津々木蔵人、宿老柴田権六だけである。 本丸矢倉の手前、天主次の間に入った時であった。突然、前方の襖がすとん、と音をたてて開かれた。

 河尻与兵衛が左右に近習衆が従えて、勘十郎に立ちはだかった。近習衆は手鑓を構えて居並んでいる。鑓は御殿内でも使えるよう柄を短く切ってある。その揃った穂先が、燭台の炎を受けて怪しく光った。

権六が素早く身体を翻して鑓ぶすまを背にした。


「勘十郎さま、主命でございます。お覚悟めされませ」


と、静かに言った。

勘十郎はその瞬間、唇を噛み天を仰いだ。


「おのれ権六、たばかりおったな」

津々木が叫ぶ。

と、津々木は何を思ったか急に後ろを振り向くと、今いま来し方へ走り去ろうとする。主人を残し逃げようというのだ。

だが、近習のひとりが滑るように進んで津々木の前に立ちはだかる。刀を抜きうちにその首を跳ね飛ばした。

 前田又左衛門利家である。

津々木の首は三間ばかりを飛び、ちょうど勘十郎の足元へ転げた。

 津々木は口を醜く歪め歯を剥き出して苦悶の表情を浮かべているが、見ようによっては笑っているようにも見える。


その首を見て、勘十郎は逆上した。衆道の合方を惨殺されたことへの怒りか、かなわぬまでも一矢報いようとしたのか、勘十郎は脇差を抜き、何やら叫びながら河尻与兵衛に斬りかかった。

 与兵衛もまた抜刀し上段から振り下ろす。が、勘十郎の足が津々木の首から流れ出た血で滑り体勢が崩れた。


脳天を狙った与兵衛の刀は勘十郎の側頭を打ち耳を削ぎ鎖骨を断ち割って、止まった。勘十郎は片膝をついた格好で与兵衛の刀を受けている。与兵衛は勘十郎の肩先に足を掛け、肉に食い入った刃を引き抜いた。


鮮血が散った。

勘十郎はゆるゆると立ち上がった。意識は朦朧としているようで目の焦点が定まらない。脇差も取り落とした。

与兵衛は刀を脇に構えた。与兵衛は信長から勘十郎殺害を命じられている。主君の弟だけになるべくなら他の者の手を借りず、おのれ一人にて始末をつけたかった。

勘十郎はここで思いもかけぬ行動に出た。 きょろきょろとあたりを見回す。そして突如としてこう叫んだ。


「母上、母上―っ!」


これに一瞬、与兵衛はたじろいでしまった。土田御前があたりにいるのではないか、と不安になり思わず見渡してしまった。

このわずかな動揺があだとなった。

勘十郎は与兵衛の脇を擦り抜けて逃れようとする。それを許さじと与兵衛の刀は勘十郎の横腹を斬りつける。


 が、あばら骨を一、二本折ったのみで致命傷にならない。一瞬の気後れが、間合いを誤らせたのだ。さらには肩口を斬り下げた時に刃に人脂がついて、斬れにくくなっている。

与兵衛は打刀を投げ捨てた。こうなっては戦さ場と同じである。組みついて首を掻き奪るほかになし、と判断した。


一方、表の会所で次女たちと酒食など振る舞れていた土田御前は勘十郎の声を耳にした。会所へ通されて随分と時が過ぎ、治療の都合だということで、仕方なく待っていたがそれにしても遅すぎるので不審に思っていたところであった。


「そなたたち、聞こえぬかえ?」


 御前は次女どもに訊く。が、誰にも聞こえない。

御前は耳を澄ます。すると、勘十郎が母を呼ぶ声が確かに聞こえたのだ。

土田御前はすっくと立ち上がる。供応していた同朋衆の背後にいた近習が立ち塞がった。その様子にただならぬ気配を感じ、御前は近習を押しのけようとする。が、近習は動かない。


「どきやれ、慮外者めが」


土田御前は叫ぶ。胸騒ぎがする。勘十郎の身に何か異変が起こったに違いないと直感した。

「どきやれ!」

 御前は近習を突き放す。主人の母上だけに、無理やり押し止どめることもできず、御前は会所を出てしまった。


「勘十郎、勘十郎はどこぞ」


土田御前は本丸矢倉の方へ向かう。男どもの殺気と血の臭いを本能的に察知したのかも知れない。

開け放たれた襖の向こう、薄暗い部屋に手鑓を持った男たちが蠢いている様が見える。 何者かが必死の叫びを上げている。御前は咄嗟にそれが勘十郎の声であると感じた。

手鑓の男どもを掻き分ける。

血みどろの男がもうひとりの男に馬乗りになって、今しも首を掻き斬ろうとしているところであった。

その顔が、くるりと土田御前を見た。


「勘十郎!」

御前は叫ぶ。


勘十郎が振り向いたのではなく、与兵衛が短刀で首骨を断ち割ったので支えを失った首が傾いたのである。


 土田御前は勘十郎に駆け寄る。

「どきやれ」と与兵衛を一喝した。与兵衛としては勘十郎の生命を奪えばよいので、土田御前には逆らわない。斬り取った首をそのままに、勘十郎から一歩離れた。 

土田御前、気絶などしないところがさすがに戦国のおんなである。

 跪くと勘十郎の首を押し抱き、頬を寄せた。


「勘十郎……何というむごいことを」


 与兵衛、又左衛門そして久助もその中にいて、土田御前の姿を息をつめて見ている。

男たちが静かに見つめる中、土田御前は泣いた。

息子を殺された母の悲しい泣き声は、清洲城の本丸矢倉に響いた。


――義元が動かす兵は二万から三万が間というところであろうよ。儂が手勢は三千がいいところか。

 信長は来るべき駿河勢との戦さの算段を巡らす。彼我の兵力は十層倍の開きがある。だが義元の兵力には小荷駄や甲冑櫃持ちなどの下人小物が大勢含まれている。


例えば江戸幕府が規定した一万石級の軍役は総勢で二百三十五人であるが、実はその中で騎馬侍、鉄砲、槍、徒歩侍など戦闘要員となるのは半分以下の百六人である。

従ってもし今川勢が二万としたら、実際に闘う兵力は一万にも満たないと推測される。 一方信長の兵たちはほぼ全員が戦闘要員である。下人小者に至るまで死に狂いの働きをするはずであった。


俗に言われる「尾張の弱兵」とは、後に天下の覇権を握った三河者の言い草ではないだろうか?


 信長に率いられた軍勢は寡兵をよく多勢を破る天下一の強兵であったと言っても過言ではない。さらには設楽が原の合戦では一度に三千挺の鉄砲が使われ武田騎馬軍団に空前の戦果を挙げたことが示すように、信長軍団は世界最強の戦闘集団へと成長を遂げていくのである。鉄砲の本家ヨーロッパにおいてすらこの時期、これだけ大量の鉄砲が一度に投入された例はない。


――攻め掛かる頃合いを儂が方で決められれば……義元にひと泡もふた泡も、ふかしてやれるだわ。


勝てる、とまでは思ってはいない。

信長は吉乃の膝を枕にしている。吉乃は片膝を立て座っている。白絹の小袖をふわりを羽織っていて、はだけた襟からふくよかな胸乳がわずかにのぞいている。


 この時代女性が両膝を折り畳んで正座するという風習は、まだない。

ここは生駒屋敷の吉乃の寝所である。生駒家は灰と油を営む富裕な土豪であった。当主の八右衛門尉は早くから信長に心寄せており、財政的な支援を惜しまなかった。吉乃は八右衛門尉の妹である。後家となり出戻っていた吉乃に信長が一目惚れをし、以来鷹狩り遠乗りと称しては生駒屋敷に足繁く通っていたのだ。


 

 吉乃との間にはすでにふたりの男子を成している。奇妙と茶筅、後の信忠、信雄である。

終えたばかりの情事の余韻の中に、ふたりはいる。信長にとって吉乃との逢瀬は身も心も安らかに過ごすことのできる貴重な時間であった。だが例によってあれこれと思案することは止められない。


吉乃はそんな信長に膝を与え、穏やかにほほ笑みつつただ見守っているのが好きであった。情を交わす時よりもなお深く、ふたりの心が触れ合っているように感じられるからだ。 信長は目を閉じる。それがまるで突然の痛みに耐えるように見えたので、吉乃の表情が曇った。


「お屋形さま。どうされたのでこざいます」 大丈夫だ、というように信長は力強く頷いて見せた。


信長の脳裏に母の土田御前の表情が浮かんだ。

 勘十郎を討ち取った旨を知らされた信長は寝所を出て本丸矢倉へ向かった。信長が来ると手鑓を持った近習どもが吸い寄せられるようにして壁際に控えた。自然と信長は勘十郎の首を抱いて泣き崩れる母と対面する格好となってしまった。


権六も与兵衛も控えている。誰もこの母をこの場から引きずり出すことができないでいる。


ふと気づいて、土田御前は顔を上げる。

息を飲み、その切れ長の目をかっと見開いた。勘十郎の首を長小袖の袂でくるみ、すっと立ち上がった。


そして信長をしばし見つめ、唇を震わせながらゆっくりと口を開いた。


「おのれ三郎、ようも勘十郎を騙し討ったな。このうえはこの母がそなたよりも一日なりとも、ひと時なりともこの世に生きながらえ、そなたが死に様を見届けてくれようぞ。よう覚えておきや三郎!」


母は般若のごとき形相で、そう信長に言い放った。

たとえ畜生であったとて親は子を想うのが常であるのに、土田御前は息子の死を見届けるまで死なぬという。


 そのような地獄へ母を落としたのはすべて己が責めであると、信長は思っている。

しかし勘十郎という楔が織田家中に打ち込まれたままであっては、いずれ害をなすは明白であった。楔は除かねばそれが引き金となり、駿河か美濃の餌食にされるやも知れない。 仕方がなかったのだ……。


 以来ときとして信長の脳裏に母の般若のごとき形相が蘇る。そうであっても清洲にいる時などは感情にきつく蓋をし、いつも通り表情を変えることはない。だが吉乃とふたりだけの今はあえて蓋をする必要もなかった。吉乃は信長が今生で唯ひとり、甘えを見せられる相手であった。信長は吉乃との逢瀬の中で幼い日に失った何かを、取り戻そうとしているのかも知れない。


 信長は身体の向きを変え、吉乃の柔らかい下腹へ顔を埋めた。

甘やかな女の香りが、濃くした。

吉乃は何も言わずほほ笑みを浮かべたまま、信長の身体を抱くように上体を折り曲げる。信長の背中のあたりに頬を押し付けた。吉乃は愛する夫が閨の外でどれだけ激烈な人生を歩んでいるかを、知っていた。知っていて、何も言わず夫のすべてを受け入れようとしている。


吉乃は夫を心から慈しむように守るように、抱いた。そうすることで夫の苦悩を少しでも我が身に吸い取ろうとするかのように。

吉乃は後家であった自分に女としての幸せを与えてくれた六歳年下の男を、心から愛しく感じている。

信長は吉乃の下腹に顔を押し当てる。


「あまりきつう押さないで下さいまし」


 吉乃は優しく言った。信長は吉乃を見上げる。吉乃は上体を起こしている。よく張った胸乳の向こうに吉乃の顔があった。白い頬がうす桃色に上気しているのが、閨を照らすわずかな炎の光りでも見てとれた。

「……ややこが、できたやも知れませぬゆえ」

信長はうれしそうに白い歯を見せて「そうか」と言った。

信長は吉乃のまだ細い腰に腕を廻した。下腹に頬擦りをした。


「ここに、おるか。早よう出て参れ」 

吉乃はにっこりとほほ笑む。 

「すぐには出れませぬ。それに、まだいるとも決まったわけでありませぬ」

「おるわ。儂にはわかる」

風の音がする。外は木枯らしが吹いている。しかしこの寝所は若い男と女の発する熱気で汗ばむほどに暖かい。


「儂は人の命を奪い、その分をそなたが産んでこの世は帳尻が合っているのかのう」

 信長は勘十郎のことを思う。


――あやつも儂が手元におれば、役に立つ男になったであろうに……。


「思えば男と女は戦さをしておるようなものじゃの。男は死に狂いで人を殺し、女も必死に産み返す」


「おなごはそんな恐ろしいものではございませぬ。運命のままに生きるのがおなごにございます」


「そういうものかの」と言いつつ、信長はまた別のことを思っている。


――そうじゃ坊丸の傅育は権六に任せよう。父の敵の儂が育てるわけにも行くまい。権六ならば坊丸をよい武将に育てるであろうよ。

坊丸は後の織田信澄である。織田家門の有力武将として信長の天下布武にその手腕を発揮する。


「一段の逸物なり」(『多聞院日記』)とその器量を称えられた信澄であったが本能寺の変の直後、明智光秀の女婿という理由で三七信孝と丹羽長秀によって討たれ、その首は堺で晒されたという。だが、同じ光秀の女婿である細川忠興はこの切所をうまくきり抜けている。勘十郎の一子であったことも疑念を深める理由の一端となったのであれば、信澄にとっては気の毒なことである。


 そして信長の思考はまた元へと戻って行く。

 ――岩倉のかたがついたら上洛をせねばならぬ。

 将軍足利義輝へ拝謁し尾張統一を成したことの報告と、尾張守護職の拝任が目的であった。将軍から朝廷に奏任され正式に官位を受けて、信長はようやく今川や武田といった言わば一流の戦国大名と同じ土俵に立つことになる。


信長の目は遠く東の彼方へ向けらている。 今川治部大輔義元。海道一の弓取りと言われる男である。

挑みかかる相手が強いほど、乗り越えなくてはならぬ困難が大きいほど、信長の血は騒ぎ立つ。

 その先にある勝ち負け、生と死すらもはや彼の頭の中から飛び去っている。知力を尽くして準備を重ね、戦さ場では死力をもって闘い、そして負ければ……それまでのこと。

そう思っている。


いま、心の中に風が吹き渡る。

そして、風のままに駆け出して行くのだ。


土田御前はその言葉通り、信長よりも長くこの世に生きた。

 本能寺の変の際は安土にいたという。蒲生賢秀の手引きで日野に逃れ、後に孫の織田信雄に庇護される。信雄のもとでは「大方殿様」と尊称され、六百四十貫文(約二千石ほど)の隠居料とも言うべき知行を給されている。信雄が秀吉によって改易されてからは信長の弟である織田信包(生母は土田御前の異説あり)を頼り伊勢安濃津城に暮らした。


没年は文禄三年(一五九四)と言われる。

信長の死から十二年。彼女から見れば織田家の天下を簒奪したにも等しい豊臣秀吉の権勢は、その絶頂にあった。結局息子をふたりとも失い、織田家の劇的な勃興と没落を見た土田御前は八十余歳という長い晩年をいなかる想いで過ごしたのであろうか?


 それを伝える資料はもちろん残ってはいない。しかし戦国のおんならしく土田御前はすべての運命を潔く受け入れ、澄んだまなざしで移り行く時代を見つめていたのではないかと想像する。

『安土日記』には信長存命中の天正七年(一五七九)土田御前(御方様)が中川清秀に鑓を褒美として与えたという記述がある。すべての恩讐を超え、土田御前は信長をもり立てようと心を尽くしていたのであろう。


末盛城は勘十郎の死後、信長によって破却された。

現在城の本丸址には城山八幡宮が別所より遷されて鎮座している。城址は周囲に複雑に巡らした空堀跡や本丸と二の丸の間を隔てて続く坂道など、往時の姿をそのままに今日に伝えている。

しかし城址として遺されたか復元された建造物は一切なく、ただ、本丸址の片隅に石碑がぽつんと建っているのみである。


名古屋市によって昭和二年に建立された石碑にはこう記されている。

「天文十六年織田信秀之を築き始め、其の子信行(勘十郎)が此を継ぎ居城とする。後に廃せらるなり」(原文は漢文)

(了)




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