2:Dive-≪2≫
≪2≫
殴られたかの如き激しい頭痛と共に、頬に冷たい水の滴りを感じ、ミツクニはゆっくりと目を覚ました。
まず初めに視界に入ってきたのは錆びた古いパイプだった。天井を伝うそれは腐食により錆割れを起こしているようで、頬を濡らしたのはこの裂け目から滴り落ちた水であったのだと、ぼんやりとした頭で把握する。
背中が痛い。ミツクニはゆっくりと顔を横に向けた。コンクリートの床がすぐ近くに見える。そこでようやく、ミツクニは自分が床に寝転がっている状態である事を理解した。
そうして目線を徐々に上へと移していく。錆びた棚。中には薬品の瓶らしきものが並んでいる。コンクリート張りの壁は所々、何かの模様の如く変色しているようだった。
そしてそれらをうっすらと照らす、橙色の光。ミツクニは反対側へ顔を向けた。
丁度手を伸ばすと届くであろう位置に、机の脚が見える。無機質な机。恐らく鉄製だろう。錆びた部分が赤黒く変色している。机の向こう側に見えるコンクリートの壁に、五十センチ四方程の窓が見えるが、外側から鉄板か何かが打たれ、塞がれてしまっており、外の様子を伺う事は出来ない。
不意に左右の手首に刺す様な痛みを感じ、思わず低い呻きを上げる。ミツクニは天井を仰ぐと、己の両手首を見た。
痛みとは裏腹に、手首には何の外傷もない。そうしているうちに、体中の痛みが嘘かのように消えていく。
そこでミツクニは、ようやく自分に起こった事を思い出した。
――そうか。俺は『コマ』に―――。
ミツクニは深く息を吐き、眼を閉じる。
『コクーン』に入り、『コマ』の世界に入ったという事。つまり自分は今、仮想空間に居るという事になる。
「―――現実と何も変わらない」
視界に入る景色や感覚を改めて確かめながら、ミツクニはぽそりとそう呟いた。
―――現実の身体はどうなっているんだろう。
ミツクニはコマに入る前に見た、コクーン内のヘルムートの様子を思い出した。
機械に繋がれた、植物人間のような姿。
自分も、ああなっているのだろうか。
今、自分は夢の中で生きている。皆共通の夢。コクーンに繋がれ、コマ世界に入った者全員が共有する夢―――。
不意に、紅の長髪とよく整えられた顎鬚がミツクニの脳内にフラッシュバックの如く浮かんだ。
「イェンス!エーリク!」
ミツクニはこの世界に共に来たはずの友の姿を思い出し、そう静かに叫ぶと、両手に力を入れ勢いよく起き上がる。そうしてコンクリートの床を、踏みしめ勢いをつけて立ち上がった。
「…ここは?」
ミツクニは辺りを見回す。自分以外には誰も居ない。約十二畳程の、全面コンクリート張りの部屋の中央に、彼は立っていた。
部屋には机と薬品棚以外に何も無い。机上にはキャンプなどで暫し用いられるようなランタンが置いてあり、これが部屋の内部を橙色に照らしている。
四方の壁を見るが、扉などは無い。先程見た、鉄板が張られた窓があるだけである。
ミツクニは念のため窓に近付き、内側から鉄板を押してみる。思った通り、鉄板はかなり頑丈に張られており、力任せに開けるのは難しそうである。
次にミツクニは天井を見た。天井には錆びた鉄パイプが幾重にも張り巡らされている。ガブリエルのスタジオで見た光景によく似ているとミツクニは思った。
―――出口は無い、か。
ミツクニは一度息を深く吐くと、ランタンの灯りを見ながら、ゆっくりと思考を巡らせる。
―――これはゲームだ。だとするとこう言った場合、まずは情報を集めて、部屋の外へ出る方法を探りつつ、使えそうなアイテムを物色する。
ミツクニは薬品棚に近付き、扉に張られた硝子越しに内部を見た。
硝子は酸焼けし、やや白く濁っている為、中に瓶が陳列されているという事しか分からない。
ミツクニは錆びた取手に手を掛け、手前に引く。耳障りな音を立てながらも、扉は簡単に開いた。
中には古い瓶が二十数本ほど並べられている。瓶の外側に貼られたラベルは消えかけており、中に入っているのが何の薬液なのか、知る事は出来なかった。
ミツクニは次に下段の引き出しを開ける。そこには注射用の20ccシリンジと18Gの注射針が数本入っていた。色褪せたパッケージを注意深く見ると、製造年月の欄に『3889/12/09』と記されている。
―――これが年号だとすると、現実の世界とは随分かけ離れた時代の設定なのか。近未来なんてレベルじゃないな。
今の年号が何年なのかは分からないが、パッケージから推測するに相当な年月が経っていると思われる。だがシリンジと注射針は開封されていなかったせいか、外側から見るに内部は劣化を免れているようである。ミツクニは暫く考えた後、その中でも特に綺麗なシリンジと注射針を数本見繕うと、ジーパンのポケットに捻じ込んだ
次にミツクニは、一番下のスライド式ドアを開ける。中には一冊のノートが無造作に置かれているのみで、他には何もない。
ミツクニはノートを手に取ると、表紙をはらりとめくった。
「―――『死せる者 死には生を 血は血で洗い流す』?……あ、これバーニング・デスの”ドリンク・マイ・ヘルブラッド”の歌詞じゃん」
バーニング・デスと言えば、ミツクニがメタルに入れ込むきっかけとなった『メタル五騎士』と呼ばれる伝説のバンドの一つである。
ミツクニは蚯蚓ののたくった様なその文字を訝しげに見つつ、ぱらぱらと他のページを開いてみる。
だが、記されていたのはその一文だけであった。
ミツクニはノートを閉じため息を吐く。
「…収穫はこれだけか」
出口の情報は無しか―――そう思いながらミツクニはノートを元あった場所へと戻す。
その時不意に、ミツクニの横に流した前髪が微かに揺れた。
「……風?」
ミツクニは前髪を掴んだ。間違いない。棚の内部から外側へと、風が微かに吹いている。
ミツクニは上半身を棚の中へ捻じ込むと、棚の内部の壁を確かめた。
指を滑らせ、注意深く内部を確認していく。
やがて、奥の角の、錆割れした部分から風が漏れているのを発見した。
「という事は…」
ミツクニは身体を棚から出す。そうして立ち上がり、薬品棚へ手を掛けると、手に力を入れ、手前に棚を三十センチほど引き出した。
「おお!当たりっ!」
薬品棚が置かれていた部分の壁には丁度人が一人通れるほどの出口があった。
扉は無い。金具が僅かに残っている事から、恐らく撤去したか、破壊されたのだろう。
扉の向こう側には、薄暗い廊下が伸びている。
ミツクニは意を決すると、出口から外へと足を踏み出した。
***
身体の内側から込み上げる吐き気を必死に抑えながら、エーリクはふらつく身体で出口へと向かう。
部屋の中に陳列された、生物のものだと思しき臓物や脳のホルマリン漬け。それらをなるべく見ないよう心掛けるのだが、四方の棚に陳列されたそれらの数は余りにも膨大で、否が応でも視界に入ってしまう。
「くそっ…!こんな所に飛ばされるなんて聞いてねえぞ…!」
コクーンに入り、コマ世界へとアクセスする段階で、経験した事のない程の激しい痛みが全身を襲ったところまでは覚えている。
そこから意識が飛び、次に目覚めた時には、エーリクはこの薄暗い部屋で無数の臓物に囲まれながら、寝転がっていたという訳である。
―――ガブリエルのスタジオで見た映像にはこんなホラーなシーンは無かったぜ?畜生、このリアルさ……現実と何も変わらねえじゃねえか。画面を通してプレイするホラーゲームじゃ怖くも何ともないが……
ホルマリンの、つんと刺す様な臭いが鼻につく。
エーリクは扉まで辿り着くと、錆びたドアノブをゆっくり回した。
手が汗でべとついている。
キイ、という音と共に開け放たれた扉の先には、青白い光に照らされた雑多な空間が広がっていた。
エーリクが開けた扉の横には手洗い場がある。白く汚れたシンク。壁に並ぶ鏡は白く濁っている。
壁には医療機器らしき装置が多く並んでいた。エーリクは錆び、色褪せたそれらを注意深く見る。
「人工心肺や麻酔器、生化学分析装置…ってところか。手洗い場があることから考えても、ここは手術の前室だな。しかし―――」
エーリクは機材の一つに触れる。
エーリクが以前勤めていた電子機器メーカーは、医療機器業界にも大々的に参入していた。エーリクは医療機器部門ではなかったが、一度そちらへの異動を打診された事があったのである。その関係で試験的に、過去に数回ではあるが、エーリクは総合病院の手術室や心カテ室に出入りしていた経験がある。
―――結局、手術室のピリピリ感がどうにも合わなくて辞退したんだけどな。
十年ほど前の事なのであやふやではあるが、その頃の記憶を必死に思い起こしながら、エーリクは機材を一つ一つ見ていく。
「ここは確か近未来が舞台なんだろ?だがここにある機材はどれも現実とそう変わらない。そこまで設定を作り込まなかったって事か?それも変な話だぜ」
エーリクはそう一人で呟きながら、部屋の反対側を見た。
反対側には、この前室ほどではないが、ちょっとした部屋があるのが見える。扉などは無い。ステンレスの台に、壊れた照明。錆びたワゴン。
―――手術室か。
何となく嫌な予感がしながらも、エーリクはそちらへと歩いた。気がつけば身体の痛みやふらつきは綺麗さっぱり無くなっている。
エーリクはゆっくりと手術室へ向かい歩いていく。そうして部屋の入口の前まで来ると、ゆっくりと、内部を覗き込んだ。
照明が壊れているせいで中は暗く、ほとんど何も見えない。エーリクはきょろきょろと辺りを見回し、壁に設置されていた懐中電灯を見付け手に取ると、やや心許ない弱々しいその光で中を照らした。
天井の端から注意深く、照射光を移動させていく。そして懐中電灯の明かりが、手術台を照らした時。
「…うっ」
エーリクは思わず喉の奥で呻いた。
夥しい程の、黒く変色した血。手術台にこびり付いたそれは酷く垂れたのか、床をも黒く染め上げている。
エーリクは恐る恐る血がこびり付いた床を照らす。
懐中電灯の光に照らされ露わになった、無数のメス。床に散らばる様に落ちている其れは、黒き血で怖ろしく錆びていた。
「…手術の後か、それとも生物実験の後か」
いずれにせよ、不快極まりない事には変わりない。
エーリクは手術室から目を離すと、左側の通路の先に扉があるのを発見した。
「…こっちが出口か?」
エーリクはそう呟くと、扉へ向かい歩き出す。
が、不意に立ち止まると、エーリクは回れ右をし、並ぶ無数の機材の傍に置いてある棚を見る。
エーリクは雑多に物が置いてあるそれをガサガサと漁った。
「ええっと……お、あったあった」
そう言ってエーリクは段ボール箱の中からドライバーを一本取り出す。
「多少、武器になるもんがねんとなあ。ったく、見せられた映像だと皆、あんなに格好良い武器持ってたのによ…あれ、どこで手に入れんだよ」
そう悪態をつきながら、エーリクは先程見つけた出口らしき扉へと足を進めた。
錆びついているドアノブを握り、静かに回す。
―――その時。
―――ドゴォォオオン!!
扉の向こう側で何かが破壊されるような、凄まじい轟音がした。
エーリクはドアノブから手を離し、咄嗟に扉から離れる。
ドライバーを握りしめ、暫く様子を見る。
だが、待てども再度音は聞こえない。
「―――気のせいだ」
きっと幻聴だろう。自分自身に言い聞かせるように、エーリクはそう呟く。
そうして再びドアノブを回し、エーリクはゆっくりと、扉を前へ押し開けた。
扉の先には薄暗い廊下が先まで伸びている。
―――刹那。
「う……うわああああああ!!!」
聞き覚えのある叫び声。それと共にこだまする、轟音と、金属同士がぶつかる高い音。
「―――イェンス!!」
エーリクはそう叫ぶと、弾かれた様に叫び声のした方へと走った。
***
イェンスは目の前に立つ、異形のモノから目を離せずにいた。
この部屋で目覚めた直ぐ後に発見したナイフ。それはコンクリートの壁を破壊して、突然現れたこの怪物が暴れた衝撃で、部屋の端へと飛ばされてしまった。
「ウ…ウウウウグウウウオオオ…」
其れの唸りが空間を伝導し、イェンスの手首に揺れるブレスレットを微かに揺らす。
否、それはイェンス自身の、震えによるものかも知れぬ。
イェンスは目の前に立ち、動かずこちらをじっと見ているソレを改めて分析した。
大きさは二メートルはあるだろうか。全身を毛に覆われているソレは、よく見ればヒグマのようにも見える。
だが、裂かれた腹から覗いた、生きているかの如くウネウネと蠢く、巨大な蚯蚓のような機械の触手。それは心臓や左眼をも突き破り、体中の至る所から飛び出している。
そしてソレの腕。明らかに身体の大きさに対して大きすぎる造りの、機械仕掛けの腕。
千切れたコードが何本も床に垂れていた。
―――くそっ!何だよこの気持ち悪いバケモノ…!寝起きでこんな訳の分からねえ状況、全く笑えねーっつうの。しかも武器もねえとなると―――。
イェンスは全身の感覚を極限まで研ぎ澄ました。
異形のヒグマは剥き出した歯から、途轍もない臭気と共に唸り声を漏らしている。
―――扉はオレの背後五メートル先ってとこか。けど恐らく、こいつはオレが動いた瞬間に、オレに向かって襲ってくる。オレが扉まで辿り着くのと、こいつがオレまで辿り着くのと、どっちが先か―――。
イェンスは眼を見開き、瞳孔を開いた。全身の血管、神経、筋肉に気を集中させる。
スカイブルーの眼に走る碧き雷光。
イェンスの身体奥深くに眠る『血塗られた牙(ブラッディ・ファング)』の血が呼び覚まされる―――。
刹那。
イェンスが動くよりも先に、異形のヒグマが轟音を立てて、こちらへ突進してきた。
ヒグマの眼。眼から映える機械蚯蚓。それの先が裂けるようにガパっと開かれ―――。
怖ろしい程長く鋭い牙が、イェンスの眼前に迫った。
全身に走る戦慄、ぞわりと這い上がる恐怖。
今まで経験した事の無い程の、圧倒的な殺気。
「う……うわああああああ!!!」
迫りくる轟音。ぶつかり合う金属の高音。
イェンスの口から漏れ出たのは、劈く様な恐怖の叫びだった。
化物が眼前に迫る。イェンスは思わず身を屈めた。
―――もう逃げられない。
そう思った時だった。
「イェンス!!!」
聞き慣れた声と共に扉がバタンと開け放たれる。異形のヒグマは一瞬怯み、動きを止めた。
イェンスは扉から現れた、ガタイの良い綺麗な顎鬚の男を見、思わず叫ぶ。
「エ、エーリクーーーー!!!」
エーリクはイェンスに襲い掛かる異形のヒグマを見、一瞬身じろぐが、直ぐにイェンスに向き直る。
「イェンス、受け取れ!!」
そう叫びエーリクは手に持っていたドライバーをイェンスに投げた。
イェンスはそれを身を翻し、右手で掴む。
そしてヒグマに向き直りながら、イェンスは全身の力を右手に集中させ、触手の生えていない、ヒグマの右目目掛けてそれを思い切り突き立てた。
「おらああああああ!!!」
イェンスの叫びと共に、ヒグマは後方へ数歩退く。
その隙にイェンスは扉の外に立つエーリクに駆け寄った。
「エ…エーリクぅーー……」
エーリクは今にも泣きそうなイェンスに喝を入れるかの如く、数回背中を叩いた。
「おいこら!狼から中型犬に戻るのはまだ早えぞ!早くここから…」
そうエーリクが言いかけた時だった。
「ウウ…グオオオオオオオウウ!!」
耳を劈く轟音が空気を振動させる。
二人は恐る恐る部屋の内部に向き直る。
見れば、先程のヒグマが天を仰ぎ見、雄たけびを上げ―――
その瞬間。その毛むくじゃらの身体を引き裂くように、一斉に機械蚯蚓が無数に飛び出した。
「……神よ」
エーリクが呟く。
「エーリク…これってまさに……ゲームのボスの第二形態……」
イェンスは途絶え途絶えにそう言った。
不意に、異形ヒグマの叫びがぴたり、と止まった。
二人はその場から動けぬまま、その様子を呆然と見ている。
異形ヒグマは、仰ぎ見ていた顔を下げると―――
有り得ない角度で首を捻じ曲げ、こちらを向いた。
ヒグマの右眼から、どろりとした赤黒い血が滴り落ちる―――。
「「う……うわああああああああ!!!!!」」
二人の叫びが、薄暗い廊下に響き渡った。
***
「……!今のはイェンスとエーリク……!?」
不意に聞こえた聞き覚えのある叫び声。
廊下の突き当たりにある扉の向こう側から聞こえたそれに、ミツクニの足は弾かれたように駆けだしていた。
―――今の叫び、只事じゃなかった。まさか、何かあったのか…?
額に浮いた脂汗が頬を伝う。ミツクニはそれを拭う事も忘れ、一目散に扉へと走る。
そうして三十メートルはあろう廊下を走り、突き当たりの扉のドアノブに手を掛ける。
「……!?くそっ!!開かない…!」
錆びついたドアノブは内部の鍵をも浸蝕しているのか、どんなに回そうとしても、一向に回る気配は無かった。
「イェンス!エーリク!!」
ミツクニはそれでも必死にドアノブを回そうとしながら、扉の向こう側へ向かって叫んだ。
「…ミツクニ!ミツクニか!?」
「ミツクニだ!ミツクニーーーー!!」
二人の叫び声が向こう側から聞こえる。
それと同時に、轟音と金属の擦れる音が聞こえる。工事現場かと思う程のそれはビリビリと鼓膜を揺らすほどで、二人の叫びを掻き消した。
「…こうなったら……!」
ミツクニは意を決して、右足に力を入れる。右足に彫られているのは風神。風を司り、悪を祓う神。
躊躇している暇は無い。
ミツクニは数歩後ろに下がると、扉目掛けて思い切り右足で蹴りの一撃を食らわせた。
金属が破壊される音と共に解錠した扉。ミツクニは扉を押し開ける。
「イェンス、エーリク!!」
扉を開けたミツクニの眼前に飛び込んできたのは、暴れ回るヒグマの様な怪物の攻撃を必死にかわす二人の姿だった。
ヒグマ―――その恐ろしい、機械に寄生された怪物をヒグマと呼べるかは謎だが―――は全身で暴れ回り、近くにあるものすべてを破壊していく。その攻撃は定まっているようには見えない。
良く見ると、異形ヒグマの右眼にドライバーのようなモノが突き立てられており、異形ヒグマはそこからどろりと固まりかけた血を流していた。
「ちょっと何これ!?どうなってるんだよーー!!」
ミツクニが二人に向かい叫ぶ。
二人はヒグマの攻撃を何とか避けつつ、ミツクニの方へ近付く。
三人は一先ずヒグマの無差別攻撃が届かないであろう、ミツクニが蹴り破った扉を出て直ぐの、廊下の隅へと避難した。
「いやそれがな、イェンスがあいつに襲われててさ。俺がドライバーをイェンスに投げた」
「で、オレが奴の右眼にドライバーを刺したら、身体からあの蚯蚓みたいなのが生えてきた」
二人の解るようで解らない説明を頭で理解しようとしながらも、ミツクニは異形ヒグマを見た。
「…多分、あのヒグマ、眼が見えないんだ。だから無差別にああして破壊してる」
「撤退するか?」
エーリクがヒグマを見、顎鬚に手をやりながらそう言う。
イェンスはややへっぴり腰になりながら「うーん」と唸った。
「今更だけど、これって『コマ』のゲームの中なんだろ?って事は、これは言わば最初に遭遇する中ボスってとこだよな?となると、きっとあいつを倒さねーとこの建物から出れねーんだぜ、オレ達」
ミツクニはイェンスの言葉に頷く。
「多分それで間違いないと思うよ。でもどうやって倒すか…」
ミツクニは腕を組みながら考えを巡らせる。
だが考えども、一向に良い案は浮かんでは来なかった。
「あのヒグマ、まるでホラーゲーム『デッド・シティ』に出てくるゾンビみたいだよなあ。何っつうか、動いちゃいるが生きてるようには見えねえ。こういった場合、奴に寄生してるあの機械蚯蚓が身体の主導権を握ってるっつうのがセオリーだが…」
そう言ってエーリクは頭を掻いた。
イェンスはエーリクの背後から様子を伺うようにしながら異形ヒグマを見ている。
「へー、ゾンビか…。ああそう言えば、スタジオでガブリエルさん言ってたっけ。この世界に蔓延ってる敵…確か”機鬼”とか言うんだったな。機械の鬼―――って事はやっぱり死者なのかも知れねーぜ、あいつ」
―――死者…?…死せる者……『死せる』……
「あっ!」
ミツクニの頭に、閃光の如き閃きが浮かんだ。
「そうだ…!バーニング・デス!『ドリンク・マイ・ヘルブラッド』!」
二人は振り返りミツクニを見た。
その顔は如何にも訝し気といったところである。
「ミツクニ、何だよいきなり。いくらバーニング・デスが好きだからって、こんな時まで引き合いに出す事ねーんだぜ」
イェンスはそう言ってミツクニの肩を叩く。
「そうじゃないんだよ!…実はさ」
そこでミツクニは簡潔に、最初の部屋で見つけたノートの事を説明した。
「『死せる者 死には生を 血は血で洗い流す』…?」
エーリクが内容を確かめるように復唱する。
「つまりさ、俺達生者の血で、死者である奴を倒せるって事なんじゃないかな。まあ勿論、ノートの内容を信じるなら、だけど」
「まあ、けど今はそれしか考えられる手段はねーよな。それにこれはゲームだから、ボス攻略のヒントがそういう所に書いてあるってのは何ら不思議じゃねーぜ」
「けど、具体的にどうやって俺達の血を奴に食らわせるんだ?掛けるか?飲ませるか?いずれにせよ、そう簡単にはやらせてくれそうもないぜ」
そう言ってエーリクは異形ヒグマを親指で指差した。
ミツクニは少し考えた後、ふと思い出しジーパンのポケットをがさごそと漁った。
「確かここに……あ、あった!」
そう言って取り出したのは先程引き出しから拝借してきた、シリンジと穿刺針だった。
「ノートと同じ棚にあったのを貰って来たんだ」
イェンスはミツクニからそれらを取り上げると、弱々しい光を放つ天井の蛍光灯に透かして眺める。
「病院で良く見るやつか。これ、どーやって使うんだ?」
エーリクはイェンスの手からそれらを奪い取ると「ワーオ」と驚嘆の笑みを見せた。
「これで俺達の誰かの血を採血して、あのヒグマに注射するわけだな。だが…」
三人は異形ヒグマをじっと眺める。
ヒグマは同じ場所で、唸り声を上げながら延々と破壊活動を行っている。
その破壊力は凄まじく、コンクリートの壁を、まるで紙かの如く易々と壊していく。
注射を打つどころか、近づく事すら出来ぬように感じられた。
「―――よし」
イェンスが一度息を深く吐いた後、はっきりした声でそう口を開く。
「オレが奴に一発食らわせてやるぜ」
ミツクニとエーリクは目を見開きイェンスの方を見た。
「おいおい待てよイェンス。確かにお前の『獣性』は凄まじいかもしれねえ。お前が猛獣だったからこそ、さっきはドライバーをやつの右眼に突き刺す事が出来たんだろうさ。けどな、さっきよりも奴は各段にパワーアップしてる。それに今のお前は―――」
そう言ってエーリクはイェンスの頭からつま先まで眺めた。
イェンスは現在、ミツクニの後ろで、彼のTシャツを掴みながら、隠れるように異形ヒグマの様子を伺っている。
「猛獣狼じゃねえ。ただの中型犬だ」
エーリクの言葉に、イェンスのTシャツを掴む手に力が入った。だがその手はぶるぶると震えている。
「うるせーー!!っていうかさっきから何なんだよその『中型犬』って!!」
―――小型犬みたいに小っちゃいわけじゃないけど、かといって大型犬みたいに温厚でゆったりと、かつ堂々と構えてはいないからかなあ。
ミツクニは心の中でそう呟く。
イェンスは「何だよオレは柴犬か?コーギーか?」などと呟いた後、再度大きく息を吐き、ミツクニのTシャツから手を離した。
「いいか、この中で一番喧嘩に慣れてんのはオレだ。そして一番最強なのもオレだ」
そう話す彼の態度は先程の中型犬ではない。凛とした態度、自信に満ち溢れた不敵な笑みは、ミツクニが彼と出会った際、最初に見た『猛獣』そのものであった。
「オレが隙を見て奴に拳を食らわせる。で、奴が怯んだすきにミツクニが奴に血の注射を打ったらいい。―――というわけでエーリク」
イェンスがエーリクに指差し言う。
「囮になりやがれ」
エーリクは余りの展開に少しの間口を開けて黙っていたが、やがて大声で笑い始める。
「あーーはっはっは!!冗談が過ぎるぜ全く。囮ときたもんだ!はーはっは!!」
エーリクの笑いが廊下に虚しく響く。
その笑いがやがて弱々しくなっていき、空間の中に消えていった後、エーリクは今までに無い程真剣な面持ちで二人に向き直った。
「―――なあ、まさか本気じゃないよな?」
***
エーリクがシリンジを引き、ミツクニの腕からゆっくりと血液を抜き取り充填していく。そうしてゆっくりと抜針した後、ミツクニは自らの左腕をきつく抑えていた手を緩めた。
右腕の肘部から血が滲み出る。ミツクニは親指でそれをぎゅっと押さえた。
「エーリク、随分手馴れてるんだな。やってたことあるのか、そーいう事」
エーリクの穿刺の手際をじっと見ていたイェンスが感心しながらそう言う。
「いや、実際にはねえぜ。だが実は昔、前職で病院に出入りしてた時期があってな。その時に模型で少し練習させてもらった事がある」
人体に穿刺した経験が無いというのは少し恐怖ではあったが、この際そうも言ってられない。
―――まあ、ゲームの世界だし、さすがにこのタイミングで穿刺に失敗して出血多量で死ぬとかはない、と思うし。
ミツクニはそう思い自らの腕をエーリクに差し出したのであった。
「…さて、準備は整ったわけだが…」
エーリクは改めて異形ヒグマを見た。
「イェンス、頼むぜ?お前が奴を殴り損ねたら、俺の男らしいハンサム顔が奴に破壊されて台無しだ」
イェンスはからからと笑いエーリクの肩に手を置く。
「任せとけって。オレは一度狙った獲物は逃がした事がねーんだ。…あ、でもミツクニには拳を防がれたか。…まあ、エーリクは腕っぷしが良いから一発くらいあのヒグマから食らっても死なねーよ」
ミツクニはそんな二人のやり取りを見ながらふと思う。
―――そう言えば、この世界で『ゲームオーバー』ってあるのかな。死んだらゲームオーバーか?普通は、最初のタイミングでそういう事を教えてくれるお助けキャラとかが登場したりするものだけど、そんな描写も無い。こういうところも、まるで…
ゲームじゃないみたいだ。ミツクニは自分の血が充填された、生暖かいシリンジを握りしめ思った。
「…よし!じゃあ行くぜ!」
自らの顔をパンと叩き、エーリクが歩き出す。
「エーリク、気を付けて!」
ミツクニがそう言うとエーリクはこちらに向かい親指を立て、にやりと笑った。
ゆっくりと、二歩、三歩とヒグマに近付いていく。
そうして十歩ほど歩いたタイミングで、異形のヒグマが辺りを破壊する手をぴたりと止め、エーリクの方へと顔を向けた。
左眼から飛び出る機械蚯蚓の先が開き、牙がぎらりと光る。
エーリクは深く息を吸い、今までに無い程大きな声で異形ヒグマに向かい言った。
「ヘイ!ヒグマちゃん、こっち来な!遊んでやるぜ!!」
そう言い終わると、エーリクはヒグマに向かい手招きする。
異形のヒグマは大きく唸ると、エーリクに向かい凄まじい勢いで迫ってきた。
異形ヒグマの顔が眼前に迫る。ヒグマの眼の機械蚯蚓が牙を剥いた―――。
「イェンス!!」
エーリクが叫ぶ。
「任せとけ」
エーリクにヒグマが意識を集中している隙に、ヒグマの背後に回ったイェンスはそう静かに言うと、右足を踏みしめ思い切りジャンプする。
その瞬間、ミツクニは見た。
比喩ではなく、イェンスの眼に碧い雷光が走り―――。
それは眼から頬、首を伝い彼の右腕に走っていく。
そうして雷光を纏ったイェンスの拳が振り上げられ―――。
「おらあ!!」
叫びと共に振り上げられた拳が異形ヒグマの後頭部に当たった瞬間。
スパークしたかの如く、雷光は目が眩むほどの光を周囲に放った。
―――イ…イェンス……!?
余りの衝撃に、言葉にならない声がミツクニの喉から出、消えていく。
「ミツクニ!今だ!!」
イェンスの、碧き雷光が宿る眼がミツクニを見た。
ミツクニはそこではっと我に返ると、弾かれた様に走り出した。
そうしてイェンスの一発で蹲っている異形ヒグマの背後に回ると―――
「―――どうだ!」
そう言って手に持っていたシリンジを、思いきり異形ヒグマに突き刺した。
ヒグマの筋肉の緊張が手に伝わる。
ミツクニはシリンジの背を押し、自らの血をヒグマに押し入れていった。
「グウウ…!」
ヒグマは苦しそうな呻きを上げる。そうして身体はそのままに、顔だけミツクニの方を向き、怖ろしい程鋭く尖った歯を剥き出した。
その歯の隙間から、機械蚯蚓がこちらへ向かって伸びる―――。
が、機械蚯蚓はそのまま、ぐったりと地面へ向かい垂れ下がってしまった。
それと同時に、ヒグマも座り込むようにして頭を垂れ、動かなくなる。
「や、やった…のか?」
ミツクニはそう言って隣のイェンスを見る。
イェンスの眼に雷光は無い。彼は荒げた息で数回呼吸した後、徐々に笑顔を取り戻していった。
「や…やった!!やったぜオレ達!!ミツクニ!!」
そう言ってイェンスはミツクニに抱き付いた。
「こら待て待て、俺を忘れんなよ」
エーリクが笑いながらそう言ってヒグマの影から現れる。
そうしてふらふらと起き上がり二人へと寄ると、まとめてそのまま抱き付いた。
「おい、苦しいっつうの!エーリク!!」
いつもの如くそう悪態をつくイェンスの顔は笑顔で溢れている。
そうして三人は、コマ世界に来て初めての戦闘勝利の喜びを分かち合ったのであった。
***
「いやー、この世界はとんでもなくクレイジーだぜ。武器も結局まだ無いしな」
廊下を進みながら、エーリクはため息交じりにそう言う。
「ガブリエルさん、オレ達の事見てねえのかな。なあ、ミツクニ?」
先程のイェンスの雷光について考えていたミツクニは、イェンスの呼び声にはっと我に返ると、「ああそうだね」と相槌を打った。
―――あれ、エーリクも何も言わないし…本人もこんな様子で気付いて無かったみたいだし…気のせいだったのかな?いや、でもゲームの世界なら起こってもおかしくない展開ではあるんだけど―――。
期待させても悪いと思い、ミツクニはあえてこの件は黙っておくことにした。
「出口はあれか?」
エーリクが廊下の突き当たりにある扉を指差した。
扉の磨りガラス越しに、わずかだが光が差している。
「そうだね、きっとあれがこの『ダンジョン』のゴールだよ」
ミツクニがそう言うと、イェンスが伸びをしながら欠伸をしつつ口を開いた。
「はー!やっとゴールかよ!!疲れたぜ…もうオレ、早速ログアウトしたいんだけど」
確かに―――ミツクニがそう思った瞬間だった。
「グゥウウウオオオオオオオオ!!!!」
背後十数メートル後方から聞き覚えのある唸り声が聞こえ、三人は恐る恐る振り返る。
見れば、先程倒した筈のヒグマが何事も無かったかのように立ち上がり、こちらを見ていた。
「お、おい…嘘だろ……」
いつも自身に満ち溢れた『水明の騎士』エーリクの声が、僅かに震えている。
「ま、まさかこっちに来たり…しないよな…?」
イェンスは既にへっぴり腰である。
「いや…この展開は―――」
ミツクニがそう言いかけた瞬間。
異形ヒグマが周囲を破壊しながら、とてつもない速度と勢いを以てしてこちらへ走ってきた。
「「「うわああああああああ!!」」」
三人の叫びがこだまする。
そうして誰からともなく、一斉に出口と思しき扉へと駆けだした。
「オレ達、喰われるんだぜ絶対…!それであの蚯蚓の仲間入りをするんだ…」
恐怖のあまりイェンスが訳の分からない事を口走っている。
「イェンス、落ち込むのはまだ早いって!ほら、もうすぐ出口―――」
ミツクニはそう言いかけた時、不意に背後に生暖かい臭気を感じた。
―――まさか。もう追い付かれた…?
ぞくりと這い上がる恐怖がミツクニを襲った。
振り返り、怖ろしい姿を見上げた時―――。
「伏せて!!」
前方の扉が開け放たれたと同時に、女のものと思しきやや高めの声が飛び込んでくる。
三人は咄嗟に地面に伏せた。
耳を劈く程の銃声と共に、何かが頭上を飛び越える。
「…もう寝る時間だ!!」
ややしわがれた、低めの声。その直後、腹にずっしりと圧し掛かるような銃声と同時に肉が断たれる音、そうして生暖かい血飛沫が背中に掛かったのを感じた。
巻き上がる爆煙と共に、金属が壊れ、崩れゆく音が耳を劈く。
それと共に、背後に感じていた殺気が消え、三人はゆっくりと身を起こした。
前方の扉の前で揺れる、ブロンドの髪が視界に入る。
その女は、一目で見る者の心に自らを強く焼き付ける程の、美貌の持ち主であった。
眼は大きく、ブラウンの瞳が長い睫毛に縁どられている。均衡のとれた顔はどのパーツもそれぞれを引き立たせるように出来ているとしか思えぬ。厚みのある唇は真っ赤なルージュに染まり、それが彼女をより一層官能的に魅せている。
背は高く、百八十センチ程はあるだろうか。細いながらも女らしい身体を、ぴったりとしたデザインの黒いレザーのワンピースと黒いレザーのロングブーツが際立たせていた。
「ナタリー・オーケルベルム…」
ミツクニは腕を組み立っているその女を見、そう呟いた。
「スウェーデンのシンフォニックメタルバンド『ソウル・エーテルナ』のボーカルか!どうりで見覚えのある美女だと思ったぜ!だが…」
エーリクは立ち上がり、服に付いた塵を払いながら後ろを振り返る。
異形ヒグマの死骸の前に立つ、長いボサボサの髪の男。百九十センチはあるかと思われるその男は振り返り、三人の方を見た。ややたれ目がちな、濃い青の瞳がぎょろりと動き、三人を捉える。
「全くお前達、こんな奴に手こずりやがって。それでも『期待の新人』か!」
そう言って男はエーリクの頭をパシッと叩いた。
「ワーオ、いきなり殴られるとは……ってあれ、まさかあんた、ヘルムートじゃねえか?」
イェンスが異形ヒグマの死骸をじっと見、口を開く。
「おかしいなー。さっきミツクニの血を注射したから、確かに死んだと思ったのに」
ナタリーは異形のヒグマに近付き、首に打たれた注射器を見、言った。
「生者の血は一時しのぎでしかないの。『機鬼』を殺すモノはこの世界でただ一つ、『ブースター』で鋼鉄の魂を具現化した武器だけよ。貴方達、本当に運がいいわね。殺されるところだったのよ?」
聞かぬ用語ばかりでぽかんとしている三人を見、ナタリーは呆れたと言わんばかりにため息をつく。
「まさか貴方達、何も知らないで『コマ』に来たの?全く、ガブリエルから何も聞かされていないのね」
まあ、おいおい話すわと言ってナタリーは踵を返した。
その後をヘルムートが続く。
「お前達、付いてこい。俺達の拠点に案内する。そこにガブリエルもいる。お前らはこれから、俺がしっかり訓練してやるからな。覚悟しとけ」
そう言ってヘルムートはにやりとニヒルな笑みを浮かべる。
ミツクニはエーリクを見た。エーリクは肩を竦めた後、仕方ないと言わんばかりの力無い笑みを見せる。ミツクニ達は気持ちが追い付かないながらも、仕方なく二人の後に付いていく事にした。
だがイェンスが異形ヒグマの死骸の前から動かない。ミツクニとエーリクは彼の方へと戻った。
「イェンス、どうしたの?来ないのか?」
ミツクニがそう言うが、イェンスは何も言わない。
「おいおい、黙ってたって何も解んねーぜ」
イェンスは一度目を閉じた後、ゆっくりと目を開け、異形ヒグマから目を逸らさぬまま、言った。
「この世界、ゲームじゃないみてーだ。殴られれば痛みもあるし、怪我すれば血だって出る。このヒグマにしてもそうだ。こいつは間違いなく殺気を放ってた。普通、ゲーム内の敵の殺気なんて感じないものだろ。だって現実じゃない、作り物なんだからよ」
ミツクニは改めて、異形ヒグマの死骸を見た。
手に残留する、ヒグマに注射器を突き立てた時の感覚が蘇る。筋肉の硬さ、抵抗、身体から放たれる臭気。
そして、全身から放たれていた、悍ましい程の殺気。
―――確かに、作り物に感情は無い。ゲームをプレイしていて、キャラクターの感情は確かに描かれてはいるけれど、それは『リアル』じゃない。作り物の感情だ。けどこのヒグマの殺気。これは『本物』そのものだった。
「さっき、あのナタリーとかいう女、オレ達の事『死ぬところだった』って言ってたぜ。ここが全部本物と変わらねー世界なんだったとしたら、死んだらオレ達はどうなっちまうんだろーな」
そう言ってイェンスは口を噤む。
握りしめた拳の中の指先が、やけに冷たく感じた。